2004年 100km Walk
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◆栗尾 成洋(岡山政経塾 二期生)
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「100キロ歩行レポート」
5月2日朝10時、後楽園出発。私は自分が100キロ歩けることを疑っていなかった。
出発から最後尾を歩き、東山の電停ではすでにすぐ前のグループも見えなくなっていた。しかし、皆のペースが速すぎるように思い、全然あせらずゆっくり行こうと小林さん・能登さんと話しながら歩いた。
気持ちよい日差しの中ピクニック気分で歩いていたが、西大寺を過ぎ長船に入るあたりで小林さんに別れを告げ、さらに20分後には能登さんに引き離されそこから一人で歩くことになった。
能登さんとは「ここでペースを上げれば、ばててペースが落ちたほかの集団を追い抜いてゴールができる」と話していたが、実際何人かを途中の道連れとし、追い抜きするのはとても楽しいことだった。このまま政経塾のみんなに挨拶していこうと思った。
しかし、30キロ地点を過ぎたところで急に左ひざに激痛が走った。それまでは歩いている最中もゴールを疑っていなかった。自分は体力もそこそこある。かつて40キロを一気に歩いたこともある。体に持病を言えるものも無く、足の裏は豆ができにくい。歩ききれないわけが無い、と。
そんな考えも膝の痛みですべてが吹き飛んだ。足が前に出ない。ちょっとした下りの傾斜でもふんばれない。普段気にしない5センチの段差があるたびに足から崩れるようになりうめきがもれる。
ここから私の本当の100キロ歩行が始まったように思う。ちょうど日も暮れ始め一人で歩くのが寂しい時間帯になってきた。だが、100キロ歩くつもりなのに40キロも到達しないわけにはいかない。備前の運動公園までつらい道のりだった。何も考えられない、ただ自分自身に「がんばれ、がんばれ」と言うだけだ。
備前運動公園のチェックポイントでリタイアも考えたが、サポートの柳井さんに「とりあえず50キロまで歩け」とはげまされた。この励ましが無かったら本当にリタイアしていたと思う。この声のおかげで再び歩くことができた。
左足はいよいよ痛く、なさけなさに泣けてきた。ひとまず50キロ地点への思いもなえそうなとき、サポートの人たちの暖かい声援が元気を分けてくれた。もしかしたら、その声援を受けること自体が目的になっていったのかもしれない。次のチェックポイントまでがんばろう。空元気でも大丈夫と言おう。
そして50キロまでたどり着いた。心も体も崩れるような道を歩いて来て、そこで本当に心も体も崩れてしまった。ここは自分のゴールではないと思いながらも、なかなか足が出ない。なんとかふんばり歩き出したが、もう100キロ歩ききることはできないと感じた。
最後の道連れは布野さんだった。お馬鹿なことを話しながら歩いていたが、閑谷学校へのアップダウンで足は限界になり、もう下り坂を降りることはできないと判断した。
リタイアは夜中の12時30分ちょうどだった。
その後、後楽園までつれて帰ってもらい100キロ完歩した人を出迎えた。歩ききった人は、体はくたびれきっていたが満足の表情に満ちていた。去年リタイアしてしまった1期生の人たちもたくさん帰ってきた。どの表情も喜びに満ちていた。完歩した人にしかない充実感を感じ、くやしくなった。
自分の限界に挑戦する。100キロ歩く意味をそうとらえたのは皮肉にも膝が痛くなってからだった。そして、リタイア。 限界は体のほうではなく心だったのではないかと思う。翌々日の5月5日には膝はもう痛くなくなっていたから。
限界は自分自身の中にある。よく言われがちなことだが、このことを身を持って経験できたのは大きなことだ。そして来年はこの自分の心の中の限界を超え完歩をめざす。
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