2008年 直島特別例会
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◆春名 宏司(岡山政経塾 六期生)
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犬島、直島、豊島合宿レポート
「過去が今を作り、今が未来を創る」
今回、二回目となった直島特別例会は、最初に訪れた犬島がもっとも印象的だった。
人口の減少と過疎化が進むいわゆる限界集落の島、その犬島が現代アートの力によって再生されようとしていた。
まず最初に目に入ってきた精錬所の大煙突は存在感があった。現代アート「精錬所」に進む順路のカラミ煉瓦は、この度造られたものではなく、元々そこに在ったものだと知った。犬島の銅精錬所は明治末期から大正時代の約10年間に掛けて操業され、犬島に繁栄をもたらした。100年前から変わらない風景、重厚感があり、アーティスティックな建造物に、心が湧き踊った。
柳幸典氏が手掛けた現代アート「精錬所」は、4つのスペースがひとつの作品として展開していた。
入口から出口までが繋がったように感じる通路を歩く私は、まるで過去にも未来にも繋がる今という瞬間を生きている私だった。
そして旧三島邸の建物そのものがアートとなっている三島由紀夫をテーマにしたスペースへ。その出口に驚きがあった。そこには三島由紀夫が1970年、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて起こした、いわゆる三島事件時に残した檄文が壁に書かれ、またアートとして蘇っていた。
現代アート「精錬所」は、過去の遺産をモチーフとしながらも、あくまで前衛的であると考えていた中で、三島由紀夫の檄文そのものがアートとして、現代を生きる私たちにメッセージとして存在することがことが、衝撃的だった。
よく日本は過去に立ち返らなければいけないと言われるが、福武幹事はその三島事件の起きた1970年まで返らないといけないと言われた。
1970年は、日本の国作りに於いて分岐点であったと考えられる。三島事件の背景には、1960年に改正された日米安保条約からちょうど10年目の更新の問題があった。ここで、安保条約改正により憲法第九条改正に繋げ、自衛隊を日本の軍隊として認める最後のチャンスだった。しかし、当時の日本は大阪万博も行われ高度経済成長の真っ只中で、日米安保改正よりも経済成長に目を向け、それに失望した三島の問題提起だったのだ。よく軍隊を持つことで再び戦争の道を辿り、過去の忌まわしい失敗を繰り返すという議論があるが、世界を見回してみても、先進国に於いて軍隊をもつことと、軍事国家であることは当然等しくない。ただ、何かの傘に入るのではなく、自国の防衛は自国で行うという、ごく当たり前のまともな国になるための分岐点であったと考える。
この事は、福武幹事幹事の言われる分岐点の意味の一部分でしかないと考えるが、犬島で、まさかこのような話が聞けるとは、という、予想外の衝撃であった。ここで、再び精錬所の入口から出口までが繋がったように感じる通路を思い出した。歴史というものは今があって、過去や未来が別にある訳ではなく、過去があって、今があり、今があって未来がある。
つまり、それらはそれぞれ別々のものではなく、繋がっているものなのである。現在の日本の状況は、様々な過去の分岐点を経て、その結果として今の状態となっているのだ。そして今行っている判断が、日本の未来を創ることも当然のことである。
これから日本が現在の状況を踏まえた上で、どのような道を進んでいくか、そのキーワードはやはり「より良く強い地域を作っていく」、ことにあると考える。その答えは犬島にもあった。
「在るものを活かし、無いものを創る」、この福武幹事の言われるメッセージが犬島でも充分理解できた。そして犬島のお年寄りの笑顔も素敵だった。私たちが、チャーター船で犬島を発つ前、民謡を披露して下さり見送りしてくれた女性、在本桂子さんは犬島再発見の会の代表をされ、犬島の観光ガイドや講演、また犬島石の本を出版されている方だ。今や元気な犬島の象徴的存在だ。心からの笑顔、活き活きとした表情、有り余るパワー、地域のお年寄りが笑顔になっていく、そして地域の文化、歴史を学び、発信していく。地域作りとは、ものを作ったりするだけでなく、その結果、そこに住む人々が元気になることなのだ。
2010年、瀬戸内国際芸術祭の開催。この芸術祭の会場となるのは犬島を始め、直島、豊島などの瀬戸内海の六つの島々だ。この偉大なる計画の後に、犬島はますます元気に、豊かな島になっていくだろう。
そして、私は誇らしく、人に言うだろう、「犬島は岡山市なんです」と。
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