序論
今回の合宿で最も考えさせられたのは、福武塾長による講演会での「幸せになる方法」についてのお話であった。幸せになる方法、それは幸せなコミュニティに住むことだそうだ。そして幸せなコミュニティとは、人生の達人たるお年寄りの笑顔があふれている場であり、それを可能にするのは宗教でもなく、科学でもなく、現代アートのみであるという。
直島も豊島も、かつて近代化の弊害たる自然破壊が行われた場所である。直島では精錬所からでる亜硫酸ガスにより島の各所がはげ山と化し、豊島は木屑などの無害な産廃を利用してミミズの養殖をすると偽って有害な産業廃棄物を捨てられた過去を持つ。このような暗い過去に反して、今回私が目にした直島、豊島は、美しい海と自然が広がり、それらとアート、住民が一体化した素晴らしい島であった。島には活気があり、国内外から観光客が訪れ、島を走るバスの運転手さんは様々な国の言語でアナウンスをこなす。これらの根底にある現代アートとはいったいどのようなものなのだろうか。どうしてここまでの力を持つのか。直島、豊島で体験したアートを振り返りながら、アートの持つ力について考えてみた。
本論
①直島のアートについて
・地中美術館
地中美術館は、建築家の安藤忠雄氏により設計された施設であり、クロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルの作品が展示されている。この美術館で、私は建築というものの持つ力に強い衝撃を受けた。
最初に面食らったのは、受付と美術館の間に距離があることである。美術館の受付と言えば館内の1階にあるものとばかり思っていたし、移動距離などというのは短ければ短い方が良いと思っていた。しかし、この道があるからこそ非日常的な世界への期待と心構えができるようにも思える。

そしてもう一つ驚かされたのが、モネの睡蓮シリーズ5点が展示される部屋である。廊下を曲がると、純白の空間に突如現れる睡蓮。しかも、自然光に照らされているのである。

私は今日まで、美術館というのは単なる「作品の展示場所」とばかり考えてきたが、この地中美術館は美術館と作品がお互いを高めあっているように感じた。建築がアートの一部であり、またアートが建築の一部となっている。壁の傾きにも、何気なく歩く道にも、窓や明かりとりの位置や形にも、中庭にも、壁の寸法にも、よくもこれほど考えたものだと驚かされるような細やかな気配りがなされており、アートとはかくも驚愕させられるものなのかと感心するばかりであった。
・家プロジェクト
家プロジェクトは、点在する空き家を現代アートとして生まれ変わらせようという計画である。古い空き家があれば、壊して新しいものを作るか、そのまま残して町並み保存地区のような地域を作るかが思い浮かぶが、家プロジェクトはそのどちらとも違う。「在るものを活かし、ないものを創る」という言葉が思い出された。
家プロジェクトの第1号は、宮島達男氏の「角屋」である。その中の作品の一つ「シー・オブ・タイム‘98」は、家の中にあるプール状のスペースに水を入れ、その中にLEDで1~9の数字をカウントするカウンターを複数配置したものである。このカウンターのスピードは、島に暮らす人々が設定したという。これが、島の人々とアートが交わるきっかけになったらしい。
家プロジェクトを巡っていて最も印象的だったのは、「南寺」での体験である。順番を待っていると、先に入っていた小さな子供が、「ああ楽しかった」と言って出てきた。見れば、出てくる人は老若男女国内外を問わず、皆笑顔で満ち足りた顔をしている。そして自分の番となり、作品を見終えて南寺を後にした私の顔も自然ほころんでいた。アートというものの影響力を強く感じた出来事であった。
・ベネッセハウス
ベネッセハウスは、現代アートの美術館とホテルが一体化した施設で、ここも安藤忠雄氏の設計である。しかし、地中美術館は作品と美術館が調和していたが、ここでは作品と美術館の激しいぶつかり合いのようなものがみられる。自然光を取り入れるための窓をふさぐように作られた作品、純白の壁に泥を塗った作品、美術館の枠を飛び越え、遠方の崖にまで拡張された作品。作家それぞれの強い意志が感じられた。
・豊島美術館
海と棚田広がる丘の上に立つこの美術館は、地中美術館で砕かれた美術館に対するイメージの残滓をまとめて洗い流してくれた。ドーム型の空間に明り取りが大きく2つ開いており、床からは地下水が湧き出ている。人々はこの空間の中で、思い思いに過ごしていた。座り込んでいる人、座禅を組む人、寝転ぶ人。普通、美術館で他者というのは作品鑑賞の上であまりプラスに働くことはないと思う。作品の前に人だかりができれば見づらくなるのが道理というものであるが、ここは人も作品に溶け込んでいるように感じた。水の動き、光や風のみならず、そこにいる人々の動きまでもが、作品の変化の一部のように感じられる。一日中でもいられる素晴らしい作品だった。

・心臓音のアーカイブ
豊島東部にある作品で、心臓の鼓動を録音し、その鼓動に合わせて電球が点滅する「ハートルーム」と、録音した心音を検索し、聴くことができる「リスニングルーム」がある。正直なところ、訪れた際はその面白みが分からなかった。場所はバス停からも離れており、自転車を借りたとはいえ炎天下に行くのは難儀した。しかし、このレポートを書く際記憶を反芻していると、あることに思い当たった。録音した心音は、たとえその主が死んだとしても残り続けるのである。心音とそこに残されたメッセージは、墓標よりも明確に生前の姿を映し出し、残された者に在りし日の姿と言葉を伝えてくれることだろう。そう考えると、この作品の凄味の一端が見えたような気がする。
・豊島横尾館
家浦港付近にある豊島横尾館は、横尾忠則氏と永山祐子氏の作品である。極彩色の庭を赤いガラスを通して見たり、ガラス張りの床を歩いたりしていると、何やら認識がおかしくなってしまいそうだ。思えば、地中美術館や家プロジェクト、心臓音のアーカイブにおいても、人間の五感による認識に様々な角度からアプローチしていると感じた。アートとは「見る」ことにとどまらず、五感や身体の動きなど様々な部分で感じることができるのだと改めて気づかされた。
②現代アートの持つ力とは
本論の①で、今回体験した様々な現代アートについて振り返ってきた。その中で私がアートによって心動かされ、不思議に思った理由について考察してみる。
・空間的な距離
地中美術館や家プロジェクト、心臓音のアーカイブ等で感じたことである。私のような俗な人間は、近ければ近いほど楽で良いなどと思ってしまったが、思い返せばその道程もまたアートの一部なのかもしれない。心臓音のアーカイブでいえば、亡くなった知人の心音を聴きに行くのに島の道を歩くうち、故人もここを歩いたのかという感傷に浸ることもできるし、思い出を振り返る時間にもなりうるだろう。また、家プロジェクトならば島の人々が暮らす町の中を歩くことで、島と人とアートの一体感が得られる。もし自分が直島に住んでいたならば、自身の住む町を目当てに歩いて来てくれる人がいるというのはとても誇らしいように思う。地中美術館では、睡蓮の咲く庭を眺めながら歩くことで、これからアートの中に身を投じるのだという心の切り替えが可能となる。世の中がどんどん便利になり、運転も自動化するという昨今だからこそ、自身の肉体を使って進むという行為には単なる移動以上の意味があるように思えた。
もっと言えば、この空間的距離というのは直島豊島自体にも当てはめることができるだろう。私は最初、直島のような交通の便がお世辞にも良いとは言えない場所で現代アートを展示するよりも、東京のような空港等からのアクセスも良く、人口も多い場所でやった方がより多くの人が訪れるのではないか。何故このような陸続きですらない場所なのか、と訝しんだものだが、島という隔離された場所に、何時間もかけて足を運ぶからこそ、現代アートを受容する心構えが構築されるのではないだろうか。
・変化
自然光を取り入れることによって、パーマネントな作品も時間や天候によってその表情を変える。周囲の人数や、自分が誰と訪れたかによっても感じ方はきっと変わることだろう。難解な現代アートだからこそ、次に観た時はきっと違う感想を持つことができるだろう。そういった変化が、豊島美術館で感じた「一日中でもいたい」という気持ちを生むのだと思う。
・特別さ
絵画や彫刻というのは、極論どこでも見ることができる。お金があれば買って自宅においても良いだろうし、近所の美術館で「〇〇展」などといった風に特別展示されるのを見に行っても良い。しかし、直島豊島の作品はこの地と一体化している。モネの睡蓮は、地中美術館と一体になっているからこそあれ程強い感動と衝撃を覚えたわけであるし、作品の中には家プロジェクトやベネッセハウスの壁に描かれた作品のように動かしえないものもある。超一流の作品があって、しかもそこでしか見られないというならば、例え海外からでも、この島まで来る価値があるだろうと思う。
・地域との融和
家プロジェクトや心臓音のアーカイブで感じたことである。自分たちが暮らしてきた家屋が、自分が設定したカウンターが、自分の心臓の鼓動が、世界中の人々から評価されるというのは凄いことだと思う。その評価は自信につながり、自信は誇りへ、誇りは向上心へという風につながっていくことで、島の人々自身が自分たちの島をより良くしようと思うようになっているのではなかろうか。また、直島銭湯I♡湯で働く方とお話した際、銭湯の見どころについて本当に楽しそうに語ってくださっていた。もし見ず知らずのアーティストが一人で作った作品のことであれば、あれ程楽しそうに語れるものだろうか。自身が働き支える場そのものが作品であるからこそ、あのように嬉しそうに語れるのだろう。
・一方通行でないこと
これまでの美術館では、ただ作品を視覚から受け取る一方通行であったのが、ここでは作品と自分との相互作用が生じているように思った。先日徳島の阿波踊りに参加してきたのだが、総踊りやにわか連といった風に、阿波踊りをただ見るのでなく自分もその楽しそうな輪の中に入れる機会が設けられている点に魅力を感じた。インターネットやVR等、様々な刺激や情報のあふれかえる現代だからこそ、こういった一方通行でないものの魅力が光るのではないかと思った。
結論
現代アートによって、直島豊島は何故幸せなコミュニティになったのだろうか。私見に過ぎないが、それは自信と活力であるように思う。自分が幼いころから過ごしてきた土地や家屋が、現代アートによってその魅力に磨きをかけ、世界中から人が集まってくる。これほど誇らしいことがあるだろうか。そしてこれは、ダヴィンチやピカソの名画を飾る普通の美術館を新築するだけでは感じられないことだろう。そのような美術館は、いくら展示物が素晴らしくても、そこに住まう人々からすれば「外来種」である。そんなものをいくら評価されても、自分への自信には繋がらないように思う。自分たちが愛した地と一体になった地中美術館や、自分たちがかつて暮らしてきた家屋を生まれ変わらせた家プロジェクト。その中でも特に、自分自身が設定したカウンターがある角屋。こういった「島生まれ島育ち」のものが評価されてこそ、そこに住まう人々の自信につながり、そしてそれを自分たちでより良くしようという活力につながるのだと思う。個性と魅力ある地域には、自然と自信と活力が生まれる。岡山をそのような自信と活力ある地域にするために、今後も研鑽を続けていきたい。
最後になりましたが、今回このような素晴らしい学びの機会を与えてくださいました関係者の皆様に厚く御礼申し上げます。