2005年 100km Walk

 
◆山田 浩三(岡山政経塾 2期生)

「あぁ100キロ歩行」



なにより・・
 100キロ歩行のサポーターの皆さまに感謝。小山事務局長の存在感に感激。西原幹事の笑顔に感動。完歩はできませんでしたが、自分に突きつけられた課題を持って帰ります。


5月5日 午前9時
 顔を洗う。鏡に映ったひげ面のおっさん顔に、よだれの跡。
 「よく寝た、24時間参加した、歩けなかった。今年のチャレンジが終わった」
 爽快感はありませんが、回復しつつある疲労の中で、刻み込まれた記憶を反芻し続けていました。

思えば〜これまでの軌跡
 昨年は30キロで貧血のためリタイア。くどいようですが、なんと恐ろしく、惨めな出来事であったことでしょうか。しかも病院を出たのが午後6時過ぎで、明るいうちに帰宅。この明るい時間帯でのリタイアがどれだけ情けないものとして1年間引きずっていたか、おそらく皆さんにはわからないでしょう。
 昨年末から歩きはじめ、当初は約10キロの道のりでも足が痛くなったり、重く感じたりしていましたが、その他のトレーニングを欠かさず行うことで、楽に歩けるようになっていました。柳井モデルを参考にし、4月は週6日歩きました。日曜に歩く20キロでも足の痛みも、重さも、マメもなくなりました。
 そうです、「今年は100キロ歩いて、あのテープをきる」ことだけを考えていました。
 貧血対策はバッチリ。栄養・水分補給も準備万端。夜間歩行に備え、当日を迎えました。

5月3日 午前8時
 嫁さんに後楽園まで送ってもらいました。「今日は何時に帰ってくるの」と言われて。

スタートしてから〜
 誰と歩くことも、話すこともせず、ペースを大事にして歩きました。
 憎き想い出の30キロ飯井交差点も予定通り。この頃、「ゴールしたら柳井さんにお礼をなんて言おうか」なんてことを真面目に考えながら歩いていました。
 備前体育館では、余裕のうん○をし、赤いパンツの効果を感じながら歩いていた私でしたが・・45キロの手前で右膝に違和感、関節の引っかかり感に冷や汗。気持ちの処置でも湿布を右膝に張りまくり、サポーターをはめました。
 両膝を2回ずつ手術し、左膝前十時靭帯を完全断裂しているため、実はまっすぐに歩けないのです、このおっさんは。ここで天を仰ぎました。星があまりにも綺麗でした。
 布野さんに抜かれ、穂浪橋では茫然自失に近いボチボチモード。右膝から左腰に負担がきました。あとは何時まで歩けるか、24時間挑戦したいが・・
 もう柳井さんのことは頭にありません。あまりにも真っ暗な初めて経験する夜の閑谷学校を、寂しくて連れを求めた私は村松さんと歩きました。ありがとう村松さん。
 野犬の声を聞きながら、吉永のローソン手前でギックリ腰の予感。61キロであきらめました。

後楽園
 午前5時にサポートの小阪さんと垰さんに連れて帰ってもらいました。
 お恥ずかしながら、憧れていたゴール地点です。リタイアしましたが、今年はこの場所にいることができました。
 先頭の加来田さんを始めとして、続々と帰ってくる挑戦者たち。
 正直に「おめでとう」と素直に言えましたが、すぐに去年経験できなかった悔しさと複雑な気持ちが湧いてきました。横田さんの気持ちがわかり・・少しはわかります。
 完歩した人の嬉しさも、リタイアした人の無念さ胸に突き刺さりました。

100キロの神様
 10人いれば10通りのドラマがあると思います。
 天を仰いだときから、「自分は何を学ぶべきか」を考えてきました。人が聞いても受けが良いだろうなという言葉ばかりが浮かびました。もっとドロ臭いものであるはずです。
 そして、「まだまだお前さんを認めるわけにはいきませんな。100キロということだけではなく、お前さんは努力が足りません。もっと周りから学びなさい、見つめなおしなさい。自惚れを捨てなさい。原点に戻ることですわ」が届きました。
 無我の精神 
 感謝の心

 あらためて自分が恥ずかしくなったイベントとなりました。