2006年 100km Walk
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◆村上 俊樹(岡山政経塾 5期生)
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岡山政経塾100km歩行レポート
「100km歩行レポート」
100kmを歩く前と100kmを歩いた後で自分の中で何かが劇的に変わったかと言われると、特に何も変わることはないように思います。ただ、長時間歩いている間にさまざまなこと考えていました。普段ゆっくりと自分の思考体系や言動について考えることをしていなかっただけに、自分自身のことを見直すとても良い機会になりました。
以下では100kmを歩いているときに考えていたことや景色を見て感じたことを述べていきたいと思います。歩きはじめは周りの移りゆく景色を楽しみながら歩いていました。岡山では5月の上旬になっても田には稲の苗はほとんど植えられておらず、麦が青々と田の中に生い茂っていました。私の郷里では5月の上旬には、稲を植えるための準備がされて田には水が張られています。地域によって育てる農作物が異なること、そして同じ作物を育てるとしても時期がずれていることに少し興味を覚えました。また岡山には企業の工場が多く存在していることにも驚きました。有名企業の工場や地場企業の工場等々。岡山県の水島地区には日本でも指折りのコンビナートが存在していることは以前から知っていましたが、東にもさまざまな企業があることを知りました。日生の辺りを歩いているころに日が沈み始め景色が見えなくなってくるといろいろなことを考えるようになりました。このときに感じたことは人は視覚等の感覚によって得られる情報によって、その思考の大部分が占められているのではないだろうかということです。日中、考え事をしていても視覚に限らずさまざまな感覚から得られる情報によって左右されることがあるように思います。物事を考えるときに如何にして余分な感情や情報を排除していけるかということが非常に大切であると感じました。この思いをさらに強くしたのは閑谷学校に着いて休憩しているときでした。津田永忠が彼の地に学校を設けた理由が少し分かったような気がしました。閑谷を超えて吉永町のローソンから万富のサンクスの間では自分の力を過信していたことを思い知る10kmでした。まだまだ歩けると頭では考えていたにもかかわらず、先に体が異常を訴え始めたときには自分の現状を認識する力がまだまだ未熟であると痛感しました。そして残りはサポートの方々の応援と一緒に歩いてくれた忠澤さんの助けと気力で歩きました。しかし100km歩行で最も過酷であった時間から学んだことはとても大切なことばかりでした。人は他人の言動や考えることに触れることなしに過ごすことは不可能であること。他人の言動や考え方に触れることで自分を客観的に評価することができる。客観的に自分を評価すると自分に足りないものがよく見えるといったことです。足りないものは補えるようにまず努力すること、そして限界を超えて物事に挑戦するときは決して諦めてはいけないことを知りました。何よりも大切なことは人からの忠告には素直に耳を傾けると、自分に足りないものを補うきっかけは容易につかめるということです。
100km歩いてすぐに自分自身が何か変わることはありませんが、今後の人生において100kmから学んだことを生かしてさらに成長していくことができると強く思っています。最後になり恐縮ですが、100kmにて応援・サポートをして下さった幹事・事務局長・サポーターに皆様に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
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