2006年 100km Walk

 
◆本郷 友子(岡山政経塾 3期生)

岡山政経塾100km歩行レポート
「サポート隊としての100キロ歩行」



幼い頃から運動が好きだった私は、自分が持久力を必要とすることが苦手なことを友人に気付かれるのが恥ずかしかった。

今考えるとどんな競技にも必要なものであるにも関わらず、自分がわずかばかり平均より足が速かったり、遠くへ跳ぶことが出来ることが、他に特にとりえの無い自分には、とても重要なことだったのだと思う。

夏は水泳。
六年生は百メートルを平泳ぎとクロールで泳ぐことが課題だった。
陸では、半分の五十メートルは八秒弱もすればたどり着く。たかが倍の距離である。息継ぎをうまく出来なかった幼い私には果てしない距離だった。

冬はマラソン。
朝になると、一休さんのテーマソングから始まり、愉快な曲が終わり終盤、戦艦ヤマトの曲の頃には私は舵のきかない船のような動きになっていた。

六年の恒例マラソン大会。
沿道にたつ先生方や見知らぬご近所の方が体操着のゼッケンをみて名前を呼んで応援して下さった姿を背に私は完走し、六年間の苦痛のマラソン大会の幕を閉じた。
自己最高順位記録を更新し、応援の力の大きさと、自分のチャレンジを誇らしく感じたのを記憶している。



さて、今年の100キロ歩行である。
私は昨年、多くの方のお陰で完歩させていただいた。サポート隊として参加の今年、何が自分に出来るかを考えていた。多くの方は、100キロを歩くことが得意ではないはずである。完歩された方で、うっかり100キロあるくのが得意だとプロフィールなどに記されている方がいらっしゃったとしても、歩かれる前はやはり不安だったのではないかと思う。

この不安を解消する為に、チャレンジャーは練習を積み重ねる。しかし一番不安だったのは、やはり辛く苦しい道中だった事を私は記憶している。自分がチャレンジした昨年は、常に笑顔で歩くことをこころがけた。(最後はいつにもましてひどい顔でなきそうになっていたのは否めませんが…)それは、不安を自ら紛らわせる為であり、サポートの方に対する小さな意地のようなものだったのかもしれない。
スタートのその瞬間、準備は万全と思っていても、未知の痛みや寒さは不安を呼び覚ますものだ。果たして自分はゴールできるのか。そんな不安との戦いが、後半、気持ちを折り曲げにかかってくる。かつての私にとっての戦艦ヤマトのテーマソングに似た重さで…。

そんなときサポートの人間として私には何が出来るか…、私はただ、『私はあなたのチャレンジをとても大切なものとして見守っています』という気持ちを伝えることが大切ではないかと考えた。自分の限界、特に肉体的なものなどできれば気が付かないでいたいものだと思う。それに挑戦する100キロ歩行は、自分をよりよく知ることであり、自分を成長させるきっかけになったと考えている。このチャレンジはまさに自分の一つの限界を知る行為であり、とても重要なことだと感じている。

チャレンジャーの名前を呼ぶこと。
ただ、『頑張ってください』というのではなく、
『〇〇さん、この先で待ってますね。頑張って!』
『〇〇さん、この先暗いからライトを早めに用意されたほうがいいですよ』など…
その思いは伝わったかどうか、単に自己満足に過ぎないもかもしれないが、何かにチャレンジし、それぞれのゴールに向かう人は皆さんの姿はすばらしいと感じる。その敬意を表現したかった。それが、かつて小学生の私の背中を押したものであり、私の出来る一つの、サポートの形であるという結論である。



おかげで私は、みなさんの顔と名前が一致する。歩く姿は本当に素適だった。ただ、苦痛に顔を歪めたり、前を向き、ひたむき歩く姿に胸をときめかせていたのは、甲子園球児が、ユニフォームをきてグランドに立っているとき素適に見えるのと同じ現象だろうか…とひそかに考えている。