2008年 100km Walk

 
◆三宅  雅 (岡山政経塾 5期生)

岡山政経塾100km歩行レポート
「一つの極点、そして未来へ」



 昨年は1サポート隊員として参加し、後のレポートの締めくくりで
  「この良き伝統が、より良く、無事息災に続きますように」
と記した。

 今年は、まさにそれが実現したすばらしい100km歩行だった。一つの極点(といえば大げさか)に達したとさえ言えると思う。現役生全員24時間100km完歩、リタイア者無し。少々出来すぎ、とも言えるかも知れない。それほどの成果であったと素直に思う。

■裏の裏
 今年はサポート隊副隊長として、裏方の、そのまた裏方に徹した年だった(裏の裏は表?じゃなくて)。序盤は、今年デビューの追跡サポートシステム「100kmくん」の立上げとチューニング、中盤前半はサポートメンバーの足代わり、中盤後半以降はずっと最後尾の善木さん(2期)のサポートに徹した。源隊長の指示ではあるが、同時に、全員完歩という大目標からすれば、最後尾であるここが最前線という覚悟で臨んだ。

 しかし、そこまでの気構えは不要であったかと思う。既に4回目のチャレンジとなる善木さんの不屈のチャレンジ精神もさることながら、序盤熱中症気味で大幅なペースダウンとなったにも拘わらず、最後まで彼の表情にはリタイアという文字は念頭にないことが明確だったからだ。従って、暗闇の先に少しずつ回り、少しだけ照らす、という黒子に徹することにした。あえて言えば、最大の敵は睡魔だった。そういえば今年は黒子部隊が出没したと聞く。拝見できなかったのが残念だった。その代わり(?)、備前の山間の夜陰にまぎれる鹿の姿を見た。地元では結構農作物被害で困っているらしいが。

 前半のタイムロスがなく、後半のペースなら余裕で24時間100km、出来てましたね、善木さん(再チャレンジは??)。平島交差点までもう少し、という約85km地点でタイムアウトとなり、残りのコースを辿りつつ、ゴールへ送った。24時間完歩、お疲れ様でした。

 そうした訳で残念ながら、24時間100km完歩・ゴールインされた皆さんと感動を共にすることは出来なかったが、全員完歩、リタイア者無しという偉業に貢献できたことを素直に誇りに思う。

■夜の夢
 長いようで短いような、静かな夜、いろいろなことを考えた。岡山のこの地で、100kmを歩き続ける意味、などについてだ。以下、寝ぼけ頭を廻らせた余談。

 近世以降の岡山の経済基盤、教育精神の根本を築いた津田永忠を訪ねる、現在の岡山政経塾100km歩行が「東の100km」と言えるならば、将来次のようなバリエーションはどうだろう。かつては古代大和政権を脅かすほどの興隆を誇り、歴史をはぐくんできた古代吉備王国の跡を訪ねる「吉備路」、そして藩政改革の範であり閑谷学校の再興にも寄与した「山田方谷」を訪ねる「西の100km」。郷土の誇る海運、観光資源の中核、瀬戸内海、現代産業の一大拠点「水島」、現代科学技術の粋を投じた瀬戸大橋、現代芸術の世界的発信基地である直島、それらを訪ねる「南の100km」。

 時間を適切に設定し、気象条件に恵まれれば、朝靄や夕靄に浮き出る吉備高原や瀬戸内海の幻想的な風景の数々を目の当たりにしながら訪ね歩く(気力体力的にそんな余裕はないかも知れないが・・・)、絶好の機会になることも考えられる。それらを毎年、順に繰返し、伝統を作り上げていく。もちろん困難な事業であろうが、今日の「東の100km」を築き上げた1期生以降の努力や経験の蓄積が今年の成功であるとすれば、現在そして将来の塾生に同様なことが出来ないはずはない。

 かつて英国の名宰相W.チャーチルは言った。
  「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう」
混迷の時代、と言われる。しかし、日本の歴史上、きっちりと明日が見えた分かりやすい時代がどれだけあったか。勉強不足の一部マスコミや評論家の妄言ではないのか。我々の先達は、同様な困難な状況に何度も遭遇し、なんとか切り抜けて今日に繋げてくれているのではないのか。我々の辿るべき郷土の道程に際限はないものと信じたい。


 24時間100kmm歩行に携わった事務局、実行委員、サポーターの全ての皆様、お疲れ様でした。そして、ありがとうございました。今年も、思いを新たに記します。
  「この良き伝統が、より良く、無事息災に続きますように」