2011年 直島特別例会

 
◆西村 公一(岡山政経塾 七期生)
岡山政経塾  直島特別例会レポート
  『岡山政経塾直島合宿を未来に生かすために』



桜梅桃李(おうばいとうり)(現代アートから体感したこと、その1)
 「人間はみんな違うのだということが芸術の根拠である」と瀬戸内国際芸術祭2010総合ディレクターの北川フラム氏は話されました。確かに、現代アートを前にすると、世の中には、いろいろなことを考える人がいるものだと感じます。
 人は「違い」を認めたがらない生きものであり、特に日本の社会は、異質なものに拒絶反応を示しやすい傾向があるようです。お互いの違いを認め合いながら、うまく共生していくことができれば、随分と住みやすい社会になるでしょう。
 桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李と、そのままの姿で、それぞれの個性に従って咲き誇ります。同じように人間も、個性を無理に変える必要はなく、ありのままに自己の豊かな個性を花開かせていけばいいという原理を「桜(おう)梅(ばい)桃(とう)李(り)」と言うそうです。 
 人はだれにも長所もあれば短所もあります。でも、自分の性格や生き方を急に変えることは何かと難しいものです。人に指摘されて、自信をなくし、自己嫌悪に陥ることもあるでしょう。そのような時に現代アートは、「ありのままの姿でいいよ。自分を変える努力は大切だけれど、無理はしなくていいからね。同時に他人の多様性にも寛容で、懐が深い人間になれたらいいね」と静かに語りかけてくるように感じます。


継続は力なり(現代アートから体感したこと、その2)
 現代アートは分かりづらいものが多いです。しかし分かろうとするから分からないことが分かるのでしょう。直島の現代アートに触れる機会は今回で七回目になりますが、不思議なもので、回数を重ねるごとに、少しずつですが、理解が深まっているように感じます。分かろうとすることを諦めてしまったら、いつまでも分からないままになってしまう。これはとても勿体ないことです。
 釘を打つ時のことを考えてみるといいと思います。堅い厚い板にきちんと打ち込むためには、トントントンと何度も打たなければなりません。あせらずに何度も打ち、一回だけ金槌で思い切り打って、それっきりにするということはありません。
 現代アートに接するときも、同じ要領でいいのではないでしょうか。あせることなく、何度も何度も心に打ち込んでいく。そのうちに心の奥の方で、カチリと何かを感じる瞬間がやってくるのではないでしょうか。一回鑑賞して満足してしまう「ヤワな心」ではダメで、現代アートを理解するには、繰り返しが必要であると感じています。


政治の責任(豊島で考えたこと)
 「豊島産業廃棄物事件」における住民の戦いは、廃棄物を島外に撤去させ、美しい島を取り返すことに成功しつつあるというにとどまらず、私たちの社会が目先の利益を追い続ければ、取り返しのつかない結果を招くことを、多くの人に知らせることになりました。
 そして「使い捨ての社会」から「廃棄物を出さない循環型の社会」に向かうべきことを社会の共通認識とすることに大きな役割を果たしました。
 また豊島住民は、国や県を無条件に信頼し依存してはならないこと、県などの誤りに対しては、住民の力でそのことを認めさせ、是正させることが可能であることを社会に示しました。すなわち社会的弱者であっても、その要求に道理があり、広範な人たちの支援を得れば、国や県を動かすことができることを多くの人に知らせることになりました。このような豊島住民の運動が、世間の不条理に泣いている人々の心に金字塔を打ち立てたことは間違いありません。
 しかしながら、豊島問題を単なる美談として終わらせてしまっては、これからの地方、日本は何もよくなりません。また不法投棄された豊島の産廃を処理するために600億円もの血税が投入されることへの国民の理解を得ることもできません。
 豊島問題を今後の生きた教訓とするためには、この問題が発生した究極的な責任がどこにあったのかについて、しっかりと見極める必要があります。産廃業者に責任があったことは明白な事実です。しかし豊島問題がここまで大きくなってしまった究極の責任は政治にあります。産廃業者への指導監督義務を怠った香川県知事、産廃問題に逃げ腰だった香川県警察、このような行政や警察を放置した香川県議会や国に責任が問われてしかるべきです。政治は結果責任を問われなければなりません。しかし豊島問題において、政治は何の責任も問われないまま無罪放免されています。これでは豊島と同じような問題が再発する恐れがあります。産廃処理費用の600億円については、知事や県議会議員等に連帯責任を認め、その一部を損害賠償させるべきだと考えますが、そのような世論は全く聞こえてきませんし、マスコミも取り上げようとはしません。
 今こそ「責任を問われない政治」から「責任を問われる政治」へと方向転換しなければなりません。そうでなければ、住民は安心して暮らすことができません。
 地方の問題に地方の住民が立ち上がり、立ち向かっていくことは、地方自治の視点からも理想的な姿ではありますが、政治がその責任を放棄してもいいという口実にはなり得ません。そもそも政治は住民に過分な負担を強いてはならないはずです。豊島問題を冷徹に分析し、政治に責任回避をさせないように仕向けていくことが、豊島問題から学ぶべき最も大きな課題だと考えます。


最後に(いい地域に住む幸せ)
 お年寄りたちが現代美術に馴染み、島を訪れる若い人々と笑顔で接してドンドン元気になり、島全体がお年寄りと若者の笑顔であふれるようになった直島を見て、「人間は、幸せな地域のなかに居なければ、本当に幸せにはなれない」と感じています。
 では、幸せな地域をつくるために、私たちは具体的に何をしていけばよいのか、これからの岡山政経塾の学びの中で模索していきます。