2011年 直島特別例会

 
◆油田 洋幸(岡山政経塾 八期生)
岡山政経塾  直島特別例会レポート
  『「善く生きる」を考える』



1.はじめに
  直島例会の目的は、「見る・聞く・体感する。考える力を身につける。発想の転換をする。」です。今回は「考える」ということに、特に「善く生きるを考える」ということに焦点を置いて直島例会に参加しました。というのも、前回の直島例会で、福武幹事が直島に「善く生きるを考える場所」を創りたかったということを知ったからです。加えて、前回のレポートで自分自身も、今一度「善く生きる」ということを考える、ということを自らの課題として挙げていたからです。
 このレポートでは、人間が「善く生きる」とはどういうことか、このことについて考察したい。


2.すべての問題は「善く生きる」をどのように考えるかに帰着する
  話は私が現役塾生の時にさかのぼります。私が現役塾生のときに一番印象に残った小山事務局長からの教えは「政治家に哲学がない!!」という指摘です。そこから、「哲学」についてよく考えるようになりました。始めのうちは「政治の目的」、「選挙」、「福祉の定義」など各種政策の定義をよく考えました。その後、そもそも「哲学」とは何か、ということで西洋哲学について各種の書籍を熟読するようになりました。
 さらに、現役塾生のときに松下政経塾へ訪問した際に、松下幸之助の理念について考える機会を頂きました。松下幸之助の理念については、松下政経塾を訪問しただけではなかなか解らず、松下幸之助の書籍にあたっていろいろと調べました。その結果、「人間観」という結論に至り、そこから「人間とは何か」ということについて考えるようになりました。歴史的にみて人間について深く考察しているのは東洋哲学ですので、そこから、東洋哲学について各種の書籍を熟読するようになりました。
 このように、始めは「哲学」と「人間」について分けて考えるようにしていたのですが、思索を深めていくにつれ、「哲学を考えること」と「人間を考えること」は、完全にイコールであることに気づき始めました。というのも、遠い紀元前の昔の政治にしろ、現代の政治にしろ、政治を突き動かしているのは何かしらの「哲学」(封建主義(儒学)とか資本主義)であるのですが、その哲学は人間を如何にとらえるかの違いです。例えば、ある国で「優れた人間と劣った人間がいるのだから、政治の意志決定は優れた一人の人間がするべき」という人間観が大勢を占めれば、その国は君主制になるでしょう。
 さらに思索を深めていくと、「人間を考える」ということは、つまるところ、「善く生きる」を考えることに行きつきます。即ち、人間はどのように生きれば幸福になれるのか、何のために働くのか、家族はどのようにあるべきなのか、人間の集合体である国家とはどのようにあるべきなのか、これらのことを考えることと同じです。例えば、「老後は仕事をしないで好きなことをして生きるのが人間にとって幸福な生き方だ」という人間観が大勢を占めれば、その国では、国民の要望を手助けするために年金制度という政策が実行されるわけです。このように、「哲学を考えること」は、「善く生きることを考えること」と同義であり、現代日本の問題の原因が「哲学の欠如」にあるとするならば(実際それは正しいと考えます)、それは、我々日本人が「善く生きる」ということをしっかり考えてこなかったということです。


3.三聖人について
 では、「善く生きる」とはどういうことであろうか。とりあえず、色々な人に聞いてみました。例えば、「起業して日本一の会社を創ること」、「好きなことを仕事にすること」、「貧乏でいいから健康であること」、「仕事で認められて出世すること」、「好きな人と一緒になること」などなど様々な答えが返ってきました。中にはおもしろい答えもありました。当たり前と言えば当たり前なのですが、現代に生きる我々だけでなく、いつの時代も皆、生き方に悩み、一生懸命、必死に生きていることを改めて確認しました。しかし、これでは埒が明かないので、紀元前の昔から人びとの生き方の模範になり、そして今なお我々の心を打つ名言を残す三聖人について考えることにしました。三聖人とは、ソクラテス、仏陀、孔子のことです。東西の古典を読んでいて気付いたのですが、実はこの三人は皆、共通して「善く生きる」ことについて説いていることに気付きました。

3-1.ソクラテス〜善く生きるとは、正しく生きることだ〜
 三聖人の中で、我々日本人には馴染みが薄い人物ではありますが、「善く生きる」と聞いて思いだすのはソクラテスだろうと思います。というのも、倫理の授業で最初に習うのはソクラテスであり、「無知の知」、「善く生きる」のフレーズは教科書に太字で書いてあります。でも、実際に「善く生きる」ということをソクラテスがどのように考えていたのかは知らない人が多いのではないでしょうか。
 「善く生きるとは、正しく生きることだ」というのは、ソクラテスが死刑判決後に老友クリトンとの会話の中で話した言葉です。どのような文脈でこの言葉が語られたのかを明らかにすることが重要です。
ソクラテスが生きた古代ギリシアは、現代日本と同じような問題を抱え、その場のノリで政治決断が下るような民主主義とは名ばかりの衆愚制に陥っていました。その中で、ソクラテスは当時の有力者に論戦を挑み、ことごとく論破してまわりました。このことによりアテネの若者たちから絶大な支持を集める一方、政治家達からは怨まれます。結果、政治家たちに怨まれたソクラテスは裁判にかけられ死刑宣告を受けます。その様子は『ソクラテスの弁明』に詳しく書かれています。牢獄の中で、ソクラテスは友人から脱獄を何度も勧められます。しかし、ソクラテスは脱獄を是とせず、死刑を受け入れ毒杯を飲み干します。この辺りは『クリトン』に詳しく書かれています。上のセリフは『クリトン』の中で語られたセリフです。ソクラテスは、子供の養育や自身の生命などを理由にしたあらゆる説得に対して、次のようなことを言っています。「子供をも、生命をも、その他のものをも、正義以上に重視するようなことをするな」。
 ソクラテスは、昨日まで正しかったことが、次の日には正しくなくなるような社会、事の本質を吟味せず、その場のノリで物事が決まってしまう社会、要は、筋の通らないことがまかり通る社会に対して反旗を翻した人だったのでしょう。その志はプラトンやアリストテレスに受け継がれます。これがソクラテスの生き方でした。

3-2.仏陀〜善く生きるとは、善く死ぬことだ〜
 仏陀は善く生きるということは、善く死ぬことだと示した人です。皆さんご存じの通り仏陀は仏教の開祖です。現代の仏教のイメージというと葬式のイメージが湧く人が多いのではないでしょうか。この宗教心が薄れた現代日本で、未だに日本人が葬式だけは仏式で行うというのは、仏陀が善く死ぬことを示したことと無縁ではないように感じます。実際に仏陀が、言葉で「善く生きるとは善く死ぬことだ」と述べたわけではないのですが、仏教を勉強すると皆この答えに行きつくのではないでしょうか。というよりも、仏教では「死」というものを「涅槃(悟りと同義)」といって重視します。
 そもそも全ての人間に等しく与えられた「死」ではありますが、その内容は様々です。仏陀のように肉体が死してなお後世の人びとの心の中で生き続けるという「死」もあるわけです。日本では空海がそれにあたるでしょう。ここでは、仏陀自身はどのように死んでいったのかを明らかにすることが重要です。それは上座部仏教の原始仏典の中のマハーパリニッバーナ経(大般涅槃経)に詳しいです。
 まず、仏陀が生きた時代のインドという国はカースト制度という他に類を見ない厳格な身分差別があり、奴隷の身分に生まれれば一生奴隷として生き、親や子が売られていくのを黙ってみているしかない、虫けらのように死んでいくしかないような社会です。仏陀自身は王族の身分として生まれますが、それらの厳しい現実に王族の身分として対峙したのでしょう。仏陀は息子が生まれた直後出家します。そして、修行に励み最初に知ったことは、「人生は苦しみである」ということです。そして、その人びとを苦しめる「苦しみ」の本質は何か、それを取り除くにはどうしたらよいのか、ということを悟るために仏陀は修行に励んだのです。その後、35歳にして悟った仏陀は、自身の死(入滅)の直前まで伝道の旅を続けます。仏陀はチェンダという男の料理を食べて食中毒を起こし死んでしまうわけですが、死を目前にしてもチェンダが料理を出したことを悔いたり、また人びとが仏陀を死なせたとしてチェンダを責めたりしないように、チェンダの果報を讃えたそうです。最後の最後まで自分以外の人の為に慈悲の心を持って生き続けたのが仏陀の生き方でした。

3-3.孔子〜善く生きるとは、徳を積むことだ〜
 孔子は中国の人で、『論語』など孔子の言行録は日本で古くから読まれ、仏教と並んで日本にとても影響を与えた人物です。これもまた、孔子本人が「善く生きるとは、徳を積むことだ」と言ったわけではないのですが、『論語』や『大学』を読まれた方は孔子が徳というものを重視していたことが分かると思います。なかでも、孔子が特に強調した徳は「仁」の徳です。ところが、孔子自身は「徳」が、具体的にこういうものである、という定義をはっきり述べているわけではありません。よってここでは、これらの意味を考えることが重要になるでしょう。
 まず、孔子の生きた古代中国(春秋時代末期)は、形式的には中国全土の中央政府というべきものに、周の王室がありました。しかし、すでに周王室の支配力は衰えて、それ自身、一地方政権に転落していました。各地の諸侯たちは事実上の独立国を形成し、互いに抗争していました。さらに始末の悪いことに、その諸侯の国の内部でも、国によっては家臣の方が実権を握っていたりしました。まさに、権謀術数の渦巻く下剋上の世の中、欲望と戦乱の世です。
 人間が動物のように自らの欲望・利益を満たすことのみに熱中する、このような世の中にあって、孔子は「徳」というものを各地の諸侯に説いてまわります。「徳」とはなんでしょうか。漢字辞典を引いてもはっきりしませんが、それは「人間らしい善い行い」のことです。別の言い方をすれば、「これがあるから人が人である」という行為のことです。簡単な例をだすと、「ご飯を残さず食べる」というのは善い行いではありますが、これは動物でもやることです。しかし、「いただきます」とか「ごちそうさま」といった行いは人間しかやらないことです。他にも親孝行の「孝」の徳に関して、孔子は次のように述べています。「最近の孝というものは、両親を十分に養うという意味になっているが、それでは犬馬(家畜)を養うのと一緒である。尊敬するのでなければどこに区別があろうか」(為政篇七)。このように、孔子は「人間らしい善い行い」というものを重視したのです。その種類は「仁義礼知信忠孝悌」と色々とあります。「仁」、「義」など重要なものほど、これまた意味がはっきりしないのですが、少なくとも、孔子は「人間らしい善い行い」を重視し、人間の完成を目指し、教育者として最後を迎えます。これが孔子の生き方でした。


4.結局、善く生きるとは何か
 上で三聖人の生き方を見てきたわけですが、やはり、三聖人が三聖人とも違うことを述べています。ですが、その生き方には微妙に重なり合うところもあります。私が考えるに、紀元前の昔から人びとの模範となる生き方、支持されてきた生き方というのは次の二つのポイントに集約されます。「仁または慈悲」、「正義(義)」の二つです。

4-1.仁について〜人を救うとは、人を思いやるとは何か〜
 まず、「仁」、「慈悲」についてですが、これは簡単にいうと、「自分が利することばかり考えるのではなくて、他者を思いやり救ってあげる」と言えば分かりよいと思います。特に、孔子と仏陀が強調したことです。紀元前の昔から人びとに支持されてきた生き方の一つは「自分以外の人に奉仕する生き方」ということです。また、「慈悲」は仏教用語ですが、「慈」というのは、「他人に楽しみを与えること」であり、「非」というのは、「人の苦しみを取り去る」という意味です。「仁」も一般的には「他者への慈しみや思いやり」という意味で使われています。ですから、「仁」と「慈悲」を併記しました。ただ、他者を「思いやる」とか「救う」というのは、これまた難しく、どのようにするのが人間にとって一番いいのか、かなり深い考察が必要なところです。現代日本では、金をばらまき補償する、というのがその唯一の方法になっているように感じます。
 
4-2.正義について
 次に、「正義(義)」についてですが、これは簡単にいうと「我らいかにあるべきか、という規範・規則」というと分かりよいと思います。特に、ソクラテスと孔子(正確には孟子、孟子が仁義として仁と義を強調した)が強調したことです。もう一つの紀元前の昔から人びとに支持されてきた生き方は「不正を働かず、正しく生きる」という生き方です。「正義」と「義」は、意味はほとんど同じです。何を正義とするかは、法律で決められたものもあれば、明文化されてない暗黙のルールもあります。時代と地域が違えば異なることが特徴です。例えば、合戦に次ぐ合戦があった戦国時代を経験してできた江戸時代の正義は「安定」です。江戸時代は「安定」のためなら「効率」や「自由」を制限していいのです。もっと自由に商売させてくれ、と国民が幕府に訴えても、幕府を脅かすような豪商が生まれてくる懸念があれば国民の訴えは却下されます。次に「安定」の江戸時代を経験してできた明治時代の正義は何かというと「維新」になります。「維新」とは「維(こ)れ新(あら)た」であり、西洋列強に追いつくために、どんどん学んで新しくしていけ、という正義です。これが、深化していき昭和初期まで時代が下ると、国のためしっかり学ぶ「勤勉」とか国に従順に従う「忠勇」といった精神が正義となります。そして、戦争に負けて昭和後期になると敗戦の反省から、「効率」(物量が足りなかったという反省)や「安全」(特攻など命を軽く扱ったという反省)などが正義になります。例えば、日本ではお祭りなどで死者がでると、たちまちそのお祭りは禁止となります。「安全」が正義だからです。最近の出来事でいうとユッケ問題があります。ユッケを食べて死者がでたらすぐさま法律で基準を作れという議論になりました。そこで、消費者の責任を問う声はありません。おそらく、法律ができたら日本にある肉の生食文化は消えてなくなるでしょう。「効率」については、高度経済成長期などを考えれば、国家を挙げて「効率」を求めたことは明らかでしょう。
 ところが、今の日本はこれら「効率」と「安全」の正義が揺らぎ、何が正しくて何が正しくないか、国民がわかっていないように、迷っているように感じます。戦後日本の正義の一つに「効率」というものがありますが、最近は、「効率」を追求しても経済成長はほとんど実現できず、デフレに喘いでいます。このような状況では、「効率」の実現のために「規制緩和」などを訴えても支持を得られません。実際に、新自由主義を声高に叫ぶ政治家を最近テレビで見ることが少なくなりました。変わりにどのような政治家が増えたかというと、「新しい哲学」を打ち出す政治家ではなくて、とりあえず、現状を否定して「変えよう」と訴える政治家です。ただ、新しい哲学に基づいたビジョンを持っていないので、やっている事がブレ過ぎていて状況はさらに悪くなっています。我々が実現するべき正義とは何なのか、今それが問われているように思います。

4-3.日本人らしい生き方とは
 このように、紀元前の昔から人びとが支持してきた生き方というのは「仁の道(他者を思いやる生き方)」と「正義の道(人として正しい生き方)」の二つの生き方です。これは全世界いかなる国家でも、その具体的内容に若干の相違があるとしても通用する生き方だろうと思います。そして、もう一点、日本人らしい生き方、日本人が太古の昔から大事にしてきた生き方、日本人特有の生き方というのも我々は知る必要があります。ここはまだ、勉強できていないのですが、国学者と呼ばれる契沖や荷田春満や賀茂真淵や本居宣長、平田篤胤が唱えた説を勉強しなければと思っています。彼らは日本古来の精神のことを「惟神(かむながら)の道」と呼んでいたそうです。これは今後の課題です。よって、
 (1)仁の道
 (2)正義の道
 (3)惟神の道
 この三点が、我々日本人が歩むべき道・生き方と考えます。


5.謝辞
 今回のこのレポートは中途半端になってしまったのですが、今まで勉強してきたことをまとめる良い機会になり、自分の考えを整理することができました。このような機会を与えて下さった小山事務局長には大変感謝しております。また、当日は西美さんにずっと案内していただきました。いつもわかりやすいご説明ありがとうございます。この場を借りて感謝申し上げます。やはり、直島は「善く生きる」を考えるにはよい場所です。それを再確認した研修でした。これからもがんばって参ります。



参考文献
ソクラテスの弁明・クリトン プラトン著 久保勉訳 岩波文庫
ブッダ最後の旅(大パリニッバーナ経) 中村元訳 岩波文庫
論語 金谷治訳注 岩波文庫