2012年 直島特別例会
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◆山本 博己(岡山政経塾 十一期生)
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岡山政経塾 直島特別例会レポート
『夢に向かってのヒント、
そして立法・行政の大きな問題点を感じた直島合宿」』
まず、この直島・犬島・豊島での合宿を通して感じたもの、考えたことはあまりにも多く、たった一泊二日の体験とは信じられないほどのものでした。このような機会をお与えくださった皆さまに感謝の意を申し上げたく存じます。誠にありがとうございました。
●直島でのご講演について
福武幹事、そしておかげ横町橋川氏のご講演で感じた、お二人に共通しているものが三つある。
一つは、信念・経営哲学があり十年以上もそれがぶれていないこと、二つ目は、その信念・経営哲学が「公益」を目指したものであること、三つめは、行動力があることである。
最近よくセミナーや講演会に行ったりさまざまな人との交流を持つようにしているが、話を拝聴して「おもしろい」と思える人に共通していることがこの三点であった。信念が無いと企業や組織の行動がぶれる、それがゆえに結果を生み出せない。信念が「公益」を目指したものでないと人は集まらず、人が集まらないと企業や組織の行動が希薄なものになり実行力を持ったものにならない。行動力がないと実際の行動は起こらず、現実に待ち構えている書籍には書かれていないようなさまざまな問題を乗り越えていく力が身につかない。私は企業経営者として人を率いて何かを成し遂げていきたい、との夢を持っているが、その夢について考えるときに、企業として事業を進めていくには「利益」を目標にせざるを得ず、しかしその「利益」を目標にしている限りは人を率いる力が弱いことを常に思っていた。しかし、この講演を通じて、「利益」は短期的な目標とし、長期的な目標として「公益」、そして企業としての行動を貫く「信念」をまず確立しておくことが最も大切なことであると理解することができた。ここで得たことを今後5年から10年かけて考え、そして実行し、企業経営者として大成したいと強く思う。
●直島・犬島・豊島の現代アートについて
福武幹事はこう述べられている。現代アートには現代社会の問題や課題や矛盾が込められており、そして、アートが引き出した自然や歴史の持っている良さと人間との相互作用で人間に感動やある種の感情が引き出される、そしてそれは観ている人の生き方を変えてしまう可能性すらあるものだと。注1今までは現代アートについては穿った見方をしていた私だが、この合宿でこの福武幹事の言葉を体感することができた。
私が三島の現代アートを通じて感じ、そして深く考えたのは「人が快適さを感じる基準とは何か」ということである。李禹煥美術館の「沈黙の間」における居心地の悪さに対し、同美術館の「瞑想の間」や豊島美術館「母型」の居心地の良さが非常に対比的で、両美術館が長い距離を歩くように設計されているのも相まって、空間をつくるときに何を重視するべきか、ということについて深く考えさせられた。私は建築士になることも将来の夢であるため、住空間としての「家」に「居心地の良さ」を与えるものは何か、ということを知りたいと思っている。最近のセミナーや見学会などで学んでいたのは「木」が人に与える安らぎである。しかし、これら現代アートで主に用いられている構造材は人に無機質な感じを与える代表格である「コンクリート」である。豊島美術館「母型」に包まれて感じた安らぎは素晴らしいものだった。「母型」の床をダンゴ虫が腹に水滴を抱えて歩いている姿も印象的で心を穏やかにした。もっとも印象的だったのは豊島美術館において水滴型のCafeに遅れてたどり着いた際に、円形の床に皆が座り込み事務局長を中心に輪になって談笑していた様子だ。素晴らしい光景だった。人が快適さを感じるためには構造材は必ずしも木である必要はないということであろう。これから深く勉強していきたい。
また、犬島精錬所跡地の三分一博志氏による建築物における「いったん電気に落とすことなく、風を風のまま使う、太陽を太陽のまま使う」注2という、自然エネルギーを活かそうとする構造には舌を巻いた。これからの住宅に活かせないだろうか。
●豊島産廃問題について
豊島での産業廃棄物の不法投棄問題における問題点は以下の三点にあると思う。
・産業廃棄物の処理に関する法制度の整備の遅れ
・法制度の緩さからくる許可基準の不十分さ=行政庁の裁量の幅の大きさ
・行政機関の職員のモラルの低さ
法制度の整備の遅れだが、明らかに罰則規定の軽さ、および許可基準の不十分さがこのような事態を引き起こした原因として挙げられるだろう。法律は、なにか問題が発生する前に整備されておくものべきだとは思う。しかし、法制度の甘さ、行政庁の判断の甘さによって甚大な被害がもたらされ、住民が涙を流した結果法律が改正されていく例が多い。注3しかし「事前の予想」に基づく問題意識により法律の改正を進めていくことの難しさはある。例えば、耐震偽装問題により生まれた改正建築基準法は、本にして厚みが2.2倍になるほど規制が厳しくなり、厳しすぎるため2010年より再検討が進められているほどの規制強化がなされたものであるが、これほどの改正が業界の反対を押し切り「事前の予想」だけで生み出せるのであろうか。将来に起こるであろう問題を、問題発生より先に法律により食い止めるには、立法府が先見の明を持ち、民意に惑わされず政意をもって政治を行うことが必要である。すなわち、住民が選挙の際にいかに先見の明を持っている人物を選ぶことができるか、50年先を見て政治を行うことができる人物をいかに選ぶかにかかっていると思う。
許可基準の不十分さは行政機関の裁量の幅を大きくすることにつながり、暴力に屈して許可のハンコが押されてしまう事態を生んだ。生活保護の不正受給問題においても、暴力団や強気な業者が市役所窓口で怒鳴り散らすことで生活保護の認可が下りやすくなる事態が生じている。職員が許認可に悩む案件において、目の前の申請者が強気でしつこければ許認可を下ろすだろうし、逆におとなしいならば下ろさないだろう。暴力団員さながらの業者を同伴した申請者は不正な受給を得、おとなしいおばあちゃんは受給を得られずに餓死をする。しかし、そこに新たな許可基準が多く設けられる、つまり「新たなハードル」がいくつも設けられれば、気が弱い職員でも暴力に屈することが減る。たとえば、年内にも施行予定の、受給申請者の預金口座を全支店一括で調査できる制度によって防げる生活保護費不正受給は多いだろう。許認可においては許可基準を増やすことが行政機関の裁量の幅を減らすことにつながり、不合理な許認可が下りなくなることにつながるであろう。しかし、許可基準を新たに設けていく際にも問題が起きてからでないと設けるべき許可基準が分からないという問題があり、この観点からも立法府の人間の先見の明が必要であるといえる。
では、当時の法律にも反していたにも関わらず、住民の意見に耳を傾けない結果出された産業廃棄物処理業許可、担当職員がその許認可の失敗を認めず隠ぺいするために立ち入り調査をしても許可条件違反を見逃し続けた事態はなぜ起きたのか。
行政機関である自治体の首長をはじめ、議員、職員は個人として責任を取ることがないし、個人として責任を取らねばならない義務もないことが一番の原因としてあげられる。行政機関に属する個人に責任はない。許認可にあたる職員は、部署によれば事業費数億円、数十億円といった事業に対する許認可を日々の業務として行っており、それぞれについて発生した問題に個人として責任を取る能力もないし、許認可を得て行う事業により利益を得るのは許認可を得た業者や住民であるため、そもそも職員に責任を取る義務はない。許認可に責任が伴わないならば、職員を律するのはモラルのみである。この豊島問題の根源には行政機関の職員のモラルの欠如があり、その原因は職員を統率する首長、そして首長・行政機関を監視する議会にある。
首長によって自治体は大きく変わる。つまり、問題の発端は前川忠夫・平井城一を県知事に選出した、そして当時の県議会議員を選出した住民にあるといえる。住民に、選挙の際に立候補者を見極める眼が育っていない。これは今日においても状況は変わっていないのではないか。メディアの誘導により簡単に右往左往する、そして、政策やマニフェストを精査せず、そこに通じる哲学があるかどうかも見ようとせず、組織として投票したり、人当たりの良さなどで候補者を選ぼうとする。住民が選挙においてこのような姿勢を改めることができないなら、豊島の産廃問題のように少数派の住民が泣く事件や問題は永遠になくなることはないのではなかろうか。選挙に行くとはどういうことか、国民は選挙の際に何を見なければならないのか、国民一人ひとりが知る必要がある。そのためには、教育から変えていく必要がある。
●最後に
豊島の産廃問題をご説明下さった砂川さんが涙を流されたのが、好意でおすそ分けをした豊島の野菜が産廃の島のものだと捨てられていたお話しをされていた時だった。郷土である豊島を愛する砂川さんのお気持ち、それを踏みにじられた悔しさがひしひしと伝わってきた。自分の故郷、自分の住む場所を愛する気持ち、それが合わさって地域そして日本が成り立っている。一つひとつの地域、文化、そこに住む人々の気持ちを大切にしなければならない、なぜならそれらが集まって日本を形作っているのだから。非常に学び多き2日間であった。
注1注2 福武總一郎 安藤忠雄ほか『直島 瀬戸内アートの楽園』新潮社、2011年。
注3 豊島問題を受け改正された廃棄物処理法、および、2005年の構造計算書偽装問題(耐震偽装問題)を受けて2006年に改正された建築基準法などがあげられる。
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