2004年 100km Walk

 
◆藤原 康江(岡山政経塾 一期生)

「ニジュウヨジカンデヒャッキロアルク2003/2004」


2003

 最初に100キロ歩行の企画を聞いた時には、ちょっと驚きましたが、参加するかどうか、という点にはあまり悩みませんでした。
 その当日までの準備、自分の体力などをきちんと考えながら、100キロを歩き通すことを前提として、自分なりの課題をどう見つけどう取り組むか、結果がどうかということより、どう取り組むかが重要だろうと考えました。

 そう思って気持ちは焦りつつも、ようやく4月になってから、スポーツ、整体等に詳しい知り合いを訪ね、この企画への参加の相談をしたのでした。無謀さに驚かれつつも「歩く」体の作り方、体の動かし方など簡単なレクチャーを受け、当日までの体力と物資の準備などについてアドバイスをしてもらいました。またW氏には靴を選んでもらい、私の足に合わせてシューフィッティングをしてもらいました。

 当日までに実際に歩いてみたのは、6キロ弱のコースを1時間で歩くこと1回、W氏のペースメイキングで10キロのコースを1時間半で歩くのが1回だけでした。他には、合わせてもらった靴をとりあえず毎日履いて、時間に余裕が時はできるだけ歩いて移動するのみでした。体力、筋力をつけることにはつながりませんでしたが、マラソン選手や競輪選手の面倒を見ているW氏にペースの感覚を教えてもらえたのは役に立ったと思います。

 サポーターの方の苦心の末(ご苦労様です!お世話になりました!)、様々な準備が進み、ようやくコースが決まり、地図も作製されて配られ、さぁ、いよいよ日程が差しせまって来たというころ、予定していたコースが、100キロにわずかに足りないという連絡が小山氏からのメールで流れて来ました。
(えぇ?っ?今さらそんな!いまからコース変更とかってみんな混乱するし、もうこれ以上距離を長くしなくても!だいたい変更連絡の周知は間に合うの???)
と(多分私だけではない)思ったその時、森脇氏から
「ぜひ再検討しましょう!」
とのメールが…..。
…….私には見えましたね。速攻で
「も、り、わ、き?、!」
とPCに向かって恐ろしい勢いで突っ込みを入れるみんなの手が!(私だけ?)

 コースに予定されていた東備地域の地理には自信があったのですが、直前に少々不安になって、森脇氏、宇野氏、小倉氏の車に同乗させてもらって下見をしました。(後で、下見しておいて良かったと思いました。下見は絶対必要です。)

 こうして準備が進む一方で、個人的にも仕事の整理と準備も進めていました。
当時は、それまでに半年以上かけて進めていたある事業が終盤を迎えていたことと、さらに1か月後に大きな音楽イベントを抱えていたため、繁多な業務が発生していました。またこの100キロ歩行参加後、もし私が怪我をしたり寝込んだりした場合にそなえての仕事の準備、引き継ぎなども進めていました。ところが出発3日前、その仕事の大部分の担当をお願いしていた、スタッフのT氏のお身内に不幸があったとの連絡が入ったのです。急きょ彼が担当していた仕事のサポートに入りました。しかし私自身が抱えていた業務との同時進行となってしまうため、進行管理表を変更し、私のところで対応できるものと対応できないものとに分けて他のスタッフへ振り分けたりと努力しましたが、それでも一晩が徹夜となり、そのうえ出発前夜の睡眠はわずか4時間というまま、当日の朝を迎えました。(今あらためて計算してみると、約45時間起きつづけていた後の4時間睡眠です…..。)

こうして、ふらふらのまま迎えた当日朝の体調は最低でした。



【当日の準備物のリスト】
 吸汗性と発汗性に優れたウェア(なるべく肌を露出しない方が体力の消耗を防げるようです)、
 5本指ソックス 帽子、タオル、おにぎりなど、イオン飲料、サングラス、小銭、携帯電話、フィルムケースに入れた荒塩(塩分補給のため)とクエン酸(筋肉の疲れを早く取る)
 

 出発直後はすごくだるくて、前に進むのが大変でした。2、3キロごとにハムストリングスを伸ばすストレッチをして、荒塩とクエン酸をなめながら飲み物だけで歩いていましたが、沖田神社を過ぎたあたリから、ちょっとづつ固形物が口に入るようになり西大寺からはペースがあがってきました。邑久に入る前あたリから調子が良くなりまわりを見渡す余裕がでてきました。歩けば歩く程体か楽になるような、少し変な感じでした。(ウォーキングハイというものがあるならこういう感じだったかも知れません)また、道ばたに、野草の野蒜の群生があるのが見え、数本を摘んで口にいれました。(宇野さんみなさん驚かせてごめんなさい。でも宇宙からの差し入れとか変なものじゃありませんよ!)

【のびる(野蒜)】
 ツーンとする香りとちょっとヌルッとした食感が春の刺激です。古代から食べられていた野草で、胃腸を丈夫にし体を温める効果があると言われます。


 飯井を過ぎてからは、以前の事故の時に痛めていた右足のアーチが限界にきていました。数100メートルごとくらいに座り込んでしまうような状態でした。
佐山を過ぎたあたりで、抜きつ抜かれつを繰り返していた宇野氏、片山氏とも分かれました。
 自分の残りの体力を測りながら、辺りを眺めているのはとても不思議な時間でした。暮れゆく山あいの風景と、春の盛りを過ぎ始め夏へと向かう集落の美しさ、すでに通り過ぎこれから向かう場所場所の歴史と意味が、この現代にも連綿と続くのだという思いがふいに込み上げました。そしてどうしても、私の父と母が最初に住んだ工場の跡地まで、私に最初に美術というものの存在を示した恩師が最後まで愛した場所まで、私に美術への道をひらいた祖母がどうしても逃れられず精いっぱい生きた場所まで、なにがなんでも歩いて辿り着こうと、ゆっくりと立ち上がりました。


 そのあとの数キロは本当に孤独で長い道のりでした。このころには日もとうに暮れ、対岸に見える片上のまちのぽつぽつとしたあかりがとても心細く、とうてい辿り着けなさそうにみえました。一台の車が通るわけでなく家の明かりどころか街路灯もない自分の手さえ見えないような暗がりで、サポーターへの電話もなかなかつながらなくて他の参加者の様子もわからず、道ばたに小さな空きスペースを見つけては寝転がって空を眺めながらゆっくりストレッチをしながらののろのろ行進でした。


 このころからかなり深刻に体力の限界を感じはじめていました。ようやく片上のコンビニにつき、少しタンパク質を補給しながら、どう終わるかを考え初めていました。ここで30分程休憩をとったころ、西原幹事の車が見えました。歩くのかやめるのか、どうするのかとさえ聞かないで体を心配してくださったのがすごくほっとして、そしてありがたかったです。やっと知った人(しかも普段から信頼している人)に会えて、すごく気がゆるんで泣けそうでした。もう少しだけ、自分が納得できるまで歩こうと決心して歩き始めました。

 携帯以外の荷物をすべてあずけ、まだ少し迷いながら歩き始めました。1キロ程行ったところで田中氏に会えました。すぐに体の調子を尋ねられたので今の筋肉や残った体力の状態を伝えました。そうやって話している間ですら足が震えている感じでした。田中氏は、ごく軽いマッサージをしながら、この震えなどの状態はもう筋肉の限界であることを告げてくれました。それを告げてくれた田中氏のこちらをまっすぐに見ていた瞳を今でも鮮明に覚えています。

 これが自分の気持ちを整理できた瞬間でした。あとは、この日までに準備してきたすべてをここで出し尽くすつもりで歩きました。バランスを取って自分の歩幅に均等に体重をのせる、背骨と腰をひきあげるように、足は骨盤から動かす。下を向かない。

 ようやく穂波橋につき、片上からずっと伴走してくださった西原幹事にまっすぐ向かい、ここでリタイヤしますと伝えました。関わってくださった全ての方にも向けて、深く頭を下げてお礼をいいました。穂浪橋から見えた海のやわらかな暗さと塩を含んで重くゆるやかな風が、さきほどの対岸の手の届かないものではなく、今ここにあるものとしてゆっくりと降りてきたように感じました。



2004

 3月終わり頃、再度参加しようとして具体的な準備をはじめました。ずっと続けていたストレッチ以外に、昨年の経験から右足のアーチの矯正、少ないといわれた筋肉を作るためコースを設定しての歩行と食べ物の調整などを実行しました。
しかし、結果的には昨年よりも短い距離しか歩けず、2004年の状況はあまり参考にならないと思いますので、この2回の参加を通して感じたことをあげてみます。

 とても良かったのは、良くも悪くも己を知ったことだと思います。計画の立て方、準備の仕方はもちろんですが、いくつかの病気等を経験しておきながらも無頓着だった自分のからだのさまざまなことに気が付き、身体を整える方法を学びました。これはとても興味が深く、今でも飽きない追求です。特に昨年の参加の前後3週間程は、歩いたことで受けた筋肉痛以外のダメージがなく、身体も軽くてよく動き、今までに経験のない体調でした。
 また、理念とは何か、を深く考えさせられました。理想として掲げられる場合だけでなく、実のあるものとしてこの理想を活かす方法と場までの、理念をどう実行するかも重要なのだと、そしてまた掲げた理想や言葉を実行することの難しさをひしひしと感じました。理念が無いのはもちろん論外ですが、情熱や思いだけでは、何事も成せないし時には周囲を振り回して迷惑をかけることもあるのだと強く感じました。昨年経験してわかっていたはずのことが今年に活かされなかったり、経験していたからこそ甘く見てしまったりした点に関してはとても反省しています。



最後に
 この「100キロ歩行」を良い伝統として次に伝えていくことも大事だと感じています。ここに関わったすべての人が 関わったこと自体を誇りに思えるような大切な行事として伝えられていくことを願ってやみません。
たくさんの人に出会えたことを感謝し、これからも自分を律することを常に意識しながら、今後もいろんな活動を続けていきたいと思います。このチャンスをくださった小山氏、関わってくださった全てのみなさまに感謝いたします。本当にありがとうございました。


後日談…
 5月10日になってずっと痛かった左足親指の爪が朽ちてしまいました。
痛みをこらえつつ寝てたら、100キロ歩行中に、小山さんが車で通りすがるたびに声をかけてくれて、顔を見るだけですごい元気が出た時の夢を見ました。にかっと笑った顔が何度も何度も..。うれしかったけど、ちょっとうなされました(^_^;)
と、小山氏にメールしたら小山氏から
俺の裸踊りの夢で、目が覚めた奴がいるし、
というお返事が来ました….。……誰…….?