2004年 100km Walk

 
◆山田 浩三(岡山政経塾 二期生)

「100キロ歩行」 〜惨めなリタイア 穴があったら入りたい〜


5月2日 18時前 飯井交差点チェックポイント

 病院に搬送されることになり、武久夫妻(本当にお世話になりました)に邑久町立病院の車で送ってもらいました。心電図をとりましたが問題はなく、無罪放免となったものの、自分で想像もしなかった、惨めな「100キロ歩行」の終わり方でした。
 
 「17:00(ヒトナナマルマル)山田チェックポイント到着」と予想ペースより1時間ほど遅れたなと思いながらも北川あえさんに報告し、ちょうど同じ頃ポイントにいた二期生の永野くんと談笑しました。
 「7時間で30キロ、時速4.5キロか。これからもっとペースダウンするだろうが、残る17時間でどこまで行けるだろう」と考えながらクツを脱ぎ、マメが出来たかとと思っていた足がまだ大丈夫であることを確認して出発に備えました。

 17:06に休憩を終え、歩き始めようとストレッチをし始めたときに、一気に血の気が下がるのを感じました。立っていられなくなり、その場にへたりこみ、草の上にトドのように寝転がってしまったのです。
 「ウソだろう。高血圧の注意を受けてはいたけれど、なんで貧血状態になるんだ。ただでさえ遅れているのに、これはマズイぞ。早く復活しなくては・・」という思いとは裏腹に状態は変わりません。10分おきくらいに立ち上がりますが、また血の気が引き倒れるように寝てしまいます。
 そのうち生あくびと、吐き気が襲ってくるようになると、「歩くのはムリか。ここでリタイアか?そんなバカな。最短距離でのリタイアじゃないか。まだ明るいぞ。足の状態はまだ大丈夫。こんな終わり方はしたくない。準備してきたことは何だったんだ。去年中途半端なサポートだったから、今年は24時間みんなといるはずだったのに。こんな終わり方でいいのか」どんなに頭で考えてみたところで状況は変わりません。

 リタイアが決まり、武久さんとあえさんが病院や他スタッフに連絡をしていただいている間に、一気に力が抜けてきました。情けなくて、惨めで、恥かしくて、塾生の皆さんに会わせる顔がなくて、逃げ出したくて、泣きたい気分に覆い尽くされました。
 高校生以来の28年ぶりの貧血は、とんでもない時に出てきてくれました。



この日までの心構え

 去年は途中で帰っているために、今回は24時間参加することが大前提でした。100キロは歩けないかもしれない、だけど24時間後に立っている、前に進んでいることが自分への挑戦であると、本当に強く強く心に決めていたことだったのです。
 「50歳あたりで右膝は人工関節かもなぁ」と担当医に言われる爆弾があるために、膝に負担があるトレーニングは難しく、体力的には自転車こぎプラスαのトレーニングを週に3回続けていました。
 本音は完走でした。ムリでもせめて体重(○○キロ)までは歩いていたかったのです。なにより24時間にこだわっていました。



ゴール地点

 この場所に、塾生の皆さんはヘトヘトになって帰ってきます。完走した人もリタイアした人もドラマを抱えて帰ってきます。24時間のドラマを共有してゴールにいたかった私は、この場所にいるべきか、いや、いてもいいのか悩みました。
 朝早くに目がさめましたが、行くべきかを本当に悩み続けました。
 あのような中途半端なかたちでのリタイアでしたから、つらかったのです。
 情けなくてもみんなの顔を焼き付ける義務があると決心し、後楽園に向かいました。
 そこにあったのは、私のスッキリとした顔ではなく、24時間闘い続けた顔でした。
歩いた人も、サポーターの人も、闘った顔がそこにありました。



闘い過ぎ去り・・

 30キロしか歩いていないのです。身体の限界に達していないために、筋肉痛も大したことはなく、5日にはいつもの休日のように自転車1時間/400キロカロリー×2のトレーニングが苦もないことに、なおさら惨めな気持ちとなりました。
 当日に向けて健康管理とトレーニング、ハリ治療で足の筋肉を緩める、夜間歩行の装備なども、笑い話の準備となってしまいました。
 未消化の闘いほど情けないものはありません。10日以上経過しているのに、まだ心の中で整理がついていません。重い重いリタイアでした。
 やっぱ体重かなぁ。
 森脇さん、あのクツで再チャレンジします。



サポーターの皆さま

 わずかな人数の方としかお会いしていませんが、天使・女神に思えました。
 感謝しています。
 どれだけ心強い存在であったことか、語り尽くせません。
 来年はまだサポーターにはならないつもりですが、サポーターになるときには皆さんのように奮闘したいと考えています。