2004年 100km Walk

 
◆金川 敏治(岡山政経塾 二期生)

『100キロを目指して歩くということ』


 24時間100キロ歩行……正式に岡山政経塾のイベントの一つになり、逃げられないと思ったときから、歩くことについて考えていました。が、100キロという途方もない距離感がまったくといっていいほど理解できませんでした。シューズ選びと、毎日歩くことを心がけるのと同時に、去年の参加者からの経験談・レポートを頼りに準備をしてきましたが当日の「100キロ」は予想以上のものでした。


 
 最初の20キロ位まではピクニック気分でした。数日前の夜に下見に行っただけのコースだったので、景色を楽しんでいました。この辺りが100キロ歩行の中で一番歩くことを楽しめた時間帯でした。やがて、みんなでワイワイ言っていたのが25キロ辺りでは、完全にいくつかの小集団になっていました。その集団の一つから抜け出し、栢菅さんと二人で歩き始めたのはこの辺りからだった気がします。

 30〜40キロ区間は坂道が続き、ものすごく長く感じる区間でした。この区間辺りから足の裏の水ぶくれが少し無視できないものとなっていました。

 40キロ地点で柳井さん達サポート隊に出会ったときは、「50キロ地点じゃないの?」という言葉を何度も口にしていました。これ以降は辺りが暗くなり本当の50キロ地点の穂浪橋では時間的には順調でしたが、足の方に相当の負担がきていました。ここは栢菅さんに精神的にもペース的にもリードしてもらうことができたので。

 ここから60キロまでの閑谷学校までがさらに大変でした。曲がりくねった峠が続き、「あの峠を越えたら閑谷だ」と思って、その地点に差し掛かるとまた峠が続いているといった感じで「うんざり」でした。チェックポイントの閑谷学校ではあえさんと洲崎さんに励まされ、再び歩く気力が湧きましたが、ここで栢菅さんの足が限界に来てしまいここから先は一人で歩くことになりました。

 道もはっきりとは覚えておらず、一人では寂しいのでMDを聞くことにしました。MDから流れてきたのは宇田ヒカルの「traveling」。リズムに乗って10キロ程歩けましたが、遂に73キロの松木交差点前で足が完全に動かなくなりました。そのとき、後から来た一平さんと堀内さんが応急処置を施してくれて何とか歩けるようになり、再び歩くことを決意。瀬戸駅手前でかかとのほうにも痛みが回ってきてほぼ歩行困難に。秒速一歩くらいだったと思う。

 80キロ辺りの瀬戸駅過ぎでめまいがして、体調がおかしくなったのでリタイアを決意。時間がまだまだ残っていたので悔しかった。



 今回の100キロ歩行からは多くのことを学ぶことが出来たと思います。
 多くの人に支えられて自分が目標を達成しようとしていること、その支えられていることそのものに気づき感謝の念を持つこと。本当に貴重な経験だったと思います。
 みんなで歩く楽しさ、それとは反対に二人で切磋琢磨して歩くこと、終盤では「多くの人の支え」を感じながら独りで歩くこと、歩く中でそれぞれの場面が出てきました。

 今回、一番印象に残ったのは、やはり73キロ地点以降だと思います。夜が明けてきて、思うように歩けなくなってから時間が確実に進んできたという焦り、キリンビールの看板のついた電柱が延々と続く道のりが、私に「あまり進んでいない」というプレッシャーを与え、体力的には余裕があるものの「足が動かない」ということにやり場のない悔しさとか自分へのふがいなさを感じていました。しかし、ふと冷静になってみると、定期的に声をかけてくれるサポーターのみんなの存在や応急処置をしてくれた一平さんと堀内さんとの完歩の約束が、そうした焦りを消してくれた気がしました。「一歩一歩」着実に歩いて応えればいいじゃんってな具合に。リタイア後、完歩できなかった悔しさもありましたが、それ以上に多くの人に支えられているという嬉しさのなかに私はいました。

 100キロ歩行前、「100キロを歩く過程はその人の生き方と似ている。」という言葉を誰かが言っていましたが、それは本当だったと思います。結果は残念ながら80キロ辺りでリタイアすることになり、100キロにしても今の生き方にしても準備不足、中途半端感は否めません。(この見通しの甘さは反省しなければなりません。)しかし、岡山政経塾という一つの大きな連帯感を感じることが出来た80キロでした。サポーターの皆さん、参加者の皆さん、ありがとうございました。