2004年 100km Walk

 
◆北川 あえ(岡山政経塾 一期生)

「2004年100キロ歩行


 昨年に引き続きサポート・チームに参加させていただきました。そして今年もまた、参加者一人一人から、胸を打つものを頂きました。ありがとうございました。

 歩かれている方は、ただただ前を向き黙々と規定のコースをこなしていましたが、その胸の内には、「しんどい、なんで歩くの、いや絶対歩いてやる、いやもうやめる、でもやっぱりゴールしたい、もうなにも考えられない」と、いろいろな思いが渦巻いていたのだと想像します。サポーターとして、脇からそして背中から、ただひとり頑張りではなく、参加者全員の頑張りを見せてもらいました。そして幾人かの方の口惜しさも見せてもらいました。悲しいのか、嬉しいのか、いらだたしいのか、おそらくは本人にもわからないであろう涙も見せてもらいました。



 なぜ100キロ歩くのか、何の為に歩くのか、という疑問は行程の進行につれて意識の背景へと退いていきました.100キロに対する問いは、歩いている姿が、その回答を凌駕しています。感動とは、そういった定義を超越した感応なのだろうと思いました。矛盾した複雑な思いを、矛盾したまま飲み込めてしまう。感動を共にした者は、長く物語を語ることができます。何度も何度も同じ話をし、何度も何度も感動を分かち合うことになるのでしょう。

 私は、100キロ歩くことが何だか判らないままに歩いてしまった1期生を、昨年体験していてよかったと思っています。今年もそうでしたが、出会ってしまった100キロという出来事に、参加者は果敢に、しかしゆっくりと着実に立ち向かうだけだったと思います。いろんな果敢さ、いろんな着実さがありました。その本質が昨年は、粗野でむき出しでした。今年はいささか、去年より賢者が多かったように思います。(当たり前ですね。去年より賢いのは。)



 この感動を誰もが味わいたい(それも成功裏に味わいたい)であろうことは、理解します。しかし、参加する人数が多くなれば、今度はスポーツイベント化していくことになるでしょう。それはそれで、大変意義深いことだとは思います。「来年は、ここの空き地にテントたてりゃあええが」と言ってくださった地元の方もいました。嬉しいことです。

 その反面、次回は少数精鋭、4期生なら4期生だけで運営するのもいいのかなとも思います。サポートもどうしていいか判らず右往左往して、辛さと喜びに引き裂かれながら、若干の体験者と自分達で集められる外部協力者、例えば5期に入塾して欲しい人、政経塾を見せたい大切な人、24時間+αのボランティアを厭わない気っ風の好い友人、そんな仲間を募って乗り切ってしまうのもいいなと感じています。

 たとえ大きなスポーツイベントになって、100キロ歩行の意義や定義や規則がしっかりして、運営も組織的になったとしても、あるいは逆に、粗野なやる気がシステマティックに昇華されず、ひたすら100キロ歩く無鉄砲な「体育会系」な人々になったとしても、私は、政経塾で100キロ歩くことに、何らかの形で参加します。痛みに耐えながら、孤独な100キロから逃げない人達が創り出す感動。そんな人間の複雑で単純な力を何度も感じたいです。

 100キロ歩行に関わったすべての人々に、感謝しています。男はみんなカッコよかったし。女はみんなキュートだった。セーラー広告の方々も、素敵でした。全員の疲労困憊したきたない姿が、本当にきれいでした。感動しました。