2005年 100km Walk
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◆花房 文彦(岡山政経塾 4期生)
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「24時間以内100km歩行チャレンジレポート」
1.準備
A.体作り
歩行練習日数:36日間 482348歩
スクワット10日間 1010回
<想い出>
そもそも、近所をどのあたりまで歩いたら、1万歩になるのか、わからない状態。
朝5時起床5時20分から6時30分頃まで約7.5kmを歩いた。
3月15日の朝5時は、真っ暗で懐中電灯を持って歩いた。
歩く以前に、早起きすることが辛かった。でも、朝焼けのサーモンピンクは美しかった。
そして、知らない人と交わす「おはようございます。」という挨拶は気持ちよかった。
3月16日、万歩計を買った。始めは、5000歩ぐらいしか歩けなかった。
3月31日、初めて1万歩歩けた。1時間で1万歩歩くということは、1秒間に3歩歩かなければと思い、とりあえずリズムキーパーを使って3拍子で歩いた。しかし、1秒間に3歩は無理だと思った。
4月10日、東岡山の自宅からプラザホテルまで、歩いて車を取りに行ったついでに、旭川の桜並木の下を歩いた。朝7時、快晴、満開の桜。風が吹くと頭に桜の花びらが降ってきて気持ちよかった。100km歩行のおかげで夢の様な時間を過ごせた。
4月11日、夜から通勤を自動車から徒歩に変えた。自宅から北長瀬まで約9.5km、リュックに、書類バックと作業服を詰め込んで歩いた。1時間半で歩く目標だったが、1時間45分かかった。会社は朝7時オープンにしていたので毎朝遅刻ぎみで、急いで歩いた。夜は、へとへとで帰った。
4月17日、35km練習歩行に参加した。岡山駅まで歩いて行って、帰りも自宅まで歩いたので結局45kmぐらいになったと思う。足の裏に大きなマメを作り、つぶしてしまった。翌日も歩いて通勤して悪化させてしまった。普通に歩けない状態になった。しかたがないので、スクワット練習だけにした。結局25日まで歩けなかった。25日夜から28日まで徒歩通勤して、30日にスクワットを100回して全練習を終了とした。
スクワットは、始め50回しかできなかったけど、最高130回までできるようになった。特に、35km練習歩行のあと、急にできるようになったので、35km歩いたことで足がかなり強くなったんだと感じた。35km練習歩行は本当に大切な事だったと思う。
最後に禁煙しました。12歳から42歳まで30年間1日も欠かさず吸い、最近では1日に60本ぐらい吸っていたタバコをやめました。ただし、タバコをやめたら、ご飯がおいしくて減量できなかったのでタバコをやめたことが、100kmチャレンジにいいことだったのかよくわからない。しかし、100km歩行は私にとって体にいいこととなった。
B.持ち物
リュック、帽子2つ、靴、靴下5足、携帯電話(予備電池)
軍手、トレパン、ウインドブレイカー、ライト(BF-194他2つ)
折りたたみ杖、アミノバイタルプロ、膝用サポーター2枚
バンドエイド、タオル、エアサロ、バンテリン、ワセリン、
夜光タスキ、LED付夜光ベルト小3本、小銭、ゼリー状飲料
冷凍アミノサプリ、地図3枚、100km参加者携帯一覧
<想い出>
リュックは、背中にあたる所が面でなく2本線であたるので暑くなくよかったけど自重が少し重すぎたように思う。
帽子は、昼用と夜用2つ使った。昼用は、メッシュで日よけ布が後ろについたジョギング用のもの。夜用は、冬の釣り用で耳から首にかけてカバーがついているものでした。夜は寒かったので冬用のものを持っていて本当によかった。
また昼用のものは、35km練習歩行に使ったのですが、その日風が強く飛んでいきそうになったので、妻に顎紐をつけてもらった。
靴は、高い靴を2足も買うはめになった。始め買ったサイズが25.5cmでちょうどいいと思って歩行練習していましたが、100km歩行直前に右足小指が痛くなって、あわてて26cmをもう1足買いました。えらい出費でした。でも無理して買って正解でした。
靴下は、最後まで悩みました。私は足の裏にかなり汗をかくので、その汗を吸ってくれてしかも濡れた感じがしないものを探しました。いい靴下だったけど1足2千円もしました。
ライトは、リュックの肩紐にクリップでとめられるタイプを使いました。両肩に軽いものをそれぞれ1つつけました。
折りたたみ式の杖をリュックに入れていましたが結局使いませんでした。
LED付夜光ベルトは、かなり目立ってまわりの自動車へのアピールにはよかったと思う。
C.コース下見 4月24日、4月25日、4月29日、5月1日計4回
<想い出>
車を2時間以上運転すると、それだけで結構疲れます。その運転して結構疲れる距離を歩かなければならないことに気付かされ、愕然とした。
4月24日(15:00〜18:00)
助手席に大西隊長、後ろに三期毛山さん、四期金関さん、寺田さんを乗せて下見しました。大西隊長は、自分が歩いた時のことなど、もちろん道の注意点も含めて、色々な話をしてくれました。印象に残ったのは、毛山さんが昨年歩くことができなかった道のところになって、何度も「ここまで、歩きたい。」とおっしゃったことでした。毛山さん完歩本当におめでとうございます。
4月25日(14:00〜17:00)
前日、運転手として下見をさせていただき、道は完璧に覚えることができましたが、運転に集中して細かいチェックができなかったので、この日、歩道のチェックに行きました。
4月29日(10:00〜13:00)
助手席に妻、後ろに娘2人を乗せて、3度目の下見をしました。この日は、妻と娘が、コンビニと自販機の場所をチェックしてくれました。鶴海から久々井にぬける道について、海側を歩くべきか、山側を歩くべきか、車内で激論となりました。
一家で楽しいドライブでした。
5月1日(20:00〜22:30)
夜、妻を助手席に乗せて、最後の下見に行きました。妻と夜に2人きりでドライブするのは本当に久しぶりでしたので、妻も喜んでました。これも100km歩行のおかげです。閑谷学校に登る急な坂道で車のヘッドライトを消したら真っ暗でした。それから、キリンビールの手前の山陽道の高架下のあたりも真っ暗で、歩道がなく、ちょっと危ない気がしました。(私が歩いた時には、もう夜が明けていた。)
計4回の下見によって私は、たとえサポーターがいなくても、道に迷うことは絶対にないという自信を持つことができました。また、色々な情報を地図に書きこみ、いい地図を作ることができました。
2.歩いた結果(内容)
24時間 87km 時速3.625km
(万歩計を当日忘れて歩数を数えることができなかった。残念。)
<想い出>
前日夜、緊張・不安のため、なかなか眠られず、当日朝は、早くから目がさめて寝不足状態でした。
当日朝8時に後楽園まで妻と娘に送ってもらった。早すぎたかな?と思ったら、もうすでに大西隊長、北川、恒本、両副隊長がおられたのでびっくりした。一平さんも来られていたので予約していたテーピングをしていただきました。このテーピングのおかげで24時間歩けたことに間違いありません。一平さんに「怖いですか?」と聞かれて、「はい、怖いです。」と答えた。
10時、不安一杯のスタート。この時の目標は、とにかく閑谷学校まで上がることとした。
気が付いたら一番後ろに近いところを歩いていた。3〜4人前に同期の坂本さんと増田さんが並んで歩いていたので、35km練習歩行の時と同じく、お邪魔虫みたいに後ろについて行こうと決めた。百間川土手を歩いている途中で、右足付け根に痛みを感じ、不安が大きくなった。今まで練習でも一度も感じたことのない痛みだった。結局この痛みが最後まで影響する。ピンクパンツの人が、すぐ後ろを歩いていた。
天気は最高で気持ちよかった。沖田神社10kmポイントで柳井さんに「ラスト90。」といわれた。12kmサークルKでサンドイッチ1個食べた。このサンドイッチが24時間唯一の食べ物となった。元々突然おなかをこわすことがあったので、歩行中は極力何も食べずに歩こうと決めていた。
永安橋を渡り、西大寺浜の信号手前の自販機で小休止。前後に私達3人以外人影無し。ペースが遅すぎると感じたが、足が痛くてスピードを上げられない。2人にとっくに置いていかれても不思議ではないようなスローペースだった。しかし、坂本さんも、35km練習歩行の時より体調は明らかに悪そうだった。いつの間にかピンクパンツの人に追い越されて、当分の間ピンクパンツの人を追っかけることになる。
20km大富の三叉路のチェックポイントで小休止。歩き始めたら、四期の寺田さんに出会った。足が痛いので2人に「もう置いて行ってくれたらいいよ。」と言ったけど、2人共優しい人で、私の前を歩き続けてくれた。申し訳ない気がした。IRIE百貨店まで本当に遠く感じた。IRIE百貨店でトイレをお借りしたけど、お店のご夫妻は、とても優しい人でした。IRIE百貨店を出てすぐのサークルKに行くと、四期の日向さんと中村さんがおられた。
2人は私達より先に出発していった。
暑かったが水分を取り過ぎないように気をつけた。すでに、アイソトニック飲料といわれるものに、うんざりしていた。口の中が気持ち悪かった。
リュックの肩紐に付けていた腕時計の表示がおかしいことに気づく。2千円の時計なんか買わなきゃよかったと思いながら歩く。
ショッピングプラザとりいで小休止。坂本さんの足の状態が、おもわしくないようだった。
坂本さんが、エアサロより強烈なスプレーを私に貸してくれた。そのおかげで、足が少し楽になった。坂本さんは本当に面倒見のいい人です。助かりました。
ショッピングプラザとりいを出発して、しばらくして、日向さん、中村さんを追い越した。
飯井交差点で休憩。一平さんが、氷水を入れてくれた。氷が冷たくておいしかった。
私達より先に休憩していたピンクパンツの人が、ここでブルージャージの人に変身した。
飯井を出発して、出光のガソリンスタンドまでが、また遠かった。ここで休憩。ガソリンスタンドでトイレを借りた。ついでに顔を洗ったら気分転換できた。
久々井へ向かう上り坂を登り始めた時、16:58妻からメールが届いた。「そろそろ大鵬薬品のあたりですか?」という内容にショックを受ける。「これから坂を登るとこじゃ。」と叫びたかった。妻と娘が「海側を歩いた方が安全だ。」と注意してくれた道を、結局山側を歩いた。自動車があまり通らなかったので危険な思いをせずに済みました。そしてこの道から見た夕暮れ時の景色は、本当に美しかった。初めて見たわけではないのに、なぜかものすごく美しく感じた。このあたりから、増田さんと、だんだん離れだした。増田さんは、まだまだ余裕がある感じで、当然と言えば当然だった。見えている体育館へ向かって急いで歩いていた。ここで元ピンクパンツの人を追い越した。追い越す時思わず「先生のこと尊敬します。」と言っていた。本当にすごい人だと思っていた。元ピンクパンツの人は「わしゃ、もう、おえんぞ。足がボロボロじゃ。」と言った。
備前市体育館で夜行準備をした。ズボンを履き替えていたら、先に休憩していた、二期生の善木さんが静かに出発して行った。後から来た元ピンクパンツの人が、「まだ歩く」と言うので、ぶっとびそうになった。
体育館を出発して日没直前、見る見る暗くなっていく。増田さんは、全然見えないぐらい離れてしまった。坂本さんも、50mぐらい、いやもっと前を歩いていた。海辺りの道幅が広い、真っ暗な道で、危険を感じた。後ろから来る自動車のスピードが、やたら速かったからです。坂本さんの夜光タスキが全然見えなくて、私をよけた車が、坂本さんの後ろで、あわてて急ブレーキを踏むのを3台ぐらい続けて見たので本当に危ないと思って、坂本さんに知らせようと、何度も大声で坂本さんを呼んだ。しかし、坂本さんは、耳にイヤホンを付けて音楽を聴いていたので、私の声が全然届かない。追いつくのは無理だし、もし事故でも起きたらどうしようと思いあせっていた。すると突然、坂本さんが止まった。
イヤホンをはずしながら大声で「だめじゃ、歩けん。」と言った。足が痛いらしかった。私は、止まってくれてホッとした。九耐前の蛍光灯がある所で休憩した。日が暮れて寒かったので、昼はいていた半ズボンを長ズボンの上にはいた。19:45今日初めて妻へメールを送った。「今、九耐前です。」このメールを受け取った妻は、時間内には完歩できないと思ったそうです。鋭い。
再び歩きだして少したって坂本さんが「ない。IPODを落とした。」と言った。坂本さんは捜しに戻ると言うのだけれど、私も一緒に捜してあげたかったけど、私には戻る元気なんかなかった。なんか辛かったけど先に行くことにした。
松本橋交差点を過ぎてサークルKに近づいたが、なぜかここでは休憩せずに通りすぎようと思った。増田さんと善木さんが休憩していたので、先に行くからと伝えた。
もっと冷静にここで休んだ方が正しかったかもしれない。勝手に焦っていたみたいだった。
備前市民センター信号右折してちょっと調子に乗ってスピードを上げた。なんとなく行けそうな気分になってガンガン歩いた。途中、足を痛めた四期の伊丹さんを追い越して、三期の布野さんまで追い越した時には、このまま閑谷まで上がれるかもしれないと、大きな勘違いをしながら歩いていた。すると突然ヤマハボートの前でスローダウンとなった。
「え、もう終わり?」という感じだった。エンジン全開で歩いた距離は、たったの2km程だった。すぐに布野さんは行ってしまった。以後2度と会うことはなかった。とぼとぼと歩いたら宇野バスのバス停が明るくてベンチがあったので、座り込んだ。少ししたら、増田さんと善木さんが一緒にやって来て、ベンチに座った。2人共、自分と違って元気そうに見えた。善木さんに「よう、がんばりますねえ?」と聞いたら、「悔しかったから。」と答えてくれた。善木さんの「悔しかったから」と下見の時の毛山さんの「歩きたいなあ」という言葉が重なるように頭の中に響いていた。21:05ここで2度目のメールを妻に送った。「いま、もうけんちゅういです。」この全部ひらがなのメールを見て妻は「もう、ダメじゃな。」と思ったそうです。この時メールを漢字変換させる気力さえもなくしていた。
とりあえず穂浪橋までと思い、またがんばって歩いた。穂浪橋のチェックポイントで名前を聞かれた時、すぐ返事ができないくらい疲労しきっていた。少し意識がボーとしていた。
ただ、ここでオレンジ1切れ戴いて少し意識が戻った気がした。先に休憩していた増田さんが出発するので、とにかくついて行こうと思った。ただついて行ける自信は、全くなかった。穂浪橋を出てすぐに、本当に寒いなあと感じた。どんどん体が冷え切っていく感じがした。すると、増田さんが「花房さん、軍手したほうが、いいよ。」と言ってくれた。いそいでリュックの中から軍手と冬用帽子を取り出してつけた。あたたかかった。少し元気が出る感じだった。その後、あっという間に増田さんは見えなくなっていた。この穂浪橋から伊里中ローソンまでの3kmは、この日歩いた中で一番長く遠い3kmに感じていたことは間違いなかった。1人、とぼとぼと、寂しく歩いていた。歩きながら閑谷までは無理かもしれないと思っていた。精神的にかなりきつい状態になっていた。それでも歩き続けられたのはどうしてだろう?本当にうんざりしながら歩いていると、遠くの空が、黄色く明るく見えた。「2号線じゃ。」直感的にそう思った。伊里中ローソンが見えた気がした。
伊里中ローソンでも何も買わず、トイレにも行かず、とにかく足のケアをして、先に休憩していた増田さんが出発する後を追った。もちろん、すぐに、置いていかれた。増田さん速い、速い。本当に速い。さすが、若いなあと感じていた。いよいよ閑谷へ。しばらく歩いていたら、車が来て止まった。小山さんだった。「登るのか?登ったら、ちゃんと下りるように。」と事務的口調で命令が下った。「わかりました。」と答えた。またしばらく歩くと休憩すると、決めていた、ベンチ付きの自販機に到着。日が暮れてからは、暖かい飲み物だけ飲むように決めていたので、ベンチに腰掛け暖かいコーヒーを飲んだ。体が温まってよかった。少しホッとしていたら、すごい勢いで2人の男がやってきた。誰だろうと思ったら、なんと、坂本さんだった。穂浪橋で足のケアをきちんとして、それからものすごいスピードで追っかけて来たらしかった。とても元気そうだったので、うれしかった。もう1人は四期の安藤さんだった。ちょっと、不思議に思った。私は安藤さんを抜いた覚えがなかった。事情は、後日、彼のレポートを見てわかることとなる。安藤さんは、かなり疲れているように見えた。2人は先に行ってしまった。ついて、行こうとしたけど、やっぱり置いて行かれた。目の前に真っ暗な急坂が現れた。いっきに登って、いっきに下った。いよいよ、あとは登りきるだけだとファイトが沸いた。なぜか、穂浪橋〜伊里中ローソンで死にかけていた自分とは、まったく違う挑戦的な自分が、そこにいた。とにかく登っていった。「まだかなあ?」と思った時、ちょうど上から白い車が下りて来て止まった。そして「あと200m。」と叫んでくれた。小倉さんだった。うれしかった。「もうちょっとじゃ。」と思えた。がんばって上がりきったら、恒本さんが「ナイスファイト。」と声をかけてくれた。本当にうれしかった。やっと閑谷学校まで来た。ちょっと信じられないような感じもした。でも本当に確かにそこに私は立っていた。
23:48 妻に「閑谷出発します。」とメールを送って閑谷学校を出た。
あとは下りだと思って元気に出発したら、なんとトンネルの中は、ずっと登りだった。「勘弁してよ。」と思った。あとは、ずっと下りで、体重を利用して一気に下った。途中、坂本さんと安藤さんが休憩していたけど、私は「先に行くよ。」と言って、通り過ぎた。この後2人に会うことは、2度となかった。吉永ローソン到着。今日はじめて森脇さんに会った。
ここでも、足のケアだけしてすぐに、出発した。両足首から下が、かなり痛かった。
藤野交差点を左折してコース変更した土手道を行こうとしたら、サポーターが、たくさんいる感じがした。しかし、私がそこを通り過ぎようとしても、誰も気づかない感じだった。
その時「サポーターもかなり疲れているんだなあ。」と思った。あえさんが、気づいてくれて「がんばれ。」と叫んでくれた。うれしかった。そのまま行こうとしたら、「ここで体調を崩す人が多い。」という理由で男の人が少し一緒に歩いてくれた。その人が「忠澤君もここでリタイヤした。」と言ったので、びっくりした。ショックだった。100km歩行の怖さを知ってしまった。
和気橋の手前の大きな右カーブの手前の所を歩いていたら、後ろから、車が来て追い越してから止まった。西原幹事だった。写真を撮ってくれた。そして「もうすぐ、70kmじゃ。がんばれよ。」と言ってくれた。車を見ると善木さんが乗っていた。善木さんも「がんばれ。」と言ってくれた。本当にうれしかった。でも、夜中に、真っ暗なところで写真を撮ってもらうということは、普通の生活では、めったにない事だなあと思いながら歩いた。
和気橋を渡った。しかしこの和気橋が、長かった。歩いても、歩いても、いつまでたっても渡れないような気がした。本当に長く感じた。
リバーサイド到着。湊さんと堀内さんがいてくれた。増田さんもいた。でも増田さんは、すぐ出発していった。増田さんとはここで会ったのが最後だった。増田さんとは、もう、会えないことが、私には、何となくわかっていたので、彼女が完歩できることを心から祈った。また、ここまでありがとうという気持ちだった。小山さんが「あんた思うたより、ガンバルなあ。」と言ってくれたので、「私もそう思いますわあ。」と答えた。リバーサイドは、妻が「ここまで戻って来たら、いつでも、すぐに、迎えに行ってあげられるから。」と言ってくれた場所です。だからここまで来たら自宅に帰ったような思いがした。
湊さんには、どうしても言いたいことがあった。湊さんは、三期生卒塾式の懇親会で、私に100km歩行のことを「楽勝、楽勝。」と言った人です。「湊さん、全然楽勝じゃねえんじゃけど。」と、とりあえず言っておいた。湊さんは、ニコニコ笑っていた。そのすぐ後突然、湊さんは、真面目な顔で「この先、一緒に歩いてやろうか?」と言ってくれた。びっくりした。うれしかった。ありがたかった。ただ、一緒に歩いてもらうと、自分のペースで歩けない気がしたので「もう少し1人で歩きます。」と答えた。ここで、私の後ろに、まだ6人歩いていると聞いた。その6人の中に同期、同年代の久宗、金関という名前を耳にして本当にうれしかった。まだ、皆、がんばっていると思うと勇気が湧いた。
湊さんと、堀内さんに「まだ、私が、完歩できる可能性は、ありますか?」と聞いたら、2人共「十分ある。」と言ってくれたので、とにかく出発することにした。冷静さを失っていたのか、余裕がないのか、残り時間と、残り距離に対する感覚を全くなくしていた。ただ、とにかく、道があるから歩いているという状態だった。足が、かなり痛かった。
リバーサイドでは、真っ暗だったのに、いつの間にか、空がだんだん白っぽくなってきていた。夜が明けて、山陽道の高架下を過ぎたあたりで、後ろから車が来てとまった。一平さんだった。「荷物持ちましょうか?」と言われて、またまた、本当にうれしかった。でも「もう少し、このまま歩きます。」と答えた。すると、一平さんは「ゴールで待ちます。」と言ってくれた。それが、またまた、本当にうれしかった。重い一言でした。
5:57妻に「今、キリンビールです。」とメールを送る。初めて空腹感に襲われたので妻が持たせてくれたゼリー状飲料を口に流し込んだ。少し元気になった。小山さんの命令で、リュックを堀内さんに預けた。ここから、堀内さんが付き添ってくれることになった。堀内さんが気の毒に思えた。もっとイケメンならよかったのに、こんな、おっさんに付き合わされて、本当に、気の毒に感じた。「先に行って、どこか、止めやすい所で、待っていてください。」と頼んだ。この後は、「堀内さんの赤いインプレッサまで歩く。」「とにかく、なんとか、追いつく。」としか考えられなくなっていた。
瀬戸駅で、後ろから久宗さんが、ものすごい勢いで、追っかけて来ていると聞き、たぶん抜かれると思った。なぜ、こんな時間にそれだけのパワーが残っているのか、私には、理解不能だったので、久宗おじさんのことが、怖くなった。まさか変な薬でも?と思った。
足の痛みより、もっとすごい痛みを腰に感じていた。普通に歩こうとすると、腰が痛くて歩けない。体の力を抜いて、ひょろひょろ歩くような歩き方しか、できなくなっていた。
腰の痛みを忘れたら、今度は足の痛みが襲って来た。200m続けて歩くことができなくなった。はっきり言って、もうどうでもいい状態になっていた。とにかく、しかたなく、堀内さんの赤いインプレッサの所まで歩くという感じだった。追いつくと必ず堀内さんは、やさしい言葉をかけてくれた。本当にありがたかった。瀬戸駅から東平島信号まで、本当に遠かった。途中、左足の膝が、おかしくなり、左足をひきずりながら歩いていた。多分前半、右足をかばって歩いたためではないかと思った。きつくて、休んでいたら、森脇さんの車に出会った。「がんばれ。」と言っていただいた。はずかしかったけど、うれしかった。もう、左膝がのびない。痛い。東平島信号を右折して左側にあった、つぶれた中古車屋のところで一時立てなくなっていた。その先のサークルKまで、なんとかたどりついたところで、残り時間も少なくなってしまった。もう十分と思った。その時、久宗さんから電話がかかった。「今どこにおるん。わしも、そこまで歩くから。」とのこと。思わず、「どこまでも好きなだけ歩いてください。」と言ってしまった。今考えると、久宗さんを待ってあげればよかったと思う。会いに戻ってあげればよかったのにと思う。結局、最後まで、わがまま勝手に歩いてしまったように思う。はずかしい。でもその時の、その姿が、私の今の姿そのものなのです。それが真実です。その後は、堀内さんに先に後楽園に戻っていただくようにお願いして、妻に迎えに来てもらい、ここで私の初体験24時間以内100km歩行チャレンジは、終了した。
長かったようで、あっという間の24時間という感じだった。
後楽園でみんなにあたたかく迎えていただいて、幸せな気分になりました。
堀内さん本当にありがとうございました。サポーターの皆様本当にお世話になりました。
そして久宗親分、あなたがいたから耐えられました。恐れ入りました。ありがとう。
3.チャレンジした理由
岡山政経塾生が、24時間以内に100km歩くのは、当たり前の事と思い込んでしまったから。
普通に歩くことができる体をしているから。
4.100km歩けなかった理由
<24時間以内に100km歩く>事に取り組んだ自分の姿勢に、誠実さ、純粋さ、執念が不足していたから。
<誠実さ、純粋さ、執念>は、人生、経営においても大切な事だと思います。
とにかく持ち続けることが、私にとっては、むずかしいことなのです。
結局、いつもどおりの結果が残ってしまった。はずかしい。
5.今後の目標
24時間以内に100km歩く。
6.目標達成のためにしなければならないこと
歩き方を体得する。
体重を減らす。
長距離(30km以上)歩く練習を複数回行う。
7.感想
歩き終わった直後には精一杯やったという気持ちで後悔はなかったが、なぜか日がたつにつれ、悔しい思いが増えてくる感じです。変です。
やはり100km完歩してゴールのテープを切りたいです。
そして、晴々とした達成感に、ぜひ、浸ってみたいです。
サポーターの方々の方が、チャレンジャーより、はるかに大変だろうと思いました。
8.終わりに
24時間歩けたのは、ずうっとゆっくり歩いてしまったからです。はずかしい。
私のおばあちゃんは、101歳です。頭もボケてないし、ちょっと耳は、遠いけど、会話も普通にできるし、ご飯も自分でお茶碗とお箸を持って食べます。でも立つことができません。歩く事ができません。たぶん、おばあちゃんは、「昔みたいに歩きたい。1人でどこへでも行きたい。」と思っていると思います。そんな、おばあちゃんは、私の母から、私が100km歩くと聞いて大変心配してくれたそうです。
そんな、おばあちゃんの思いを心の中に置いて、今回100km歩行にチャレンジしました。
普通に歩けることに感謝します。
24時間以内100km歩行は、たとえ完璧に準備できたとしても絶対完歩できるという保証はない。ましてや、偶然、運良く完歩できる道程では絶対にない。だからこそチャレンジする価値がある。だからこそ完歩された方々に対し、心から敬意を表せる。
そして、すべての参加者それぞれに何か大切なものをプレゼントしてくれたように思う。
岡山政経塾に入塾する際、一番不安だったのが100km歩行でした。
「歩けるわけねえが。絶対無理じゃ。」と思っていた。
「絶対、無理」と思ったからこそ真剣に取り組めたように思う。
そして「真剣に取り組めた。」からこそ楽しかった。
不思議でしかたがないのだけれど、体はボロボロになったけど、おもしろかった。
87kmも歩かされて感謝の気持ちを持つなんて本当におかしいと思う。
岡山政経塾に入塾させていただけていなかったら、こんな変な経験をすることは絶対無かった。だからやっぱり、ありがたい。
岡山政経塾が存在することに感謝し、入塾を許可していただけたことに、あらためて感謝します。
最後に、一緒に歩いてくれた坂本さんと増田さんは自分が痛い思いをしていてもまわりの人達を大事にしながら歩いていた。2人の後ろをついて歩くことになったのは、決して偶然ではなく、たぶん神様というような存在が「2人の事をよく見て反省しなさい。」と私に言ってくれたのかなあと思います。そして最後まで私のケツを追いまわしてくれた久宗さんの執念、「最後まであきらめない」思いが、実はやはり何かの存在から「あなたも最後までがんばらないといけませんよ。」と言われ続けたように思えます。すばらしい人達に出会えたと感じました。3人共本当にありがとうございました。そして、これからもどうぞ色々教えてください。
「たった100km歩けない奴に、経営なんかできるもんか。従業員なんか雇えるもんか。」と思っていた。だからやっぱり、悔しいです。情けないです。うちの従業員に申し訳ない思いです。はずかしいです。
<ただ、歩く>という行動に、こんなに意識して取り組んだことは、たぶん過去に一度もありません。<歩けるのか?と悩む>ことも今まで無かったように思います
<歩ける>ことが、とっても大切な事なのではないか?と考えたこともたぶん初めてです。
長々と、だらだらと、まるで私の歩き方のようになってしまいました。
すみません。
最後の最後に、完歩された皆様、本当におめでとうございます。
おみごとでした。そして本当にうらやましい。
付記その他用意した物
シップ薬25枚入り3箱、マルチビタミン、アミノ酸錠剤
2005.5.15時点 体重75kg(来年のために書き残す)
以上。
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