2005年 100km Walk

 
◆本郷 友子(岡山政経塾 3期生)

100k歩行レポート
「 完 、ではないようで…」



 はじめに、多くの方々の計り知れないご尽力の下に、完歩させていただきましたこと感謝いたします。
 
 多くの再チャレンジの方と同様、私の100k歩行は昨年のリタイヤの苦い経験から始まっていました。しかし私の100k歩行への決意は、私の頭からは消えかけている高校数学の関数並みに山谷を繰り返しました。私の記憶に残っている関数のグラフの山谷は規則的ですが、私の描いた線は実に不規則かつ感情的でした。以下例を挙げます。

ヤマA
 昨年のチャレンジの三日後、私は5月5日に一人、ひっそりと引越しをしました。一度も実家を離れて生活したことのない私には大きな変化で、引越しの荷物を抱える腕の力とは裏腹に、足はまだまだ言うこと聞かない状況の自分に、不安以上にかなり惨めな思いをしたことを記憶しています。倉敷と岡山間を小さなミニカで三往復した後、寝転がったまま、全く関連がないようですがなぜか、「完歩しよう。」と考えていました。一年前の私です。

タニB
 そんな決意をしたことは、筋肉痛がやわらいでいくにつれ、私の毎日からは薄れていきました。同期の方と時々思い出話をする程度で、100kを歩くということの意味など考えることもほとんどなかったように思います。人間が二足歩行の生き物であっても、決して二足歩行をするための生き物ではないからです。毎日は私の前にいろいろな課題を積み上げていきます。あの悔しさと決意は、心の奥に静かに沈んでいたように思います。
 このタニBの形はかなり長期間にわたり変化を繰り返しながら続き、夏の暑さと冬の寒さは、ともに私の練習不足の言訳を多彩に彩りました。
 
ヤマT
 その思いが静かに心の表面に再びうかびあがってきたのはいつのことだったのでしょうか。今年の一月、私は自分の命が有限であることを思い知らされた瞬間がありました。特に病気をしたわけでも、事故にあったわけでもありません。多少の難はあるものの私は健康です。しかし、その出来事で私は、何度もたどっている道も、いつでも会えると思っている人も、そのうちいけると思っている場所も、当たり前ではないことを強烈に思い知らされ、いろいろなものを鮮やかに感じました。そんな気持ちすら維持できる私ではありませんが、強く願ったことすらうやむやになりかけている自分が非常に情けなくなりました。今年は歩こう、そうあらためて決意したように思います。
 
タニU
 四月初旬、鬼ノ城を歩きました。かなりの勾配にすっかり呼吸が苦しくなり、参加者中常に最後尾で格闘。張り切って参加したものの、あまりのしんどさに、もともと大してなかった自信をさらに喪失し、不安がのこってしまいました。しかし、ここでの練習によって、本番での坂道は余りたいしたものに感じなかったのも事実です。恐るべし、桃太郎伝説、といったところでしょうか。
 
 そして、身勝手な関数の線の最終地点である本番当日、真夏のような快晴の青空の下、色鮮やかな緑とサポーターのかたがたの笑顔と、一緒に歩いた仲間に支えられ、朝日と夕日をひとつずつ眺め、ゴールである後楽園に無事に帰ることができました。終わったと思っていた関数は、来年のサポートに向けてどうやらまだ続きそうな気配がしています。
 
 今、歩き終えて、なぜ、24時間で100kなのですか?と問われても、いまだはっきりとした答えはありません。多くの方々の力をおかりし、多少の痛みを伴って、自分という人間を再確認できる、100kを歩く24時間。この絶妙な時間と距離の組み合わせは中毒者を出してしまうようで、おそらく私もその一人です。ひとつのシンプルで純粋な目標に対してチャレンジする人間がひたむきになればなるほど、周りの人間にもこの毒は伝わります。この毒はかなり効きます。一年目に身勝手なサポートをしたとき既に私は患者だったのかもしれません。
 脳はその毒をきっちりと記憶しているのだと思います。きっとまた五月が近づくとその記憶は呼びさまされ、私は新たな感動を得るために来年、サポートとして参加させていただきたいと強く思うことになるでしょう。
 
 みなさん、感動をありがとうございました。
 
 最後になりましたが、本番直前自分では理解できないアクシデントに見舞われ、かなり混乱した際、多くの方に励ましていただきました。ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。