2005年 100km Walk

 
◆高田 裕司(岡山政経塾 4期生)

『葛藤』




 『24時間』『100km歩行』・・・それらは初め私にとってあまりに途方もなく漠然としていて現実味のないものでした。だから正直、入塾式等での先輩塾生方のそれに掛ける熱意とテンションの高さについていけず引きまくっていました。
 当日は仕事のため、私はサポート隊として途中からの参加となりました。朝バタバタと仕事に向かっている時に携帯電話が鳴り見てみると、それは100Km歩行のスタートを告げるメールでした。今年からサポーター間での情報伝達のために専用のメーリングリストがつくられたそうです。「11:33伊丹、忠澤、能登さん10Km通過」「11:49ただいま松井、武久さん百間川土手あがりました」「12:09伊丹さん金岡信号通過」「12:1910Km全員通過」・・・それは仕事中もリアルタイムに実況中継され続けました。こうしている今もみんなは本当に走っているんだと改めて驚きと焦りの様な感覚に捕らわれました。
 仕事が終わると車に飛び乗り、集合場所へと急ぎました。リタイアした人等の運搬に少しでも役に立てばとガソリンを満タンにし、ナビで最短ルートを検索し吉永交差点へと駆けつけました。そこで信一さんと公靖さんと合流、朝から参加されている先輩サポーターの方々の指示を仰ぎました。
 やがて先頭集団が次々とやって来ました。コンビニ前で休憩を取る人、装備を取り替える人、マッサージを受ける人。皆60Km以上を歩き一様に疲れているのに、その眼差しは常に前へと向いています。そんなランナー達にどんなサポートをしたらいいのか分からず、せいぜい一平さんの指示通りにライトを照らしたり、寒気を訴える人の身体をさすったり、熱を帯びた脚にエアーサロンパスを吹き付ける事しか出来ない自分に不甲斐無ささえ感じました。
 しばらくすると閑谷学校へ移動し恒本さんと大西さんの妹さんと合流、ここで数名のリタイアが出そうだという事で待機となりました。結局ここで3名を、途中でさらに1名を拾い一足先に後楽園へと運びました。リタイアを余儀なくされた人達も気持ちは前へ前へと向いたままですが、思い道理に動かない脚に悔しさをにじませていました。
 それから明け方近くに古都宿に移動し妹尾さんと合流、再び先頭集団通過時のサポートに付きました。この時にはランナーの数も大分減っており、その過酷さを痛感しました。すでに丸1日近く寝ずに起きていましたが、それでもまだ頑張って歩き続けている人達の事を考えると不思議と眠くもなりませんでした。この時点で大部分のサポート隊は残ったランナーひとりひとりに1台の車で追走するという体制を取っていました。やがて先頭のランナーがゴールしたとメールでしり、その場にいたみんなと喜びあいました。
 『24時間』『100Km』そんな途轍もない目標に挑み、精一杯立ち向かったチャレンジャー、その達成のために一生懸命貢献し素晴しいサポート体制を作り上げたサポーター、皆で1つの目的に向かい成し遂げた達成感は最高の気分でした。この様な場に参加でき、微力ながら応援できた事はとても感動的でした。
 ただ、最後にがっかりさせられる事がありました。最後に後楽園でチャレンジャー全員が帰ってくるのを待っている時、あるサポート隊幹事の方がやって来て「車で参加した人にはガソリン代が出るのよ」との事。もちろんそれは初耳で、初めから貰うつもりもありませんでした。ところが続けて「打ち上げ会に寄付する事も出来るんだけど、途中からの参加なんだからそうした方が気持ち的にいいんじゃない」と言われました。サポートとしては確かに途中参加でしたが、自分なりに精一杯頑張り、実際24時間以上一睡もせずに参加しているのに、何故その様に言われなければいけないのかと腹も立ちました。それならと「いくら貰えるんですか?」とたずねると、無言で千円札を1枚突き出してきました。それだけかと結局打ち上げ代に寄付しましたが、後で聞くと車代は1人3千円だったそうです。なんだか一気に冷めてしまい、こんな事なら参加するんじゃなかったと思わされました。