2008年 100km Walk
|
|
◆富田 泰成 (岡山政経塾 7期生)
|
岡山政経塾100km歩行レポート
『そこから得たもの』
【はじめに】
これほどまでに自分と会話したことはなかった。これほど自分のことを遠くから見たこともなかった。それでいて、一番原石に近い自分も発見できた。
100Kを24時間以内に歩くというごく単純なことを通じて、皆同じことをしていながら、人によって見える景色は違う。その景色の違いがあればこそ、他の人と話がしたくなるのでしょう。そして素晴らしいのは、頑張った感動は共感できるということ。その共感があるから、人は支えあうことができるのだろう。
この挑戦を通して、私にも私なりの景色が見えた。その景色の色を皆さんに少しでも共有したいと思い、ここに今回の100K歩行の振り返りを書くことにする。
【決意文】見えたもの
私は100K歩行の前に決意文に書いたことを歩きながら何度も思い出した。
「誰かのために歩く!と皆さんは言うけど、私は誰かのために歩くことができるのか。今は自分のために歩くとしか言えない。そしてそれが自分の限界なのであれば、それを超えることで誰かのために歩ける自分がいるはずだ。」そう書いた。
歩き終えて今それは正しかったと思える。私は自分のために歩くという自分を超える必要があった。その先に見えたものは、「自分は人に支えられて生きている」ということだった。
【3人との55K、1人きりの45K】人と歩く気づきと一人で歩く気付き
30K地点で池田さんと一緒になった。歩きながら「僕が倒れたら先に行ってくださいね」と言った時に、池田さんは「それは絶対にできません。担いででも一緒にいきます」と言った。その時には古傷の捻挫の痕と腰の痛みがよみがえってきており、全身が硬直したような激痛に襲われていた。そのため池田さんの優しい言葉も心の隅に追いやっていた。
やがて、迷惑をかけたくないという思いが先行し、とにかく池田さんには先に言っていただいた。苦痛=自分のこと。ひどい苦痛=ひどい自分本位の気持ちへ。(しかし、ずっと後になり70Kからの暗い川原の直線をあるいていた時、ふと池田さんがこの100K歩行で目指していたものがぼんやりながら見え、30数キロ地点で言われた「担いででも一緒に行きます」という言葉がグサリと心に刺さった。あの時の自分にあの言葉が言えただろうか?そう思えてはじめてその心に感謝した。)
車で過ぎる3期の横田誠さんが声援を送って下さった時に、池田さんが備前体育館で私のマッサージをお願いしてくださり、その後、たくさんの気付きを与えてくれることになった池田さんと別れた。
それからの体育館までの1人の道のりは遠く、一歩一歩が体を砕くために進んでいるように思えた。何台も車が後ろから近づいてはスピードを緩め、「頑張れ」と声をかけてくださるサポーターの方々がダメになりそうな自分の背中を押していた。その中に田中一平さんがいらしゃった。車を横に止めると、「そんなどたばた歩いたら関節をやられる。もっとゆっくりでいいから一歩一歩力を抜いて歩け。筋肉は痛みになれるけど関節をやられたらその時は終わりだから。」とアドバイスをいただいた。最後に「負けるなよ」と過ぎていかれた。一人の自分。でも一人を支えてくださる人たちの存在。一歩一歩、田中先輩のアドバイスの通りに歩いた。この一言のアドバイスが痛みと付き合う方法を教えてくれた。少しづつ進めるようになり、そこに見えるのにまるで近づいてこない体育館を目指して進むことができた。
備前体育館に近づくと、サポーターの方々が何人も出てこられ、大きな拍手を送って下さった。そのことの嬉しかったこと。なんて温かく感じることだろう。口々に「いいペースだぞ。かなり速いから大丈夫」と言われ、消えそうな心の置き火にポッと火がついた。
横田誠先輩には丁寧にここでマッサージをしていただいた。足の付け根の関節の痛みをほぐしてくださり、激痛の中で熱いものがこみ上げてきた。横田先輩のマッサージが無ければ、この後の10Kさえも越えられなかったかもしれない。ありがとうございます。
その間、会社の先輩でもある横田俊介先輩が横について下さっていた。ウェットティッシュを手渡して下さり、ジッと私の目を見て無言のまま頷いた。それだけで全てが伝わってきた。言葉よりも伝わる無言に肩をそっとたたかれた。「立ちあがって行け」と。
激痛を押して、同時に出発される同期の西江さんとしばらく進む。確実に西江さんは私にペースを合わせて下さっており、それが痛みと同じくらい苦しく、また温かく、同期と一緒に歩いている1秒1秒がかけがえの無いもののように思えた。西江さんは、「先に行く」と言ってくださった。その言葉は、決して「お前が遅いから」という言い方ではなかった。私が、ついていかなくてはいけないという焦りに追われて無理なペースで進んでしまい、この後が続かなくなってしまうことを心配しての心遣いであることを知っていた。その後ろ姿にお礼を言った。
45キロを過ぎ、50キロにさしかかろうとする時、前を歩く人影を見た。荻野さんだった。夢中で追いつき、荻野さんと一緒に並んだ。会社の昼の時間に、一緒に歩き、吉野家の牛丼を食べて会社に帰るということをしていたためか、その歩調が心地よかった。ただ2人とも無言で、時々目頭を押さえる荻野さんと2人で同じ夢のために前に前に進んでいるように思えた。
私は3人の人とわずかな時間だが一緒に歩き、ひとつのエピソードを思い出していた。
学生時代インドの荒野を一人で歩いた時に、ふと横を見るとボロをまとった男が私と同じように前を見つめて歩いていた。見知らぬ2人は無言のまましばらく並んで歩き、いつしかその男と私との距離は少しづつ離れていった。やがて男の姿が見えなくなりまたひとりになった。それからどれくらい歩いただろう。夕焼けの荒野の砂塵のかなたに小さな人影が見えた。その人影は吸い寄せられるようにだんだん近づき、また前を向いたまま2人は同じ方角を目指し、肩を並べて歩いていた。はるか前に会った男だった。私は一言だけ言った。「また会いましたね。」彼は言った。「また会いますよ。」と。やがてまた2人は無言で離れていった。
私は、この100K歩行で、一人で歩くこと自体に苦痛や怖さを感じることは無かった。なぜ一人になることがつらくないのか。インドの荒野で出会った男の姿を重ね合わせた時にその答えがわかった。
皆の目が、同じ方向を向いていたから。思いは違っても、志でつながっている。だから一緒に歩いていても無言で良い。離れてもいつかまた会えることを確信している。「また会いましたね」と言えば「また会いますよ」と返す。それは向き合うわけではなく、同じ方向を見つめて進んでいるからに違いないと思った。炎天下に襲われながら進んでも、暗い峠の夜道を歩く時も、朝の96号線を行く時も、私は32名のチャレンジャーと総勢100名以上の支援して下さった人たちと一緒に「1人で」歩いていたのだ。何かで全員がつながっていることを感じながら。
荻野さんとも、閑谷入り口のコンビ二で別れを告げ、それぞれ一人になって歩き出していった。そこからの45キロを一人で歩いた意義は大きかった。
【完全燃焼】なぜ燃え尽きるのか
今はっきり言えることは、この100Kをその時点でできる力のすべてを出し切ることができたこと。80Kを超えて、サポーターの何人もの方々にも、「もう今のペースなら間に合うからゆっくりで大丈夫だよ。」と言っていただいて心から嬉しかったのと同時に、「最後の最後まで一番の全力で、今できる最速の足で歩こう。」と決意を固めていた。理由は2つあった。
ひとつは、サポートしていただいた小山事務局長をはじめたくさんの方々や、同期で同じ時間に苦しんでいる人たちに、自分が少しでも手を抜いたら失礼だと思ったから。
そして、もうひとつの理由は、今歩いていることは「人生の回帰点」になるのだと閑谷学校に向かう坂道で気がついたから。
【人生の回帰点】
閑谷学校までの坂道を私は走って登った。
伊里中のコンビ二を後にし、暗い夜の閑谷学校に向かう坂道を一人登り始めた。懐中電灯に浮かぶアスファルトと普段よりも一段と輝く星だけが自分の見える世界のすべてだった。少しゆっくり歩きながら、「このままのペースで行こうか。十分にもうゴールできるペースだし足ももう限界だ。これでいいじゃないか。」と考えていた自分がいた。
その時のこと。自分の中で「お前これでいいのか?なあ、そんなもんか?ここに何しにきた?」という声が聞こえた。なぜかそれは小山事務局長の声音で響いてきたのだ。
この心の声にはっとした。「今のままでは100K歩行じゃない。行けてしまうからそのまま行くことが求められていることか?行ける事ではなく、どこまで挑めるかが全てじゃなかったのか?」そう気付いた時が、100K歩行の目指すものが「24時間以内で100K歩く」というゴールから、「自分の心の壁に挑む」という目的にシフトした瞬間だった。
足を引きずる自分が情けなくて、サポーターの皆さんのように人に優しくなれない自分がもどかしくて、痛みに折れそうな自分も悔しくて、そんな様々な思いが一気に膨れ上がってガソリンになり、急な坂道を全力のエンジンで走り出していた。
そこには最後まで歩くペース配分や時間配分の計算は既になくなっていた。私がやらなくてはいけないことは、今自分がもてる全ての力で前に進むこと。暗い夜道に一人倒れてしまっても構わない。それで24時間が過ぎてしまっても。。。それよりも力を出し惜しむことの方が情けないことなのだと信じることができた。そうしてそこから2K以上を走った。ここで100K歩行の目的ががっちりと決まった。
私の100K歩行は「人生の回帰点」を作ることだった。この先の人生でどんな壁にぶつかっても2008年の5月3日からの24時間を思い出せばどんなことでもやり抜ける、という立ち帰れる場所を自分の中につくること。だからこれから先を生きる自分に恥をさらさないようにしなければならなかった。また、これから先の自分が手本となる経験をしなければならなかった。今までの自分の中で一番輝いていること、一番全力であること、一番挑んでいること、一番負けていないこと、これが時間内にゴールするより大切なことだった。最後のゴールを迎えたとき「人生の回帰点」が心の中に刻まれた。そして、その回帰点を周りで一緒に心に刻み込んで下さったたくさんの人たちのやさしさの火に灯されていることを感じた時、氷が溶ける様に涙が自然に溢れていた。
【暗い中の明かり】暗ければ暗いほど小さな明りに感謝できる
ずたずたになった体に鞭をふり、一気に坂を登りきって閑谷学校に着くと、暗い夜道の向こうから近づいてくる人がいた。横田俊介先輩だった。「まだやれる」「もっと行ける」「ここからだ」・・・横田さんと並んで歩いていた時にふつふつと湧き上がる勇気を感じた。
「トンネルを越えるとそこにお前を待っている人たちがいるから」と言われて横田さんと別れた。その意味に気づいた。トンネルを抜けると遠くに明かりがポッと浮かんでいた。人の明かり。
この優しい景色が与える安心は、暗がりを経験した者だけが感じることができる感覚なのかもしれない。昔は電気も照明器具なく、山道を歩いた人にとって、民家の明かりがどれほど優しく思えたことだろう。明るくすると全部を「明らさま」にしてしまい、すべて見える分、目で見なくても伝わるものまで見せてしまう。結果として、視覚で止まって、心で見えなくなってしまうのかも知れない。この日の明かりは、心にストンと落ちてきた。
目の前にテントがあり、そこに明かりが灯されていた。小山事務局長と5期生池田君がそこにいた。単純にお二人の存在が嬉しかった。
また、たくさんの人たちが拍手で出迎えてくださった。地元の方が、この山には狐がでて、昔はずいぶんだまされたという話をしている時に、事務局長は「俺は女にずいぶんだまされた」と。この時、私は何時間ぶりかに笑った。バナナや飴や栄養ドリンクなどたくさんいただき、リュックは重くなっても嬉しくて、明かりを感じ、笑顔に支えられ、気力が一気に戻ってきた。
そして遠くに黄色い明かりを見送ると、下りの道をまた走り出した。
【高島までの最後の直線】「詰め」の大切さ
80K地点からの県道96号。何人もの先輩方が車を横につけては声援を送ってくださった。また、会社で日ごろから良く知った女性が、いきなり午前3時過ぎに道端に現れて、車から走り出てくると、切ったオレンジが入ったタッパを差し出してくれた。こんな朝方に、誰がお願いしたわけでもないのに足を運んでくれた、その優しさにも深い感動を覚えた。
96号も終盤に近づいたその時、道端に一台の車がとまった。小山事務局長の大きな体と優しい笑顔がそこにあった。大きな手を私の肩にかけ、ジッとしばらく見つめると「よしっ、大丈夫だ、まだ心は折れてない」と一言。その言葉が私のそこからの15Kを照らし出したように思えた。同時に、私のこれからの人生が、この15キロの「歩き方」にかかっているように感じた。小山事務局長のあの一言がそのスタートラインだったに違いないと今でも思っている。
そして最後の長い直線は忘れることができない。苦しかったからではなく、「詰め」を全うするための道のりだったから。東岡山から高島までの直線は自分のこれまでの歩行の「まとめ」にすると決めていた。「原点回帰」のまとめ。「ありがとう」のまとめ。「これまでの自分」のまとめ。妥協は絶対にしない!燃えるのではない、完全燃焼しきること!これがこの時の自分に言い聞かせていたことだった。
長い道のりは長いと感じられなかった。どんな長い道も必ずゴールはある。そしてそこにはかけがえのないものがあるはずだ。ここまで来る間に、それを信じることが出来るようになっていた。この2本の足で歩く。そして心で歩く。ただそれだけだった。
角毎に、夜を徹して応援して下さったサポーターの方々が優しい声援を送ってくださっていた。言葉も出なかった。
そして、98K地点の竹田橋に竹内健一さんの姿を見た時に、確実にゴールを意識した。「よくここまで来た。もう少しだ。最後頑張れ」と背中を叩いてくださった。この人がいなければ、今政経塾にも、この道をも歩いていない。夢の向こうに立っている人に、ただひたすら心で「ありがとう」と言った。
【ゴール】自分を越えて
ゴール直前最後の橋を超え、後楽園の曲がり角を曲がった。帽子を深くかぶり、涙を見られないように地面をにらんで最後の直線を進んだ。
痛みではれあがる足を引きずりながら、帽子の向こう側の景色に目を向けた。そこにはたくさんの人たちの大きな声援が待っていた。知っている顔、顔、顔。そして遠くに白いゴールテープ。景色は全部ぼやけて見えた。それでも声援を左右に聞いて一歩一歩白いゴールテープに向けて足を進めた。全部がスローモーションのように感じ、ゴールを切ったときにはもう立ち上がることができなかった。
荻野さんや西村さんが体を支えてくださり、先にゴールした9人の同期やサポーターの皆さんが次々に肩をたたいて「よくやった!おめでとう」と叫んでくださっていた。涙とともに、言葉にならない感動に満たされた瞬間だった。
西村さんに支えられシートの上に寝かされた。荻野さんが靴と靴下を脱がしてくれた。この21時間10分は一体何だったのだろうか。私は青い空を見ながら考えた。
私は今まで何をしてたのだろう。なぜこんなに人は他の人の頑張りに優しいのだろう。私が頑張っていなかったとしたら人は私に手を差しのべてくれたのだろうか。頑張っている人を見たら私はその人を皆さんがしてくれたように応援できるのだろうか。
これからの私ならそれができる。なぜなら自分のことだけを考えて歩くという自分の限界を超えてここまでたどり着くことができたのだから。
終わりに
5月11日 日曜日、私は一人で後楽園にいた。週末の昼下がりの静かな空気のあの場所には、激しかった数々のドラマの跡を見ることは出来なかった。やり遂げた時の雄たけびや、木陰でうなだれる人影も、足を引きずる人の姿も、ハイタッチをする人たちも、そこにはなかった。
ただ、耳の奥に聞こえる叫び、足音、歓声、目の奥に焼きついた歓喜の表情、体をつんざく足の痛み、、、、ゴール地点に立つとじわりと心の中から湧き上がってくる。
ふと顔を上げた。その向こうには、あの日歩き出した道が遠くつながっていた。
「あっ!!」ゴールとスタートが同じ場所だ!
「そうだ、あの100Kは僕のスタートだったのだ。」ゴール地点であるその場所に立って、既に新しい挑戦が始まっていることを再確認した。
まわりの人と支え合いながら、1つ1つ小さな山を越えていくことになる。その苦しさはゴールをするまで決して開放されることはない。そしてゴールは同時に始まりを意味している。そしてこれからもずっとそれが続くのだろう。どこまでも越えてゆくのだ!
皆、スタートするためにゴールしたんだなあ。
それを共有できた人たちは、やはり同志なんだなあ。
この100K歩行を通じて、大変なことに気付かせていただきました。
小山事務局長、西原幹事をはじめ、河野実行委員長、サポーターの皆様、チャレンジャーの皆様、本当にありがとうございました。
「最高の仲間(失礼な言い方ですいませんが)と、最高の人生をおくりたい。」強くそう思えるようになりました。そして、「人間って素晴らしい」とためらい無く言えるようになりました。
平成20年5月13日
岡山政経塾7期 富田泰成
|
|
|
|