2009年 100km Walk
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◆今井 裕之(岡山政経塾 6期生)
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岡山政経塾100km歩行レポート
「歩くということ」そして「生きるということ」
はじめに
「強くなりたい!」「器の広い人間になりたい!」これは、ちょうど3年前に東京から岡山に移住してきた時に、自分の中で感じていた思いでした。身内も縁者も誰もいない異国の地、岡山を事業拠点にし、起業3年目を迎え、たくさんの不安と未熟さに、会社経営も厳しく、生きることも本当に苦しかったです。岡山から東京に進出する会社があっても、東京から岡山に移転する会社は珍しかったようです。東京の知人の紹介で、5期生の本村さんとお会いし、岡山政経塾の話を聞き、すぐに入塾を決断した。この時、まさか3年連続100キロを歩くことになるとは夢にも思いませんでした。
「何のために歩くのか」
100キロ歩行の目的は、「24時間以内で100キロを完歩する事。限界を超え、未知の領域に挑戦し、勇気と精神力を養う。」とあります。1年目の目標は、「6期生全員完歩」「3年連続100キロ歩行参加」の2つでした。目的である、限界と未知の領域への挑戦を具体化した目標でした。自分が出来ることを、出来る限り努力しました。結果として、6期全員完歩は出来ませんでしたが、同期とたくさんの感動を共有できたことは、一生の財産となりました。また、自分の肉体の限界を知り、道路にひざまずき、一人で泣き崩れ、数年分の涙を流し、内なるもう一人の自分とたくさん会話をしました。その時突然、「自分は生きているのではなく、生かされている存在だ」と気づき、自分の傲慢さと愚かさに直面しました。サポーターのみなさまのありがたさに深く感謝しました。
2年連続の参加にあたり、参加を躊躇しました。小山事務局長のアドバイスは、「歩きかたかったら、歩けばいい」「学びたければ、学べばいい」「2年連続歩いては、いけないという決まりはない」との言葉に、2度目の挑戦を決意しました。2年目の目標は、「100キロ歩行を最大限に楽しむこと」でした。7期生が全員完歩した現実に、去年立てた目標が達成された嬉しさと去年自分がやり遂げられなかった悔しさがこみ上げてきました。自分の無力さと自分の器の小ささに、落ち込みました。へこみました。
3年目の参加につきましては、本当に同期の皆さんにご迷惑をお掛けいたしました。自分自身、本当に葛藤しました。心も痛みました。公言を果たすことで、全体の運営のことを考えずに、自分のことしか考えていないように見えていたことと思います。サポート隊のみなさん、本当にごめんなさい。今年の目標は、「自分自身への未知なる限界に挑戦する」ことでした。
人は、何のために生きるのか
自分が思う「これが限界!」というものは、本当の限界でないように思います。本当の限界時には、気を失う寸前なのではないかと思います。
これまでの経験より、後半は、気力で歩くしかないので、いけるところまで休まずに歩くようにしました。肉体的限界は、こまめなメンテナンスを繰り返すことで乗り越えました。
30キロ地点から、足に激痛が走りました。自分の限界との戦いが始まりました。そんな中、前半は、再チャレンジの一期の柳井さんと歩く中で、自らが限界に挑戦し、岡山政経塾の100キロ歩行を盛り上げようと生きる深い愛に感動しました。柳井さんには、まわりを気遣う優しさと仲間のありがたさを深く、学びました。その後は、自分の肉体的な痛みを味わいながら一人で歩きました。後半は、初挑戦の8期の渡辺さんと歩きました。渡辺さんからは、家族との絆と会社の関係者の熱い愛情を感じました。柳井さん、渡辺さんどうもありがとうございました。私も家族が出来てから、再挑戦してみたいです。
チベット密教(仏教)では、「死」というものをとても大切にします。チベットの高僧になり、慈愛に生きるために、苦行を行います。滝行、行脚、絶食などを通して、自分の肉体的限界に近づくことで、精神的な「死」の体験を積んでいきます。その中で、自分の最大の敵である「自我」「煩悩」に直面し、それを解き放していきます。自分の限界に直面し、「自我」から開放された時、他人(隣人)のために生きる、いや、生かされていると気づくそうです。岡山政経塾の100キロ歩行は、この世界観に似ている気がします。自分の肉体が動けなくなった時、自分を支えてくれる人(両親、仲間、サポーターの方々)に、存在に、意識に、自然に、宇宙に対して感謝した分だけ前に歩めます。24時間でこんな不思議なありがたい体験をあえていただける100キロ歩行に、あらためて感謝の気持ちでおります。
100キロ歩行は、よく人生に例えられます。何のために生きるのかという自問に、今の自分は、内なる自分の魂を磨き、肉体と感情を通して、自己成長し続けることで、社会に貢献していくことと自答しました。
「歩くということ」
同じ100キロという道なりを、同じ自分の肉体と心と魂で3年連続歩かせていただくことで自分なりの「歩くこということ」の中にたくさんの気づきをいただきました。
歩くということは、人生そのものだということ。
歩くということは、頭や理屈だけでは、歩けないということ。
歩くということは、自分の足で歩くということ。
歩くということは、一歩、一歩しか進めないということ。
歩くということは、心の声に耳を傾けるということ。
歩くということは、内なるもう一人の自分と向き合うということ。
歩くということは、人に助けられ、支えながら生きるということ。
歩くということは、気づきと学びの自習自得プログラムだということ。
歩くということは、勇気ある行動を通して、感動を残すということ。
歩くということは、時には、涙するということ。
歩くということは、「止」まることが、「少」ないということ。
※ 歩くという字は、「止」まることが、「少」ないと書きます。
歩くということは、自分を生かしてくれる全ての存在に感謝するということ。
歩くということは、未知(みち)なりの道(みち)を歩むということ。
歩くということは、本当に有り難いということ。
最後に
3年連続100キロ歩行に参加というわがままを承諾して下さった小山事務局長、西原幹事、OBの皆様、サポート隊の皆様に心より深謝申し上げます。
毎年、100キロ歩行では、さまざまな「感謝」の気持ちが沸き起こります。サポート隊長をはじめ、副サポート隊長、サポーターの皆様、主催者の綿密な準備とチェックポイントや車道でのお声がけ、お気遣いのおかげで安心して歩くことが出来ました。同期の皆さん、自分を生んでくれた両親、兄弟、職場の仲間、これまで出会ってくださった仲間すべてに感謝しております。
来年は、3年間分の感動と感謝の気持ちをどのようにサポートを通して、お返しできるか、そしてサポートを通して、どんな未知の領域と自分の限界の探求ができるか楽しみたいと思います。
本当は、お一人おひとりお礼を伝えたいです。
本当に、本当にありがとうございました。感謝の気持ちでいっぱいです。
追伸
岡山政経塾のコンセプトのひとつである「地域から岡山を地域から変えていく」ために自分が出来る一歩がなかなか見つかりませんでした。今回の100キロ歩行の早朝練習では、後楽園の周りや車道のゴミやタバコを拾いながら、 4キロの重りを足につけて歩行練習をしました。地域のゴミが減れば、少しは地域に貢献できるかなと思い、始めました。これは、自分なりに岡山に貢献するために選んだひとつの方法でした。続けたいと思います。
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