2010年 100km Walk

 
◆小林 孝一郎(岡山政経塾 9期生)

岡山政経塾100km歩行レポート
「100キロ歩行で対峙したもの」




1.完歩にためにすべきこと

 岡山政経塾の入塾にあたり、私は決意表明として、「自分自身の変革に挑むこと」を掲げました。その具体的目標として、24時間以内に100キロを完歩することを宣言しました。中学時代に陸上競技に励んだ以外、これまで特別運動をしていなかったので私は体力面での自信はありませんでした。そこで、100キロ完歩のためには何が必要か、自分は何をすべきか、ということを考えました。それはあらゆることに対しての入念な準備でありました。
 「身体の準備」については、合同練習会に参加することで歩く体力と筋力を作りました。練習会後は自宅までの4.5キロを毎回歩いて帰りました。「物の準備」については、スポーツ用品店で足のサイズを計測し、適したシューズとソックスを購入しました。栄養飲料や食事などの情報も仕入れ、実践しました。「心の準備」では、合同練習で先輩方や同期と意見交換を行い、本番まで意識を高めていきました。本番を意識した練習として、4月中旬からは本番での自分にあったペース(時速6.5キロ)を身体に覚えこませ、それに従い歩くことを意識しました。また、不安を解消するため、計4回、コースの下見を行い、徹底的にコースを覚えるとともに、食事や休憩ポイントについて本番のイメージを膨らませていきました。
 それでも、本番まで不安がゼロになることはありませんでしたが、私は、「できうる限りの準備をしたのだから、あとは楽しんで歩こう」と心に決めて当日を迎えました。


2. 自分のペースを意識して歩いた前半

 朝、後楽園に到着した私は、ゴールテープにマジックペンで「有言実行」と書きました。入塾式での決意を、いよいよ行動で示すときがやってきた、やってやるぞという気持ちでした。スタート後は、とにかく自分のペース(時速6.5キロ)を作ることを意識して歩きました。沖田神社過ぎで予定通り昼食をとりましたが、その後、時計のバンドが壊れるという想定外のトラブルが発生。この時、私は「時計を見るのはもうやめよう。自分のペースで歩けていれば時間はいつだって関係ないじゃないか」と言いきかせ、以降は時刻を確認することをやめました。12キロ以降は未知の世界であった私。実際、15キロ過ぎから、左膝や足底、大腿部に痛みや張りが出てきましたが、そんな疲労を見事に吹き飛ばしたのが、サポート隊の方からの暖かい差し入れ(梅干やクエン酸ジュース、カットフルーツ、野菜そして飴)でした。差し入れでパワーを蓄えた私はペースを維持し、備前体育館に到着しました。
 体育館では2回目の休憩を取りました。夜行装備を行い、ここで満を持してチャレンジャーTシャツに袖を通し、山登りへの意識を高めました。きつい閑谷学校への山を登りきるために、同期の名前が入ったこのチャレンジャーTシャツに後押しをしてもらおうと思っていました。山の入り口にある伊里中のコンビニで休憩した後、いざ閑谷へ挑みました。この頃は左膝が激しく痛み、まっすぐ歩くことができませんでした。道路を右から左、左から右へと斜めにジグザグに歩いて進みました。閑谷では吉永町の方の暖かいもてなし(炊き出し)と、チャレンジャーのために急遽この炊き出しを用意してくださったサポート隊の方のご尽力に胸が一杯になりました。おにぎりと巻き寿司、温かいお茶をいただき、60キロ歩行の疲労を忘れるような癒しのひと時を過ごしました。


3.後半30キロで感じた想い

 ヘッドライトをオンにするとともに、気持ちも闘いモードをオンにし、一路リバーサイドを目指しました。歩行中、頭の中では、子供が毎日見ている「ベネッセこどもチャレンジ」の音楽が流れていました。音楽に合わせ、真っ暗な土手を歩行中、星空を見上げ、遠く街の明かりが見えたとき、私の目に突如として涙が溢れてきました。入塾を決意した日のこと、歩行練習後に妻がそっと足をマッサージしてくれた夜のこと、遊んでほしいと泣くわが子に「ごめんよ」と言って練習会に出ていった日のこと、家族みんなで夜中に下見してコースを周った日のこと。「自分が人生で本当にやりたいこと」を実現したくて門をたたいた岡山政経塾。そんな自分のわがままのために家族につらい思いをさせてきたこと、そんな自分のわがままに付き合い、協力をしてくれる家族。入塾から100キロ歩行を迎えるまでの我が家の日常が走馬灯のようによみがえり、涙で目の前が見えなくなりました。その時、この歩みは自分ひとりのものでは決してない、これは小林家みんなの100キロ歩行なのだ、ということに気付きました。
 リバーサイドでは防寒具を着込み、栄養ドリンクを飲みほし、気合を入れ直しました。しかし、この時、私はどうでもいいと思っていた時刻のことを気にかけ、ゴールの時間を予測計算してしまいました。無心で歩いてきた私が時間を考えるようになった、その瞬間から、私の歩みはおかしくなりました。欲や甘さが顔をのぞかせ、余計な邪念が入った私の体は、急に動かなくなりました。「これではいけない。時間など余計なことは一切考えず、ペースを作り歩きなさい」と言い聞かせ、歩き続けました。しかし、78キロ付近から、やはり足が硬直して前に進めなくなりました。バス停ごとに座り込み、筋肉をもみましたが回復せず、「これが限界なのか」と心が折れそうになりました。そんな時、サポート隊の方から「みんなここが一番しんどいのよ。つらいのは小林さんだけではない。みんな同じ思いで歩いているのですよ」という言葉をいただきました。その時、私は、夜空に一緒に歩いている同期の顔を思い浮かべました。雨の中を濡れながらも一緒に7キロ歩いた日のこと、下見会で途方もない距離に恐怖と絶望を抱いた日のこと、決起会で完歩を誓い、酒を飲み交わした夜のこと。1人ひとりの思いは違えども、みんな100キロを完歩したくてこれまで共に頑張ってきた、そして今、実際にみんなそれぞれの地点で必死に歩みを進めているのだと思うと、また涙が出てきました。私の歩みは自分ひとりの力だけで進んでいるのではない、岡山政経塾のみんなが私の背中を押してくれているのだ、とわかりました。私も頑張る、そして、私もチャレンジャーみんなの背中を押していたい。そう思うと、なぜか足の筋肉が柔らかくなった気がして、再び力強く歩み出すことが出来ました。採れたて市場(91キロ)で西原幹事に温かいおしぼりをいただき、最後の休憩をしてからは、一心不乱にゴールを目指しました。2010年5月3日、午前2時15分(スタートから16時間15分後)、私の100キロの旅はゴールを迎えました。


4.100キロ歩行で対峙したもの

 100キロ歩行を終えての感想は、道中つらいこともあったけど、総じて「楽しかった」ということです。それは1人で黙々と歩いたのではなく、小山事務局長をはじめ、多くの方のサポートや声援をいただき、痛みや苦しみを楽しみに変えていただき、「楽しく歩かせていただいた」からです。そして、歩き終えて、内心はほっとしています。それは自ら掲げた目標を、無事成し遂げることができたからです。私は、「自分自身の変革に挑む」として、この100キロ完歩を目標に定めました。私はこれまで、常日頃において、自分の中で限界をつくってきました。自ら設定した限界は、自分自身の成長を妨げ、知らず知らずのうちに私は、スケールの小さな人間になろうとしていました。そんな自ら設定した限界を取り払い、ゼロから物事を発想する、そんな人間に生まれ変わるために岡山政経塾に入りました。私がこの100キロ歩行で対峙したもの、それは、「自分に限界を作り、スケールの小さな人間になろうとしていた、これまでの自分自身」でした。己と正面から向き合い、限界に挑み、死力を尽くすことで、これまでの自分自身(の限界)を乗り越え、殻を破りたいと思って歩きました。100キロという距離を経て、「有言実行」と自ら書いたゴールテープを切ったとき、16時間15分前の自分から、成長した新しい自分に出会えた気がしました。
 また、100キロ歩行では、「努力をすれば、人は報われる」ということを実感した時でもありました。逆に言えば、「努力をしなければ、決して成功を収めることはない」とも言えます。人生において、叶えたい願いがあれば、それが実現するための最も確実なシナリオを描き、入念な準備を行い、シナリオに従い課題を確実に実行するという、基本ですが極めて重要なプロセスをこの100キロ歩行であらためて学びました。
 私は、入塾式でもう1つ決意表明をしました。それは、「地域社会において問題意識を持って行動すること」です。この2つ目の決意については、まず1つ目の決意である自分自身が変革できてこそ、はじめて挑むことのできるテーマだと、私は位置づけてきました。今回、100キロ完歩したことで変革の第一歩が進んだと同時に、自分の中で、地域社会において問題意識を持って行動する、議論するための土俵にあがる資格を得ることができたのではないかと思います。100キロ歩行では、多くの方のサポートと声援にて目的を達成することができました。人は多くの人に支えられて、毎日生きています。今度は、私が多くの人のために役に立てる行動をすべきときです。今後の例会や日々の活動において、実際に自らの足で歩いたこの岡山のために、「私自身、一体何が出来るのか、何をすべきなのか」を考え、行動で示していきたいと思います。100キロに挑み、「これまでの自分」と対峙したときの、あの時の気持ちを忘れることのないように。