2010年 100km Walk

 
◆藤原 弘憲(岡山政経塾 9期生)

岡山政経塾100km歩行レポート
「敵は己の内にあり」




1.[はじめに]

人生で24時間100キロ歩行に挑戦できる人はほんの一握りでしょう。
機会を与えられても普通の人間ならほとんど断る事でしょう。
4歳の頃からの気管支炎喘息、アトピー性皮膚炎で長期の入院生活を送った私がそんな貴重な体験、経験を積む機会を与えて頂いた政経塾にまずは感謝します。



2.[準備]

(体の準備)
 運動経験の無い私は、8期生の実行委員の方々が提供してくれた週3回(水、金、日曜日)の練習会に全部参加する事に決めた。3月17日の最初の練習会、1時間で7キロのコースを1時間半かけて終え、全く体力が無い事をまざまざと実感させられた。2回目の練習会、日常生活では筋肉痛は無かったのだが、スタートした瞬間から脛周りの筋肉が硬直し歩けなかった。仕方がないので歩くのでは無く走ってなんとか練習を終え、歩く筋肉と走る筋肉の違いを知った。そして走ったせいで丁度、膝に痛みを感じたので翌日に整形外科に行ってみた。先生に100キロ歩く事を説明すると先生から「無理です」と即答された。15歳の頃に右膝を痛めていた私に、先生曰く「君は片足で歩いてるようなものだよ。100キロなんて到底無理だから馬鹿な事考えずに辞めておきなさい」と言われ右膝に注射を打たれた。この先生には本番前日にも膝に注射して貰った。
 その後も、毎回の練習に参加し続け、なんとか1時間でコースを回れるようになり、回を重ねる毎に歩く筋肉と体力がついてきたのを実感できるようになった頃、プライベートで怪我をして右膝を10針縫う事になり、歩行練習をする事が出来なくなった。歩けない状態でも、練習会に顔を出し仲間が歩行練習してる間にベンチで一人、足の筋トレをしていた。
 入塾式も終え練習会も残すところ4回になった時にやっと抜糸ができた。早速、翌日の練習に参加して全開で7キロコースを回ってみた。筋トレの効果もあってか急激な体力と筋肉の衰えは感じなかったが、怪我をする前の足の状態から比べれば、満足のできる足では無くなっていた。残り3回の歩行練習もこなしたが、不安状態のまま体の準備を終えた。

(物の準備)
 まず靴えらび。早速、店員さんを呼びスポーツ用の靴を履かしてもらう事にした。履いた感じは一言で「軽い!!」普段スニーカーは履くけど、運動用の靴になるとこんなにも違いがあると思わなかった。そんな感動を覚えながらも、「100キロを歩く靴にこれは大丈夫なのか??」と店員に一言吐いた言葉がこの後、3日間も靴選びに悩まさせられる事になるとは思いもしなかった。店員も私自身も100キロなんか歩いた事ないし、それに対してどの靴がいいかなんて判断つかないのだ。結局、その日は店が閉店になった後も店員と二人でいろんな靴を履き、2足に絞った。次の日、店員がニューバランス社まで電話して2足のうちどちらがいいのかと聞いてくれた。店員がニューバランスから言われたのは、「新しい型の方が性能は良いですが、100キロ歩くならどちらの靴でも足は痛くなりますよ」との当たり前の返事をされたのだった。翌日、2足のうち新しい型の靴を購入した。
 次に本番の装備。最初に店員さんに「100キロ歩くのだけど何が良い??」と訪ね、リュック・帽子・Tシャツ2枚・アンダーアーマー長袖・ノーマルスパッツ・靴下2足・ウエストポーチ型ドリンクホルダー・テーピングと、店員さんとマンツーマンで最低限の必要な物を買い揃えた。同期の仲間のほとんどが装備してたサポート機能付きの高級スパッツは、私の安月給では手が出せなかった。会計の時、店員さんがスポーツ飲料品をサービスで提供してくれ、「100キロ頑張って下さい」と激励してくれた。その他、万歩計と夜行装備を揃え、ジャージは弟から拝借した。

(心の準備)
 あくまでも己との戦い!!としか考えなかったので、本番一週間前から自問自答を繰り返し戦う準備をした。



3.[本番]

(スタート〜40キロ)
平成22年5月2日後楽園
 同期の野田さんが一筆一筆メッセージを書いたゆで卵をみんなに持ってきてくれた。私は有り難い気持ちでその卵を2個頂戴し、リュックに入れた。スタートラインに並び、午前10時スタート。
 最初10キロはサポート隊の方々の応援に照れ臭さを感じながら一人で快調に歩き終え、10キロ過ぎにコンビニに寄ったら同期の谷さん、東さん、高田さんと一緒になり、17キロ過ぎ永安橋の手前で、同期の高原さんが後ろからダッシュで追いかけてきて合流し5人で歩く事になった。私は高原さんが合流する前の15キロ地点から体に異変を感じていた。両方の肺が痛くなったのだ。そして暑さにやられていた。暑さ対策の為に2枚のタオルを日焼け防止用と汗拭き用にして対応していたが、予想外の日差しと気温だった。最初は汗が流れ出てたが、途中からドリンクを補給しても全く出なくなった。あくびをするようになり、眠気が襲ってきたが、同期の仲間と歩いていたおかげで、なんとか30キロ地点前の休憩ポイントまで辿りついた。休憩中に8期サポート隊の吉田さんから、「頭から水を被った方がいいよ」と言われ実行してみた。実はこの水を被る時まで暑さにやられてるとは自分で把握出来てなかった。なんとか復活し、危なかった所を助けられた。休憩ポイントを出発しいよいよ山登りに挑む事になり、ここで5人の隊列は自然と解散して個々のペースで挑むことになった。私は上り順調だったが、下りは膝に負担がかかった為ゆっくりと下ることにした。もう一つの異変、肺の痛みは山の途中で無くなった。リュックの胸のベルトを外したら段々痛みが消えていった。おそらくリュックのベルトの絞めすぎで体に何らかの負担が生じてたのだろう。一安心する暇も無く、肺が治ったと思ったら今度は腰に負担が来た。原因は腰のドリンクホルダーのせいだった。わずか500mlのペットボトルが負担になると思わなかった。ドリンクホルダーを前向きや横向きにと一定の箇所に長時間負荷をかけないように対処した。途中、西原幹事が車から降りてきて冷たいお絞りを差し出してくれた。その時に西原幹事に「どしたん大勢連れて歩いてたのに一人じゃがん。」と言われ、「ここからは個々の己との戦いですから」と返し別れた。歩きながら西原幹事の言葉を思い出し、私の頭の中に思い浮かんだのは、連れてたんじゃない、連れられてたんだ。現に今、個々のペースで歩き出した5人の中で遅れている。仲間が俺のペースに合せてくれてたんだ。悪い事をしたと思い反省した。

(40キロ〜70キロ)
 膝を庇いながらゆっくりと下り坂を終え40キロ地点の備前体育館に着いた。
 1期の柳井さんに迎えられ、サポート隊の方に足をマッサージして頂き、トイレをすませて体育館を後にした。夕暮れにさしかかる頃、松木橋交差点で7期サポート隊の西村さんから、「これから日が暮れて直ぐに暗くなるから、ここで夜行装備をしよう」とアドバイスを頂き、リュックから夜間装備を装着した。
 45キロ過ぎにサポート隊長の池田さんが声を掛けに来てくれた。この時点で自分でもあからさまに分かるぐらいのペースダウンと、昼間の暑さでかなり体力消耗をしていた。その事を池田さんに伝えてしまい弱音を吐いてしまった。その時の私の顔が情けない表情だったのが自分でも分かる。池田さんから、「藤原さんが歩き続ける限り俺は全力でサポートをする」と言われ「ありがとうございます」とお礼を言い別れた。その直後から、自分の中に住んでいるもう一人の自分が出てきた。「情けねぇな弱すぎる。何を真面目ぶって疲れたふりして歩いてるんだよ」と罵声をかけてくる。私はもう一人の自分と戦い、勝って50キロ地点の伊里漁協に到着した。私はもう一人の自分に勝った後、自分がどうなるかを何回か経験してる。自分でもよく分からないが、世間で言うランナーズハイとかキレるとかではない。腹を括った状態になり、悪く言えば殺意と敵意むき出しの開き直り状態になるのだ。この状態になるのは10年振りぐらいだ。久々の封印開放状態??(修羅モードと名づけよう!!)
 修羅モードで50キロ地点から一気に閑谷を越え、炊き出し地点に到着。「ゆっくり座って休んで下さい」とボランティアの方々に親切に声をかけて頂いたが、おにぎりと手巻き寿司を1つ食べて直ぐに「自分、体力に自信が無いので先に進みます。ありがとうございます」とお礼を言い出発をしようとすると、リュックにバナナを入れてくれ、飴を手渡してくれた。再度、「本当にありがとうございます」と頭を下げて炊き出し地点を後にした。吉永の交差点を曲がると遠く前方を歩く2人の姿が見えた。川沿いにさしかかった時、いきなり2人の姿が見えなくなり驚いた。道を間違えたのかと思い、確認しようと地図を見るけど全く分からない。周囲を繰り返しよく見ても、誰一人歩いてる人間は居ない。「何故、誰も居ないんだ??」私は100キロのコースで全く道が分からないのは、吉永〜リバーサイド間だけだった。それ以外の道は学生の頃に何回も通った事あったので、全く迷う不安は無かった。下見会も2回参加し、この不安な区間だけ徹底的に覚えたが、前方を歩いてた人間がいきなり見えなくなるとさすがに不安どころでは無い。完全に道を間違えたと思い込み途方に暮れ、進んだり、戻ったりしながらサポート隊長の池田さんに道の確認の為に電話をした。すると、直ぐにサポート隊の方の車が来て「藤原さんですか??」と声を掛けてくれ、「道あってますよ」と教えてくれた。この確認作業をしてる時に、体に異変が発生してた事に気付いた。歩く度に左アキレス腱に痛みが走るのだ。おそらく閑谷越えで痛めてたのだろう。道に関しては一回不安になったら、その後も不安だらけになり、リバーサイドまで3回も電話確認する事になった。本当はもっと回数が増えるはずだったのだが、途中でサポート隊の車や、西原幹事の温かいタオルの差し入れ、7期サポート隊の櫛引さんがわざわざ自転車で駆けつけてくれたおかげで、3回で終わったのだった。左足のアキレス腱の痛みと戦いながら、何とかリバーサイドに到着した。後に分かった事なのだが、前方の2人は途中から走ったので、私の視界から消えたのだった。サポート隊の皆様、本当にご迷惑お掛けしました。

[70キロ〜100キロ]
 リバーサイドに着くと、ここでも柳井さん登場。「休まず行け!!」と言われたが一応、左足を痛めてる事を伝えたが「関係無い行け!!どこが痛いんなら??」と聞かれ、「アキレス腱です」と言い、先に進もうとすると柳井さんから「ストップ!!アキレス腱はダメだ」と止められ8期サポート隊の川口さんにテーピングをお願いしてくれた。「テーピングを持ってますか??」と聞かれ、何かあった時の為にと、リュックに1束だけ入れてたテーピングを渡し処置してもらった。テーピングしてもらってる間、炊き出しポイントでボランティアの方がリュックに入れてくれたバナナを食べながら柳井さんに励ましを受け、テーピング完了と同時にすぐにリバーサイドを出発した。
 テーピングで処置したとはいえアキレス腱の痛みは続くが、がむしゃらに次のチェックポイントJA瀬戸支所を目指す。途中、万富のコンビニで最後の備えをする事にした。コンビニに入り店員さんに「すいませんトイレを貸して下さい」と声をかけたら、2人の店員さんが驚いた顔し、あからさまに警戒された。トイレで手を洗う時に鏡を見て気づいた。私のような人相の人間が頭にヘッドライトの光をつけたまま、更に体もボロボロ状態の異様な雰囲気の人間が深夜に入って来ると、そりゃ警戒するわなと思い、トイレから出て、水と栄養ゼリーを買い、店員に伝わったかどうかは分からないが、怪しい人間ではないですとの意味を込めて満面の笑顔で、「ありがとうございました」とお礼を言い先に進んだ。ちなみに、10リットル以上の水分補給をしたのに、100キロのうちトイレ休憩は備前体育館と万富のコンビニの2回だけだった。
 JA瀬戸支所のチェックポイントを通過し、いよいよ私の地元に入った。地元に入ったと同時に修羅モードが解けた。気づいたら右足は太ももの付け根から骨が飛び出そうなぐらいの痛みと、アキレス腱を庇いながら歩いた左足は他の箇所に負担を掛け、膝から足の裏まで痛みを生じていた。平島交差点でサポート隊の方が休まず通過しようとした私を制止し、足のマッサージをしてくれた。このマッサージは非常に有難かった。平島〜とれたて市場までの道は上り下りがある。ここでマッサージを受けてなかったら、かなりキツイものになっていた事だろう。実際、マッサージを受けた後に立ち上がろうとしても、左足も既に屈伸できなくなっており、支え無しでは一人で立ち上がる事が出来なくなっていた。サポート隊の方に「ありがとうございます」とお礼を言い、交差点を右折すると目の前に1台の車が止まり、3期の田中さんが降りてきて、クールに激励してくれた。田中さんにもお礼を言い歩きだすと、背後から眼鏡をかけた松ケンの格好をした人物が私の横をダッシュで走り抜けた。一瞬の出来事で驚き、ボロボロの体なのに思わず防御体勢をとった。人間の本能と体は凄いなと体感し、心の中で眼鏡の松ケンさんにお礼を言い先に進む。沼のコンビニを過ぎた所で1台の車が止まった。車を見てみると、7期サポート副隊長の難波さんだった。助手席には、同期の難波さんが乗っていた。それを見た瞬間に私は直ぐに事態を把握した。難波さんは20キロ過ぎで右膝を故障し、かなり辛そうに歩いてたのを私は見ていたからだ。あの状態からずっと歩き続けたんだろう。私は、難波さんが申し訳なさそうに激励してくれるのが、難波さんの心中を考えると正直辛かった。難波さんと絶対にゴールすると約束をして別れた。私は、自分が同じ立場だったら仲間を激励に行けただろうかと考えた。おそらく私には、そんな勇気は無いだろう。そう考えた時に難波さんの勇気に敬服した。そんな事を考えながら91キロ地点のとれたて市場を通過した。途中サポート隊の方から「凄い追い上げですねと」言われ、この時に始めて自分の位置関係と残り時間を気にするようになった。私は100キロ歩行を自分との戦いと決めてたので、本能のまま歩こうと思い、時計も見ず、ペース配分さえも気にしてなかった。おかげで、かなり起伏の激しい歩き方をしてたのだろう。思い返してみれば伊里漁港を過ぎてから、リバーサイドまでの各チェックポイントで「○○さんですか??」と名前を間違われた。途中、辛そうに歩いてる仲間を数人みてきたけど、声をかけづらかったので無言で通り過ぎてきた。難波さんの事もあったので、「みんな大丈夫だろうか??」と気になり心配になったが、自分自身がまだゴールもしてもないのに他人の心配を出来る立場かと思い直し、歩を進めた。東岡山駅を過ぎた頃に夜が明けだし、強烈な眠気が襲ってきた。雄町のあたりで、ストレッチをしようと歩道の縁石に座ったらそのまま一瞬、寝てしまった。サポート隊の方が車から「お〜い!!大丈夫か」と声をかけられ、目を覚まし歩き始めた。その後も睡魔は消えることなく酔っ払いのような様で歩いてると、旭川の河川敷で同期の松田さんに抜かれていった。残り1キロぐらいで土手の上から「藤原!!頑張れ〜!!」と大きな声で7期サポート隊の西村さんが激励してくれた。後楽園の橋が見え、橋の上から手を振るサポート隊を確認した時にやっとゴール出来る事を確信し安心をした。
 手を振ってたのは8期サポート隊の工藤さんだった。橋に上がる最後の階段を工藤さんの掛け声に合わせて上ると、今度は橋の向こうで8期サポート隊の森田さんが手を振ってくれてた。橋を渡り、精一杯の笑顔を作り後楽園のゴールテープを切った。
平成22年5月3日午前6時22分完歩



4.[終わりに]
 100キロ歩行挑戦前に怪我をし、ギリギリながらも何とかスタートラインに立てた事を嬉しく思うのと、その反面で己の自己管理の甘さに反省した。
 精神面の弱さが見えた分まだまだ修行が足らない未熟な人間で情けなく思う。
 後日、私の万歩計の記録「100.70Km・1142分・138675歩・時速5.28km」とゴール時間を比べてみると1時間20分もの差がでた。この内の半分を休憩と考えると、残りの40分は己の弱さに負けた時間だろう。
 100キロ歩行で限界を超えるという観点から見ると、私自身いつ限界を超えたのかは分からない。もしかしたら100キロに挑戦し、完歩を目指す事を決めた時点で既に超えてたのかしれない。
 はっきりと自信を持って言えるのは、一人では絶対に100キロを完歩する事は出来てなかった事だ。
 仲間や大勢のサポート隊の方々は勿論の事、それ以外にも靴屋の店員、スポーツ店の店員、そして100キロ歩行を終えた後日にも、お世話になった整形外科の先生など多くの人の助けを受けた。
 心からありがとうございましたとお礼を申し上げます。

 最後に、今後もこの体とは死ぬまで付き合っていかなければならないうえで、今回の100キロ完歩という結果は、私の人生で大きな存在になるのは間違いないと思います。