2010年 100km Walk
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◆野田 裕一朗(岡山政経塾 9期生)
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岡山政経塾100km歩行レポート
「ひとりではない」
この体と一生付き合っていく
私は、岡山政経塾に入って24時間100km歩行を知ったのではなく、24時間100km歩行のことを先に知り、そのあとに岡山政経塾の存在を知った。要は24時間100km歩行に挑戦することがキッカケで入塾したのである。私は18歳の時に医療ミスが原因で下半身不随になった。現在は日常生活にはほぼ支障が無い程度まで回復はしたが、足の裏や後ろ側の神経は麻痺したままだし、寒い日や雨の日にはしびれがあるなどの後遺症が残っている。しかし、そういうことも含めて私はこの体と一生前向きに付き合っていくと決めた。だから、健常者と勝負しなくてはならないのだ。やる前からできないなんて言ったら駄目なのだ。それなのに私は3期の秋山さんから100km歩行に誘われた時、最初は自分の足を理由に断ってしまった。そう、また逃げたのだ。そんな自分が嫌で秋山さんにこんなお願いをした。「逃げるんか?と、挑発してください。」そして、挑発された私は「誰が逃げるか!!上等じゃ!!やったるわい!!」。完全に自作自演だが、これが24時間100km歩行への挑戦と岡山政経塾への入塾を決意した2月上旬の出来事だった。しかし、この時の私は、1月に挑戦したフルマラソンで足の裏の皮ズル剥け&疲労骨折をしており、現在と同じ松葉杖生活をしていた。野球に例えると、開幕絶望の選手みたいなものだ。
合同練習
足が完治し、練習を開始できたのは3月中旬。もうこの時点でかなり焦っていた。更に合同練習に参加した時に自分の歩くスピードの遅さを痛感し更に焦った。実は、一緒に練習に参加した同期の仲間たちや歩き方やペースなどを指導してくださった先輩方から「お前もっと早く歩けるだろ?」みたいなオーラを感じていた。でもそれは仕方ない、誰よりも歩くスピードが遅いくせに誰よりも汗をかいていないのだから。だけど、いくら早く歩こうと思っても足が動いてくれない。そういうこともあり、正直、最初は合同練習に行くのが苦痛だった。だけど、その苦痛以上に先輩方からのアドバイスや同期たちとの交流が楽しくてなるべく参加するようにした。この合同練習は本当に意味があると思う。筋力アップとかの話ではなく、自分の力を客観的に分析できたり、先輩方からのアドバイスを聞いて冷静に作戦を立てることができたり、そして何より同期の仲間たちとの絆を深める貴重な時間だった。自分一人でも練習はしたが、今思えばただのウォーキングだったと思う。野球に例えると回数をこなすだけの素振りみたいなものだ。
3つの準備
たくさんの方が口を揃えて言われたのが「心と体と物の準備」。まずは物の準備。色んな方からアドバイスをもらいながら準備を進めていったが特にスパッツとシューズにはお金をかけた。スパッツはマリナーズのイチロー選手が自主トレとかで履いているのと同じ物(アシックス)を。シューズはアースマラソンに挑戦中の間寛平さんが実際に履いているのと同じ物(ニューバランス)を購入した。「1万km走っても豆一つできなかったシューズ」友人に自慢すると『それは寛平ちゃんだからだろ?』と言われた。…確かに。ちなみに、靴下の二重履きとソールを1枚追加したおかげもあり「豆一つだけできたシューズ」で済んだ。余談だが、全てカードで支払いしたことを嫁は知らない。もうすぐ支払日だが、間違いなく修羅場になる。
次に体の準備だが、正直練習期間が短すぎた。それでも本番までは練習優先でやれることはやってきた。個人的には万歩計を付けることをおすすめする。普段、私はデスクワークが中心の生活だが、毎日最低1万歩をノルマと課し、どんなに遅くなろうが、どんなに酔っぱらっていようが1万歩歩くまでは寝ずに歩いた。出張時はエレベーターやエスカレーターはもちろんのこと、地下鉄も2駅は歩くという出張ルールを作り、とにかく歩く癖をつけた。あと、一番入念にしたのがストレッチ。今までの経験上、股関節痛対策にはこれが一番だ。
そして、最後に心の準備。私は3つの準備の中でこの心の準備が一番大事だと思う。要はいかに覚悟を決るか。私は自分の体のこともあり常に不安が先行していた。今だから言えるが、スタート寸前まで怖かった。今回に限らず、自転車で日本縦断に挑戦した時やフルマラソン挑戦の時もそうだったが、昔のような体(寝たきり)に戻るのではないかと考えてしまう自分がいる。しかし、私はたまたま参加してしまったサポート会議で、サポート隊長の池田さんの熱い想いや50人を超すサポート体制を初めて知り、不安以上にやらねばならんという気持ちが大きくなり、完全に覚悟というスイッチが入った。私は体育会系の人間だ。サポート会議終了後、思わず熱くなり池田隊長へ『明日は宜しくお願いします!』と言いに行ってしまった。すると池田隊長はこう言われた。『お前の生き様を見せてくれ!!』当然私は『はいッ!必ず完歩します!!』リアル熱血ドラマ状態だ。こうなると俄然やる気になった。確かに恐怖心はあったが、ボロボロになりながらもゴールする自分の姿しか想像できなかった。野球に例えると、長嶋監督に直接激を飛ばされたようなものだ。
本番前日
本番前日、まず私は100km歩行のマイルール(目標)を設定した。それは@絶対にネガティブな言葉は使わない Aどんなことがあっても絶対に諦めない の二点。次に、部下に協力してもらいながら約150個のメッセージ入りゆでたまごを作った。1個1個にメッセージを書くのは意外と大変な作業だったが、途中苦しい時に少しでもみんなに元気や勇気を与えられたらと思い魂を込めて書いた。決起集会の時につい調子に乗ってゆでたまごを差し入れすると先に言ってしまったが、本当はサプライズにしたかった…。野球に例えると、セ・リーグなのに予告先発してしまったようなものだ。
いざ本番
(スタート〜20km)
私の立てた作戦名は「マイペース亀さん作戦」。とにかく周りのペースに惑わされることなく、前半は時速5km、後半は時速4kmで歩くことを目標にし、最悪足が止まっても歩腹前進で24時間という制限時間をフルに使うという作戦だ。スタートから20km地点まで休憩しなかった分、予定より少し早いペースだったがほぼ計算通りに進んだ。途中サポート隊の皆さんが必要以上に私の足を心配してくれているのが伝わってきて、少しは痛いフリをした方がいいかな?と思うくらい順調だった。そして、どの地点で膝に痛みが走ったり、足の感覚がなくなったりするかも計算していた。まずは足の痛みが15km付近で始まると…。計算通りだった。左足が早くも悲鳴を上げ出した。しかし、3期の一平さんが歩き方のアドバイスをしてくれたおかげで、歩き方でこんなにも変わるのか?とビックリするくらい楽になった。 (これを一平歩きと命名した)
(20〜40km)
一平歩きの効果はあったものの30km手前で両膝に痛みが走りだした。かなりの激痛だ。スタートしてずっと気にして声をかけてくださっていた8期の吉田さんらサポート隊の方に正直に足の状況を伝えようとしたのもこの辺りだったと思う。しかし、私はマイルール@(絶対にネガティブな言葉は使わない)を守るために、『大丈夫か?』と聞かれる度に親指を立てて『余裕です!』『絶好調!』などのポジティブな言葉を使い続けた。しかし、アップダウンが体だけでなく心まで攻めてきた。次第に弱い自分が出てき始めたのだ。そんな時にパワーを与えてくれたのが家族だった。息子二人が何も言わないのに車から降りてきて一緒に歩いてくれた。『パパ足痛いの?』『痛くない!』『パパ歩くの遅くね?』『まだ本気出してない!』父親としての意地で歩いていた区間だったと思う。そしてスタートから8時間、何とか備前体育館に到着した。(自分では無理して普通に歩いたつもりだったが、翌日のニュース映像を見たら酷かった)
(40〜60km)
閑谷学校までのこの区間は本当にきつかった。アップダウンに加え暗さと寒さという新しい敵も現れ、足も次第と動かなくなっていった。そんな時に冷やかし半分で来ていた野球仲間が私の異変に気付き、伊里中のローソンを過ぎた辺りから伴歩をしてくれた。本当にあの坂道は一歩ごとに走る膝への激痛、そして次第に広がっていく痺れ、多分一番心が折れた区間だったと思う。ずっとサポート隊の方には強がってきたのに、野球仲間にはつい甘えてしまい弱音も吐いた。だけど、仲間は厳しくサポートしてくれた。『諦めなければできるって教えてくれたのはあんたやぞ!!』そんな仲間がいることが嬉しくて歩行速度は遅くなったが前へ進み続けた。何度も転び、何度も立ち止まり、だけど絶対に諦めないという強い気持ちを持ち続けて。(横転しながら坂を下ったのは私ぐらいかと思う)
(60〜80km)
吉永の炊き出しで休憩しすぎた私は急に体が動かなくなり、ここからは休憩を取らずにゴールを目指すことにした。しかし、痛みよりも恐れていた力が入らないという症状も現れ出し、転倒の回数は増すばかり。自分の体が自分の意思で動かなくなっていく感覚が情けないやら悔しいやらで何度も発狂したこの区間。リバーサイド手前の河川敷では本当にリタイアしようと考えたりもしたけど、隣には心強い伴歩を続けてくれる仲間たち。「絶好調!」「大丈夫!」「やればできる!」「ゴールできる!」等のポジティブな言葉を大声で叫びながら歩き続けた。やけくそモードに突入だ。
(80〜99.9km)
日の出と同時に再びサングラスを装着したが、実は日差し対策ではなく、止まらない涙を隠すためのサングラス。スタートして何度も流してきた涙の正体は悔し涙。自分の意思で動かない体が本当に情けなくて何度も泣いた。しかし、残り10kmを切ったくらいから涙の意味が変わってきて、ゴール手前の旭川河川敷では完全に違う大粒の涙が流れていた。フルタイムで支えてくれたサポート隊の方々、ずっと伴歩をしてくれた仲間たち、応援メールやメッセージを送り続けてくれた社員や家族、そして100kmという長い道のりを耐えてくれた自分の足へ「ありがとう」という気持ちがいっぱいの感謝の涙へ。
(100km)
私は不安な気持ちを持ちながらも、ゴールするイメージしか持たずに挑んだ。(その証拠があの派手なアフロ)そして、スタートして23時間36分、再び後楽園に戻って来ることができた。途中何度も悪魔の囁きがありました。何度も立ち上がれない時がありました。だけど、完歩することができた。それはなぜか?「応援されたから」。サポート隊をはじめ同期や幹事等岡山政経塾関係者の方々、家族、仲間・社員などのたくさんの応援があったから頑張れました。すべてのひとに最上級のありがとう。私は「ひとりではない」。
最後に
誰もが無謀と言った24時間100km歩行。挑戦してよかった。諦めなくてよかった。素晴らしき同志たちと出逢えてよかった。岡山政経塾に入ってよかった。この経験を生かし、これから幾度とあろう試練を乗り越え、世のため人のために何かできる男になりたいと思います。“面白きこともなき世を面白く”岡山政経塾最高です!今の心境を野球に例えると、ヒーローインタビューでお立ち台に立った阿部慎之助のようなものだ。
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