2010年 100km Walk

 
◆塩田 英喜(岡山政経塾 9期生)

岡山政経塾100km歩行レポート
「100キロ歩行を終えて」



100キロ・・・。24時間・・・。
政経塾最初の大イベント、100キロ歩行は5月2日10:00時にスタートした。
でも実際にはそのずっと前から始まっていたのだろう。そう感じたのは100キロ歩行が始まってだいぶ時間が経ってからだ。5月3日の午前3時過ぎ、60キロを少し超えた地点、私はもう歩けなかった。今まで感じたことのない痛みが私を襲った。右足の膝は限界にきていた。
もう歩けない、そう宣言した。

100キロ歩行の前には全体練習、下見会が用意されていた。だが私はそのどちらも参加していない。なんとかなると思っていた。
練習は一人で行った。仕事から帰り夜家の近くを歩いた。万歩計で距離を測り歩いた。
でもその程度では全然足らなかった。練習を始めるのは明らかに遅かった。必ず完歩する、その気持ちが足らなかったのだろう。
5月2日が迫るにつれて不安が募ってきた。その頃からようやく真剣に向き合えた気がするが、時間は待ってはくれなかった。

当日同期の皆は充実した顔をしていた。練習を積み、心の準備も体の準備も整っていたのだろう。私にはそんな顔はできなかった。ただ、ただ不安ばかりだった。
後悔したが、今さらどうしようもない。自分のできるかぎりでやるしかない、そう思った。
スタートしてしばらくは真ん中より少し後ろの集団のなかにいた。時速5キロを目安に自分のペースで歩いた。後ろに何人かいたせいか、なんとかなると思った。
東山を超え百間川の河川敷を歩いているときは気持ちが良かった。前を歩いていたOBの方を目指して心地良く歩いていた。その方に追いつき言葉を交わしそのまま追い抜いていった。
10キロ地点を超えたころ少し足が痛み出した。筋肉痛だろう、我慢するしかない。
休憩所では休憩を取らなかった。練習に参加していない自分にはサポートを受ける資格はない、そう思った。どんどんと前を歩いている人を抜いて行ったが、段々とペースは落ちた。
さっき抜いた人達に、抜かれていったが心にはまだ余裕があった。
だが、30キロの休憩所についた頃から、ずっと前に抜いた人達にまで抜かれていった。
正直少し焦った。40キロを過ぎた頃にはかなり後ろのほうだった。この頃には私の足はまともに歩くことさえできなかった。もうやめたい、そう思いながら歩いていた。
なんとか50キロ地点に到着した時には辺りは暗くなっていた。
押し出される形でなんとか休憩所をでたが、もう気力は薄れていた。仲間のなかにはもう限界に達していた人もいた。自分のなかで気持ちが少し緩んだのは今でも良く覚えている。
暗い道を一人で歩くのはきつかった。道もよくわからない、初めての道は遠く長く感じた。
ただただ一歩を積み重ねていたが、準備不足がここで爆発した。
道を間違えてしまった。今にして思えば、途中途中にいてくださったサポート隊の方々がその道にいないのはおかしかったのだが、その時の私にはそれを考える余裕はなかった。
正直気持ちは完全に折れた。もう駄目だと思った。
何とかコースに戻ったがこの時点で私は最後尾にいた。後ろの方にはどんどん抜かれ、時間内のゴールは難しくなっていた。もうやめようと思ったが、その時サポート隊の方々の顔が浮かんだ。練習にも参加していない自分にも優しく応援してくれた方々に対して申し訳ないと思った。なんとか歩いてみよう、そう思い休憩所のローソンを目指した。もうボロボロだった、一歩歩くたびに苦痛が走った。精神的にも肉体的にも限界に達していると思った。
そんな時、知り合いが応援に来てくれた。笑顔が出た。自分でも不思議だったが、苦痛は和らいだ。信じられなかったが、真実だった。まだ行ける、そう思った。
ローソンでテーピングとマッサージをしてもらったおかげで、閑谷学校までの5キロは信じられないくらいスムーズに歩けた。学校を抜けて山道を下るころ、前を歩いていた方に追いついた。
ところが下り坂で無理をし過ぎたせいか、山道を降りた途端に右足に激痛が走った。間接が痛い。
今までとは比べ物にならない痛みに顔が歪んだ。もう一歩も足が前にでなかった。
もうあきらめるしかなかった。私の100キロ歩行はここで終わった。

思えば反省しか残らない結果だった。明らかに準備不足だ。心の準備が出来ていなかった。
必ず完歩するという意思が足らなかった。それが練習不足に繋がっていた。
このレポートは私の100キロ歩行の経過報告でしかないだろうが、これが今の私に書ける全てだ。
何も言うことはないし、その資格もない。
間違いなく得るものはあったと思うが、それが何かはまだわからないし、それが本物なのかも今の私にはわからない。