2010年 100km Walk
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◆荻野 朗(岡山政経塾 7期生)
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岡山政経塾100km歩行レポート 2010年5月3日
「津田永忠の足跡に学ぶ。」
5月2・3日、100キロ歩行にサポーターとして参加させていただいた。
私は、過去2回、チャレンジャー、サポート隊という立場で参加させていただいたが、この100キロのコースに込められている「津田永忠の足跡」を学ぼうとはしなかった。
3度目の参加となる今回、「津田永忠の足跡」に意識を置いて参加してみた。
津田永忠の残した建造物は、閑谷学校《寛文10年(1670)着手》・後楽園《貞享4年(1687)着手》・曹源寺《元禄11年(1698)着手》である。≪現在の沖田神社は、元禄7年(1694)に沖新田干拓地の産土神として建築されたものを、永忠没2年後の宝永6年(1709)に移転したものである。≫まさに100キロのコースは上記をすべて押さえている素晴らしい研鑽の場である。毎年、コースで挙げきれないほどのノンフィクションの感動ドラマが繰り広げられた。もちろん2010年も同様だった。
津田永忠の銅像は、平成4年(1992)に完成した岡南大橋の東詰にある。この辺り一帯は、津田永忠が指揮し田坂与七郎や近藤七郎らが干拓した地であることから、岡南大橋建築時に永忠の銅像が設置されている。
このように津田永忠が残したものは、建造物だけでなく、新田干拓と百間川もあることを最近知った。百間川が自然ではなく、江戸時代に人間により作られた河川であることを知った時は本当に驚いた。
百間川が作られる背景は、藩の石高を上げる為の新田干拓地の水源とともに、承応3年(1654)7月19日から4日間続いた台風と豪雨で、旭川が決壊し岡山城下の家屋が破壊・流失、郡部も大被害をうけたことへの対策である。
ちょうど今、私は町内会の活動で、地区の恩人である喜兵衛様に関する案内板(以下文面案)を作成している。私の住む土田には、「百間川が作られるきっかけは喜兵衛様にある。」と言いきられる学者の方もいる。
100キロ完歩を目指すチャレンジャーが、98キロ地点で通過する竹田橋付近は、旭川から百間川に分岐する地点であり、ここを最後に通過して己の挑戦を達成するとは、本当に味のある素晴らしいコースだと思う。今回は、伴歩という形で、2回・3名のチャレンジャーの方の個々に異なる感動の場面を体験させていただいた。
このように、100キロ歩行と津田永忠、地域に伝わる話がつながった時、物の見え方が変わり、新たな学ぶ意欲につながっていく。
自分にできることを、自分の身の丈にあう人々とともに、机上の空論や評論ではなく、小さくても確実に成果の形にしていくことで、今後も研鑽を続けたい。

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