2011年 100km Walk
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◆柏崎 歓(岡山政経塾 一般参加者)
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岡山政経塾 100km歩行レポート 2011年5月16日
「あのとき言えなかったお礼を、皆様に」
一般からの参加という形で、24時間100キロ歩行に参加させていただきました。塾生でない僕がレポートを書くのも変ですが、ゴール後は後楽園の芝生で身動きできなくなってしまい、満足に皆さんにごあいさつができなかったので、この場を借りてお礼を述べたいと思います。
ディズニーランドみたいだな。

今考えてみると妙なたとえですが、100キロの道中、僕はそんなことを何度も考えました。歩いても歩いても、行く先々で赤い上着を着たサポーターの方々が必ず笑顔で迎えてくれることに驚きました。塾生の皆さんとは、数人の方を除いて、面識がありません。見ず知らずの僕に対して、夜更けの寒さのなかで食べ物や飲み物を準備してくれたり、一緒に歩いてくれたり、こんなに親切にしてもらっていいのかな、と何度も思いました。現実離れしたテーマパークの中を歩いているような、苦しいけれど温かい道のりでした。
100キロの道中、チャレンジャーの方々から、何度も「外部の方なのに、なぜ歩くことにしたんですか」と聞かれました。長い時間をかけて気持ちを整理し、難関に挑む決意を研ぎ澄ませてきた皆さんからすれば、当然の質問です。僕はそのたびに、「いやあ、何となく成り行きで」と答えました。嘘ではありませんが、誠意のない答えだったと反省しています。なぜ僕が100キロを歩くことに決め、どんな気持ちで当日を迎えていたのか、その経緯をここに記しておきます。
小山事務局長に「100キロ歩行、出るよな」と誘われたのは、2月頃だったように思います。歩くことは嫌いではありません。24時間かけて遠足をするようなイメージを頭に描き、しんどそうだけどけっこう楽しそう、と軽く考えていました。見当違いに気づいたのは、3月下旬になってからです。「心と物と体の準備」のペーパーを読み、のんびり歩くだけでは24時間で100キロを歩ききれないことに、遅まきながら気づきました。
まずい、と思いましたが、塾生の皆さんの練習時間は僕の仕事のピークタイムに当たり、参加はほぼ不可能です。試しに何度かスニーカーを履いて歩いてみましたが、一人で歩いても、そのペースが速いのか遅いのか、よくわかりません。手遅れだ、と思いましたが、といって今さら引っ込みがつきません。分の悪い勝負だとしても、参加しないよりは参加するほうが人生の糧になるだろう、と半ばやけっぱちで腹を決めました。
そんな中途半端な状況でも、前向きな気持ちで100キロ歩行に臨み、そのうえ時間内にゴールにたどり着くことができたのは、なぜなのか。当日は曇りで日中の暑さが厳しくなかったこと、僕の足腰に大きなトラブルが起こらなかったことなど、さまざまな好条件が重なったとしか考えようがありませんが、僕の心を終始引っ張ったのは、100キロ歩行に熱くなり、心を通わせる塾生の皆さんを「うらやましい」と思う気持ちでした。
過去のレポートをいくつか読むだけで、100キロ歩行が塾生の皆さんにとってどんなに大切な思い出になっているか、どんなに貴重な心の糧になっているか、容易に想像することができました。その端っこに、僕もぶら下がれるかもしれない。そんな気持ちが、不安より期待となって僕の背を押しました。当日になって10キロ20キロと歩みを進め、チャレンジャーとサポーターの方々の熱いやりとりをあちこちで目にするにつれ、「うらやましい」という気持ちは、どんどん大きくなっていきました。一生の記憶に残るような体験に、僕も加わりたい。ひたすら足を前に出しました。

ろくに練習をしなかった報いか、ゴール後はまったく身動きができなくなりました。僕と同様に外部から参加し、腰の痛みに耐えながら歩いた西蔭君がゴールすると聞き、彼のゴールだけは間近で迎えたいと考えて立ち上がりましたが、一歩も歩けずに再び倒れこんでしまいました。サポーターの方々は、集合写真を撮る時間になっても動けずにいる僕を抱え上げて運び、飲み物を買ってきてくれました。皆さんの優しさに身をゆだねながら、こんなに親切にしてもらっていいのかな、と僕は再び考えていました。
塾生の皆さんが大切に育ててきた100キロ歩行の歴史の片隅に加わらせていただいたことを、とても幸せに思っています。すべての関係者の皆様、ありがとうございました。この温かくも過酷な体験にまんまと僕を誘いこんだ小山事務局長にも、面と向かって礼を述べるのはしゃくですが、言葉に尽くせないほど感謝しています。
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