2011年 100km Walk
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◆中江 悠(岡山政経塾 10期生)
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岡山政経塾 100km歩行レポート 2011年8月27日
「夢は大空に 努力は足下に」
夢がなければ人はどちらに向かって進んでいいのか迷ってしまい、努力も無駄になってしまう。
努力がなければ、夢はただの絵空ごとのままに終わってしまう。
1.はじめに
自分一人の力ではなしえることのできなかった24時間100キロ完歩、そのサポートをしてくださった皆様と、この100キロ歩行に臨むチャンスを与えていただいた岡山政経塾の幹事の皆様、事務局長、先輩方、そして同期の皆様に感謝申し上げます。
2.準備
100キロを歩く上で欠かせない準備。入塾当初より心の準備、体の準備、物の準備の3つが必要と言われてきました。それぞれ何が必要なのか自分なりに考えて本番を迎えました。
心の準備
「心の準備が必要だよ。」そう言われ続けていたのにもかかわらず、なかなか心の準備はできませんでした。何となく「歩くことができるだろう」そう思うことはできる。ただ、100キロを経験することで自分をどう成長させたいのか、なかなかその答えは見つかりませんでした。
そこで、岡山政経塾に入った時の気持ちを考えてみました。「自分は弱い自分を変えるために岡山政経塾に入ったんだから、100キロはその手段の一つじゃないのか」そう考えを整理し、歩く目的は「弱い自分と向き合い、勝つこと」に決定。決意表明メールでも「100キロの途中、心おれそうな自分に出会ったら完膚無きまでにたたきのめします」と宣言。心は決まりました。
体の準備
体の準備を語る上で欠かすことのできないのは練習会の存在でした。実行委員長の難波さんをはじめとして、たくさんの先輩方に教わることができました。ここでたくさんのことを教わり、同期の人たちと話をし、とても貴重な時間を過ごすことができたと思えました。それだけこの練習会の存在は大きかったです。
物の準備
100キロを歩いた今、振り返ってみると物の準備には二つの意味があると思います。一つは自分の体への負荷を減らし、最大限のパフォーマンスを発揮すること。もう一つは心の準備の手助けです。
目的+自信=確信
弱い自分を変えるという目的、練習を積み重ね強くなった体とそこからくる自信、それらは私の中で「絶対に歩ける」という確信に変わりました。
本番を10日後に控えた日曜日の朝、自主練習をしようと練習会のコースを歩いているときに、7キロ1時間の目安を無理なく越えることができ、ふと「これ、絶対に完歩できる」と確信を持つことができました。
3.本番当日
3つの準備を行い、確固たる決意をもって本番を迎えました。
スタート〜10キロ(沖田神社)
目標達成のための目安の一つは70キロ地点のリバーサイドに日付が変わる前にたどり着くこと。そう決めて時間を稼ごうと早めのペースでスタートを切りました。ただ、ここで前の方の集団に参加したことが失敗でした。ごぼう抜きならぬごぼう抜かれ人生のスタートでした。
〜20キロ(大富三叉路)
人と共に歩く気楽さを実感、時速は6キロ程度でした。このあたりから信号でストップするたびに行うストレッチがとても気持ちよくなってきました。
〜30キロ(飯井交差点)
予想以上の疲労感に内心不安になりつつも、サポート隊の油田さんの「いいペース、いいペース」という言葉にとても自信と元気とをもらって進みました。序盤でペースを間違えたと思っていたのでこの言葉は本当に嬉しかったです。
〜40キロ(備前体育館)
「足、痛そうに見えるけれど大丈夫?」
40キロを目前に、ふと言われましたが、ショックでした。聞きたくなかった、そう思いました。このとき自分では足は痛いとは思っていませんでしたが、そう言われると痛い気がして、自分の歩き方も痛い部分をかばって変わっていたのかと思い始めました。言葉のもつ影響力は大きいと感じました。
〜50キロ(伊里漁港)
伊里漁港に向かうまでで次第に夜の気配が近づいてくるのとともに、空腹感が襲ってきました。空腹感は普段の生活でも感じていますが、100キロでは「お腹が減った」と感じるよりも体がだるい、頭がぼーっとするという感覚が強くありました。途中なかなかたどりつかないサークルKにいらいらしながらも、やっとありついておにぎりを食べると次第に元気が回復。やっぱり炭水化物は必要なんだなということを実感することができました。この反省から、ここからは常におにぎりを1個リュックの中に入れて歩くようにしました。
〜60キロ(閑谷学校)
街灯も民家もない真っ暗な中をここまで一緒に歩いてきた吉次さんと共に歩きました。ここまでくるとお互いに、苦しく、つらいことはわかっていました。でも、話しながら歩いていると自然に笑うことができました。
人とともに歩くということのありがたさ、そして嬉しさを感じながら歩いた閑谷学校の道程でした。
〜70キロ(リバーサイド)
吉永の炊き出しでは、見ず知らずの私たちのために本当に良くしてださることのありがたさを感じ、一路リバーサイドを目指しました。
足は「石でできてるんじゃないの!?」と本気で考えるくらい重たくなり動かすのがつらくなっていましたが、「足がだめならそのぶん腕を振れ」、そう言い聞かせて何とかリバーサイドに日付が変わる前にたどりつくことができました。
〜80キロ(JA瀬戸)
この区間は本当に苦痛との戦いでした。
70キロ以上歩いてきたことで足の指の付け根は鬱血し、変色。暗闇を一人歩き続け、時間の感覚は麻痺。
肉体的にも精神的にも限界が近づきつつあると感じていました。途中、小山事務局長に「大丈夫かー」と声をかけていただいたのに対し「大丈夫です!」と応えましたが、完全な空元気でした。そうでもしていないと心が折れそうで怖かったのです。
〜90キロ(とれたて市場)
JA瀬戸で足の鬱血が発覚し気力が萎えかける私に対し、サポート隊藤原さんが「ここからは心が折れたら終わりだよ」と声をかけてくださいました。今考えてみるとここからの20キロに私がこの100キロに求めた大きな意味があったのかと思います。それは「弱い自分と対峙し、打ち勝ち、完歩すること」です。
JA瀬戸を出発するときには「このままリタイアしたら楽になれるのに」と本気で思っていました。足は痛いし、疲労感も襲ってきました。痛みの原因を「もしかして靴が足に合っていなかったのでは。なんでこんな靴買ったんだ。」と80キロの道程をともに歩いた靴のせいにしはじめていました。
しかし、白み始める景色の中で3期布野さんの声援をいただいたとき、ふと思いました。朝5時…前日から考えると20時間近くサポート隊の皆さんも寝ずにサポートを続けてくださっているのです。この人たちのサポートを裏切りたくない。10期の仲間全員で完歩する。そして90キロ近くまで積み上げてきた自分の努力を無駄にしたくない。そんな想いが一気にこみ上げてきて前に進むことを誓いました。途中、先にゴールした西村さんが車で激励にきてくださり(信じられません!)、「絶対に完歩できるからな、ゴールで待ってるぞ」と力強い言葉もいただきました。
弱い自分との対決は、かなりのサポートをいただいてですが何とか勝利を収めることができたのではないでしょうか。あとはひたすらゴールまで足を前に進めるだけです。
〜100キロ(後楽園)
限界を超えて、残り2キロ、最後の橋を渡るときサポート隊の方から「10期全員完歩できそうです。」と教えていただきました。涙があふれてきました。張り詰めていた心が一気に満たされて満足感が押し寄せてきました。そこからの旭川河原沿いは幸せです。最後まで温存していたお気に入りの音楽を聴きながら、春の河原の景色を堪能して歩きました。とても美しく、満ち足りた景色でした。あの河原の景色と後楽園からの声援は忘れられません。
4.振り返って…得たもの
人に支えられているということ
この100キロ歩行完歩は本当に多くの方に支えられて成り立っています。サポート隊の皆さん、実行委員の皆さん、岡山政経塾幹事の皆様、事務局長、同期の仲間、家族、友人、同僚…自分一人の力でできたことなんてほんの些細なことばかりです。だからこそ多くの人への感謝の気持ちが湧いてきます。
よく100キロ歩行は人生にたとえられるということを耳にしますが、自分の歩いているこの人生も本当にたくさんの人の支えがあって成り立っているんだろう、そう感じるようになりました。仕事をしていても役割分担の意味、組織の中に様々な役職のある意味などを真剣に考えるようになりましたし、見えないところで気を配ってくださっている人たちの姿などにも気がつき始めました。また、家に帰れば家族がいることのありがたさ、恵まれている自分の環境にもほっとします。
人生を歩いていく上で今回感じたこの感謝の気持ちを忘れないよう、持ち続けていきます。そして今後は私も周囲の人たちを支えられるような人を目指して、人生を歩いていきます。
5.さいごに
100キロを歩いて学びや気づきは多々ありましたが、それらはきっとまだ「気づき始めた」段階に過ぎないでしょう。「浅いな」と思われて読まれた方もおられるかもしれません。しかし、端から見れば浅くとも23歳の自分にとっては一歩踏み出せたと感じています。それだけでも100キロを歩いた意味は大きかったと思います。
歩くチャンスをいただいた岡山政経塾の幹事の皆様、そもそも政経塾に誘っていただいた布野さん、そして共に「全員完歩」を誓って歩いた同期の仲間たち、本当にありがとうございました。次はサポートの側で学べることを楽しみにしています。
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