岡山政経塾 研究科

 

◆岡山政経塾10周年記念 シンポジゥム◆
〜 シンポジゥムにて研究発表 〜
2.研究発表   (2) チーム21まちづくり研究科


デートしたくなる街・IZUSHI

優しい心が湧き出てくる街・IZUSHI
生きるエネルギーが沸き出でくる街・IZUSHI
ここに来ると、人間とは、人生とは、今を生きる私たちの責任をどのように果すかを考えてしまう街・IZUSHI
幸福とは何か、愛とは、生きるとは、を考えるヒントがある街・IZUSHI。
いや、それより、老若男女を問わず、デートで行きたくなるような街と芸術作品。
還暦を迎えた夫妻が手をつないで歩きたくなるような街・IZUSHI。

国吉康雄についての知識が乏しい。私は知らないし、みんなも余り知らない。だから、多くの人たちに知って欲しい。知ると、きっともっと知りたくなり、作品を見たくなる。

出石町の付近は、懐かしい街並みだ。古い屋敷風の家が残っている。入ってみたいが入れない。
この屋敷が家プロジェクトだと入れる。
すると地域の活性化に繋がり、地区民の笑顔が溢れる。

芸術作品だけでなく、岡山の魅力を活かして素敵な街にして欲しい。
仕事帰りに立ち寄れるように、夜九時までは開いて欲しい。
アートからのメッセージを胸に、レオーニのイタリアンが食べたい。
美味しいシャンパンやワインが飲みたい。
あの女性を連れて行きますから・・・

そうすると若者も高齢者も、観光客も岡山を楽しむ事が出来ます。

お伊勢さんの「おかげ横丁」のような発想で、まちづくりをして欲しい。
空き家を活用して欲しい。
後楽園に来た人が思わずお金を使いたくなるような店が欲しい。
そして、直島や犬島・豊島のアートグッスも欲しい。
すると、また瀬戸内に足を運びたくなるから。

岡山が好きだから・・・・・・


   世界に通じる芸術を活かした
      岡山市街地活性化策 

           まちづくり研究科


−目次−

T はじめに
U GAH(Gross Area Happiness) by OKAYAMA
V 人の繋がり
  1 「瀬戸内国際芸術祭2010-アートと海を巡る百日間の冒険‐」から学ぶ
   (1) はじめに
   (2) 瀬戸内国際芸術祭2010-アートと海を巡る百日間の冒険
   (3) 国際芸術祭の効果
   (4) 瀬戸内国際芸術祭2010ついて
   (5) 瀬戸内国際芸術祭から学ぶもの
 
  2  世界の国吉康雄、岡山の国吉康雄
   (1)  はじめに
   (2)  国吉康雄の人物像
   (3)  画風の変化
   (4)  国吉絵画の原点
 
  3 出石町の歴史、まちづくりの背景
   (1)  岡山市の形成における出石町の役割、特徴
   (2)  出石の歴史と街並み
   (3)  出石の町名の由来
   (4)  過去のまちづくりの背景・現状
   (5)  岡山城・後楽園界隈には文化・芸術的なものを生み出す要素があるのか

W 人の集まり
  1 はじめに
  2 豊後高田昭和の町
  3 伊勢市おかげ横町
  4 廿日市市宮島

X 岡山市の現状と可能性
  1 岡山市商店街の現状と出石町の可能性
  2 岡山カルチャーゾーン

Y 紹介事例
  1 IZUSHI美術街
  2 岡山B級グルメ村
  3 食の国際化ハラールタウン

Z 最後に


 T はじめに

 平成23年3月11日、未曾有の災害、東日本大震災が勃発した。岩手・宮城・福島3県の沿岸部は壊滅的な被害を受けた。震災からの復興、復旧に向けて、様々な角度から検証、議論が行われているが、復興の核となるべき要素、さらに言えば、日本が日本らしさを取り戻す日本再生の鍵は何であろうか。

 助け合い、支え合い、譲り合い、思いやり、ありがとう(感謝の気持ち)、
これらは古来より日本の良さとして受け継がれてきた精神である。いずれも、人と人の相関関係、コミュニケーションの中で培われ、自分と同じように、あるいは自らよりも他人を大切にする精神から湧き出でてくる気持である。

 被災地、避難所、仮設住宅を巡ると、そこにはその精神が確かに息づき、苦境の中でも諦めることなく立ち上がり、希望を失うことなく明日に向かう草木のような不屈の力を感じる。その時、確信する。日本は必ず復興すると。復興の鍵は、人だ、人の繋がりだと。コミュニティだと。

 今日まで、まちづくりは、経済、福祉、環境、医療、教育、自然などが主要なテーマとして取り組まれてきた。我が岡山でも、福祉、医療、庭園などがキーワードとして挙げられてきた。今後の地域の活性化を考えるとき、それらに加え、もしくは、全ての土台として、「人の繋がり」を加えたい。魅力的な地域とは、魅力的な人たちが集う地域である。笑顔が溢れ、自然に生まれるコミュニケーションにより心の豊かさを感じる街である。

 「芸術」とは、「赤ちゃん」にたとえられる。それ自体は、何の生産性も持たないが、前にした人の心を和らげ、幸せな気持にさせ、会話を、コミュニケーションを引き出す。

 今日では、「芸術」は、多様性を尊重し、コミュニケーション能力の涵養に効果的であること等から、もはや個人の趣味・嗜好の対象にとどまらず、社会的な存在として公共性を持つものととらえられている。

 私達は、本論文で、地域活性化の切り札として芸術に焦点を絞る。
人の繋がりを自然に生成する可能性を持つ「芸術」を中心に据えて論じたい。しかも、「世界に通じる芸術」を。



U GAH(Gross Area Happiness) by OKAYAMA

 日本における幸福度の推移は、特異なものがある。これまでの諸外国における調査では、年齢と幸福の間にU字型の関係があるとの結果が出ているものが多い。つまり、若者と高齢者は熟年層よりも幸福だというのである。その理由としては、熟年層に入る頃には、自分の人生がある程度定まってくるので、人々は若い頃持っていた野心を実現することをあきらめざるを得ないから幸福度が下がる。その後の高齢期に入ってからは考え方を変え、後半の人生を楽しく充実させようと努力するから幸福度がまた高まるのではないかとの考察がなされている。しかし、我が国では、年齢における幸福度の推移表の通り、U字型にはなっておらず、67歳を底にして79歳にかけて幸福度はほとんど高まらないL字に近い形状を取っており、アメリカの結果と比べても我が国は特異と言える。


 まちづくりの目的は、そこに暮らし、働く「人」を、現在と未来において、幸せにすることである。それは、今回の取り組みの目的そのものでもある。

 1972年、ブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクは、国民総幸福量: Gross National Happiness, GNH)を提唱した。これは、国民全体の幸福度を示す“尺度”である。国民総生産 (Gross National Product, GNP) で示されるような、金銭的・物質的豊かさを目指すのではなく、精神的な豊かさ、つまり幸福を目指すべきだとする考えから生まれたものである。
 ブータンが数値化を検討する際の軸として、基本的な生活、文化の多様性、
精神的幸福・精神衛生、健康、教育・教養、時間の使い方、環境、地域共同体
の活力、良い統治の9 つの項目を掲げている。
 ここで、我々は、GAH(Gross Area Happiness) by OKAYAMA、つまり、
『岡山からの地域総幸福量』を提唱したい。その向上を目指すことは、まさにまちづくりの目的そのものである。

 今回、我々が取り組む『世界に通じる芸術を活かした岡山市街地活性化策』は、文化の多様性、教養、時間の使い方、さらには「人の繋がり」から生まれる精神的幸福など、『GAH by OKAYAMA』の向上に必要不可欠な要因を多項目含んでおり、目的を達成するための手段として相応しいものだと確信する。

 同時に、「人の集まり」を考えなくてはならない。人が集うことによって、そこには、新たな人の繋がり芽生え、その地域に活気が生まれる。その連鎖こそが、地域共同体の活力に連なる。

 目指す『岡山からの地域総幸福量』の向上は、

から成し遂げられる。この両輪を軸として論文を書き進めたい。




V 人の繋がり

 これからは、前述の通り、人の繋がりを自然に生成する可能性を持つ「芸術」、しかも「世界に通じる芸術」を中心に据えて進めていく。
 近年、芸術を核とした事業で大きな着目を浴び、国内はもとより世界から多くの参加者を集めた事業がある。瀬戸内国際芸術祭である。先ずは、その魅力の根源と成果を検証する。

1 「瀬戸内国際芸術祭2010-アートと海を巡る百日間の冒険‐」から学ぶ
  (1) はじめに
 古来より交通の大動脈として重要な役割を果たしてきた瀬戸内海では、行き交う船が島々に立ち寄り、新しい文化や様式を伝えてきた。
 それらは、島々の固有の文化とつながり、美しい景観とともに伝統的な風習として今に残されている。
 しかし、現状は島々の人口は減少し、高齢化が進み、地域の活力の低下によって、本来あった島の固有性は失われつつある。
 瀬戸内国際芸術祭は、その開催趣旨に「海の復権」を掲げ、島々が持つ文化的な魅力と現代アートを掛け合わせ、島々に活力を取り戻し、瀬戸内海の魅力を世界に発信することを目指している。
 瀬戸内国際芸術祭は単なるイベントにとどまらない、地域づくりとしての大きな可能性のある事業である。
 以上、(財)香川経済研究所 「調査月報」2009年9月号より抜粋。

  (2) 瀬戸内国際芸術祭2010-アートと海を巡る百日間の冒険
   −2010年12月20日の瀬戸内国際芸術祭実行委員会の総括より−
 瀬戸内国際芸術祭2010は、2010年7月19日から10月31日までの105日間、直島、小豆島、豊島、女木島、男木島、大島、犬島、高松港周辺を会場に開催された。
 来場者数は、実人員については25万人から30万人程度であった。
 実行委員会の収支決算では収入およそ8億円(負担金3.6億円、寄付金1.5億円、チケット販売億円2.2など)、支出およそ7億円(作品制作4.5億円、活動費2.2億円など)であった。ベネッセアートサイト、地中美術館などの収入、それらの制作費の支出は含まれていない。
 なお、日本銀行高松支店および実行委員会による経済波及効果は111億円と発表されている。
 以下、来島者アンケートから傾向・属性・交通手段など紹介する。
  (高松および宇野行きのフェリー内にて延べ16日間実施。11,476枚回収)
 来島者のうち約7割が女性であり、年齢層では来島者のうち20代、30代が約7割を占めている。
 香川県外からの来島者が7割を超え、すべての都道府県から来島があり、地域別では、関東・関西で4割を占めている。
 来島ルートは行き帰りとも高松港が7割、宇野港が3割となっている。
 交通手段については、地元は半数が自家用車で、香川・岡山県外からは鉄道、バスで5割となっている。
 日帰りの来島者が5割を超え、2割が1泊となっており、宿泊地は9割が高松、小豆島、直島で占めており、1割が岡山となっている。
 ほかに訪れた観光地としては栗林公園、屋島、岡山倉敷と上がっているが、どの観光地も比率が2ケタにいっていない。ちなみに倉敷岡山は1.9%となっている。




(3) 国際芸術祭の効果
 「まちづくり」とは「人がつながっていく」ことであり、そして、「つながり」でそこに住む人が幸せを感じることである。そこで、芸術祭による「世界に通じる芸術」が「つながり」づくりに役だったのだろうか

「総括報告」のなかに芸術祭に対する評価がある。
 
島民の意見交換会から
 「住民と観光客とのコミュニケーションが多く生まれた。」
 「都会の若い人と話ができ、皆生き生きとしていた。お年寄りが元気をもらった。」
 「来場者は挨拶をよくする丁寧な人が多かった。」
 「島がこんなに賑わい活気づいたことはなく、皆元気をもらった。」
 「ふれあいができたことがうれしかった。」
 「アーテイスト・こえび隊とのつながりができ、このつながりを大切にしたい。」
 「案内人になっている島民が多く、みんな楽しんでいた。」
 「大島には子どもがいない。家族連れが大勢来てくれたことに感激した。」
 「多くの人に犬島を知ってもらったことが一番うれしい。」
 「この機会に他の島に行ってみた。」
 
 などの意見があった。

島民アンケート(513名回答)から
 Q:芸術祭開催前、地域活性化に役立つと期待されましたか?
      大いに期待した         25.7%
      少しは期待した         42.8%
      あまり期待していなかった   24.9%
      全く期待していなかった     6.6%

 Q:芸術祭が終わった現在、地域活性化に役立ったとお考えですか?
      大いに役立った         36.3%
      少しは役立った         46.1%
      あまり役だたなかった     12.7%
      全く役だたなかった        4.9%

 以上、概ね島民の方は芸術祭によって、地域が活性化し、来場者・島民また島民同士の新たな交流が生まれ、「つながり」が活発になったと考えている。

(4) 瀬戸内国際芸術祭2010ついて
@ 開催経緯
 直島福武美術館財団理事長 福武總一郎氏の1989年からの香川郡直島におけるアートを通じて「よく生きる」を実現するための「いい地域をつくる」活動が発端である。
 直島での20年来の活動の中で、2005年3月、福武財団が「瀬戸内アートネットワーク構想」を発表、複数の島々を会場とする文化芸術イベントが提唱される。
 同時期に香川県若手職員による政策研究『「現代アート王国かがわ」の確立』で「アートアイランド・トリエンナーレの開催」が提言される。
 そして、2008年4月、実行委員会設立。
 また、「大地の芸術祭」のデイレクターを勤めた北川フラム氏も参画し、準備に2年間かけ、2010年7月19日開幕する。
 
 
A 福武總一郎氏、北川フラム氏の芸術祭への思い
 福武總一郎氏は、苦労してきたお年寄りが笑って生活できる環境を創ろうと「よく生きる」の実現のため直島でのアート活動を続けてきた。アートを通じて「いい地域」を創ろうとした。
 福武氏の「いい地域」とは何であろう。
それは前述したが、お年寄りが笑って生活できる町であり、島の人同士の繋がりが強まることと、アートを通して直島に興味をもった来島者とのつながりが続くことである。

  北川フラム氏はどうだろう?
「アートの人への影響」について考えてきた人である。
「アートが持つ魅力」を活用して町おこしを考えてきた人である。
フラム氏は過去の活動からアートそのものの探求もさることながら、アートの力を使った文化活動・地域活動に力を入れてきた。
たとえば、「子どものための版画展」のような出張美術館活動、
「アパルトヘイト・否展」のような地域へトラックで作品を持ちまわる活動、
「ファーレ立川」のようなアートに機能(アートだけど車止めなど)をつけた活動、が挙げられる。 
 ただ、フラム氏は、「地域の主体性が大事」と考え、地域の人達が自分たちのために、知恵と力を出させようとした。
 そして、大地の芸術祭・越後妻有がアートの力を地域に知らしめ、地域の人が主人公となって芸術祭を盛り上げていかなければ成功しないことを認識させた。 
 フラム氏は「あるものを生かす」と言い繰り返し、「海の復権」をテーマに瀬戸内国際芸術祭の開催に努力した。


 そして、香川県はアートがもつ力を信じ、活用してきた。
 イサムノグチ庭園美術館・猪熊弦一郎現代美術館や、建築物にはなるが、丹下健三設計の香川県庁などを通して、アートを見に来る観光客を増やすことに力をそそいだ。
 ただ、香川県は単に、観光客を増やすためではなく、そこに暮らす人々が、誇りと愛着の持てる地域づくりを展開してきた。「まちづくり型観光」や「アートツーリズム」の推進である。
 香川県は「せとうち田園都市の創造」を掲げ、引き続き「たくましい人づくりと魅力ある地域づくり」に取り組もうとしている。
 香川県、福武總一郎氏、北川フラム氏は、結ばれるべくして、結ばれたのである。
 各々の思いで活動してきたことが、大きな発信力のある「瀬戸内国際芸術祭」でひとつになったのだ。

(5)瀬戸内国際芸術祭から学ぶもの
 「アートの場をみせる力、場をよみがえらせる力、人と人、人と土地をつなげる力」、そのアートの力で、「人のつながり」を強くしていくことができるであろう。
 
 岡山の人たちも観光客と会うことを楽しみにしている。
 訪れる観光客も岡山の人と会うことを楽しみにしている。
 そこに行かないと発見できない魅力。
 まずは、「つながり」をつくるためにアートと動き出そう。



2 世界の国吉康雄、岡山の国吉康雄
(1) はじめに
 我々の住み暮らす地域に、世界に向けて発信可能な芸術・芸術作品は存在するのだろうか。調査研究を行う中で、同時代、同地域から、近代洋画を代表する画家、国吉康雄と坂田一男、そして小説家、内田百閧輩出していたことを知る。

 国吉と坂田は、ともに明治22年に岡山市に生まれ岡山高等小学校で学んでいる。明治22年の岡山市の人口は47,564人、市域は5.77平方キロメートル、現在の人口の14分の1、面積は136分の1であった。生まれは、坂田一男 8月22日船頭町、国吉康雄 9月1日中出石町、さらに同年、5月29日古京町で内田百閧熕カまれている。彼らの生活した場所や作品には、「親水性」が窺える。2年後の明治24年に山陽鉄道が開通する前まで、旭川の水運が交通・物流の中心で、京橋・桜橋のあたりが最も賑わっていた。

 当時の小学校は尋常小学校4年高等小学校4年であった。しかし飛び級の制度があり、まず内田百閧ェ明治28年(6歳)のとき環翠尋常小学校に入学している。1年遅れて(明治29年)坂田一男が岡山県男子師範学校附属小学校へ、国吉康雄も弘西尋常小学校へ入学する。国吉は初めて油絵をみたのが6,7歳のころと回想している。岡山の町に戦闘風景の油絵がやってきた時、「それはとても真実味があって、生々しかった。だから僕は非常に興奮した」と述べている。

 百閧ヘ明治32年(10歳)のとき岡山高等小学校に入学、1年遅れて国吉も岡山高等小学校に入学。坂田は国吉と同じ年そのまま師範学校附属高等科へ入学。しかし坂田も翌年岡山高等小学校に転校する。その転校した年明治34は、3人共が同じ学校に在籍することとなる。百閧ヘ明治35年(13歳)で岡山県立岡山中学校に入学する。小学校は3年なので1年飛び級をしている。坂田も翌年岡山県立岡山中学校に入学。彼も1年飛び級で入学。国吉は飛び級せず、明治37年(15歳)岡山県立岡山工業高校染織科に入学している。同時代に、後楽園近くの旭川の辺から、3人もの偉人を輩出したエリアの潜在的なパワーに、神秘性さえ感じる。

 調査を進める中で、国吉は、岡山からアメリカに渡り、アメリカを変えた日本人として、ヨーコ オノ と並び称されていることを知る。そして彼の作品の多くは、ここ岡山に眠っていることも判明した。 我々は、発信するために必要不可欠な作品の貯蔵という観点から、国安康雄と、創造性を育んできた彼の生誕地近郊のエリアに絞り込んで調査をすすめる。

 岡山市北区出石町出身の国吉康雄の絵に関する原点を探ることにより、彼の故郷岡山の魅力を発掘して、世界へ発信したい。
 音楽にしても、絵にしても、彫刻にしても、私たちに多くの考えや思いを語りかけてきます。岡山県人国吉康雄は、絵を通じて世界に語りかけました。国吉康雄の作品は、日米両国の各地の美術館で見ることができます。

(2) 国吉康雄の人物像
 国吉康雄(くによし やすお)1889年(明治22年)9月1日-1953年(昭和28年)5月14日、洋画家。岡山市20世紀前半にアメリカを拠点に活躍、国際的名声を博した。ベン・シャーン、エドワード・ホッパーらとともに20世紀アメリカ代表的な画家である。17歳まで日本で生まれ育つ岡山市出石町生活していた(現在岡山市出石町1丁目)。


1906年 岡山県立工業学校中退し、単身アメリカへ渡る。
1907年 シアトルからロサンゼルスに移り、ロサンゼルスクール・オブ・アート・アンド・デザインに通い。
1910年 ニューヨークに移り、雑役労働に追われながらも美術学校を転々そし、断続に勉強する。
1914年 インディペンデント・スクール・オブ・アーツに入学、2年間学び、ヨーロッパ美術の新しい傾向に触る。
1916年 アート・スチューデンツ・リーグに入学、ケネス・ヘイズ・ミラー師事。終生の友となる良き級友達に巡り合う。
1917年 独立美術家協会第1回展に出品。前衛的な画家の集団ペンギン・クラブに加わる。中心メンバーのジュール・バスキンと親交を結んだ。
1919年 アート・スチューデンツ・リーグの学友キャサリン・シュミットと結婚、生計のため商業写真家(美術品の撮影)として働き始める。
1920年 アート・スチューデンツ・リーグを退学。
1922年 ニューヨークのダニエル画廊と契約、最初の年次個展を開く。ウッドストックの出版社が国吉の画集を出版
1925年 キャサリンと二人で初めてヨーロッパ旅行。滞在期間10ヶ月の大半をパリで過し、新たな方向を模索。
1928年 制作上の行き詰まり打開のため、永住を決意して再びパリに渡る。集中してリトグラフを制作。12月パリで制作したリトグラフ24点をダニエル画廊で展示。
1929年 ウッドストック(ニューヨーク市の北80マイル)に家を建て、以後その地で夏を過ごす、ニューヨーク近代美術館のアメリカ現存19人展に選ばれ、アメリカの画家としての評価を不動のものとする。
1931年 病床の父を見舞うため、25年ぶりに帰国、岡山、東京、大阪で個展を開くがあまり注目されず。
1932年 横浜出航、帰米の途につく、船中で父の訃報を受ける。キャサリンと離婚、美術団体アン・アメリカンの設立に関わる。
1933年 前年閉鎖されたダニエル画廊に変わり、新たに契約を結んだダウンタウン画廊で最初の個展を開く。
1934年 数多くの展覧会に出品、美術館展で二等賞を受賞。
1935年 サラ・マゾと再婚。グッゲンハイム奨学金をえる。
1936年 ニュー・スクール・フォア・ソーシャル・リサーチで教え始まる。
1937年 ウッドストックのアトリエに暗室を設け写真に熱中する。
1939年 アン・アメリカン・グループの会長に選出され、1944年まで務める。
1940年 自転的随筆「東から西へ」を「マガジン・オブ・アール」誌に寄稿。
1941年 アメリカ中西部をスケッチ旅行、日米開戦により、国吉の法的身分は(“外国人居住者”から“適性外国人”となる。
1942年 アメリカ合衆国戦時情報局の要請により、日本人向け短波放送の演説原稿を書く。
1944年 ペンシルヴァニア・アカデミー「大139回年次展」でJ・ヘンリーシャイト記念賞など受賞。
1945年 アート・インスィテュート・オブ・シカゴ「第56回アメリカ絵画年次展」で
    ノーマン・ウェイト・ハリス青銅牌を受賞。
1947年 美術組合の初代会長に選出され、1951年まで務める。
1948年 「ルック」誌が現代アメリカの10人画家に選出。ホイットニー美術館が現存画
    家としては初めての回顧展を。
1952年 A・コールダー、E・ホッパー、S・ディヴィスとともにヴェネチア・ビエンナーレのアメリカ代表作家に選ばれる。
1953年 移民帰化法の改正受け、アメリカ市民権取得申請の準備を始めるが果たさぬまま5月14日胃がんでなりまりました。

(3) 画風の変化
 1921年 ダニエル画廊で初個展、子供や牛を題材にした、プリミティブで幻想的な画風は、徐々にアメリカの画壇でも認められていく。

 Child Frightened by Water", 1924. Oil on Canvas (30 x 40 in) Gift of Joseph H. Hirshhorn

 1925年・28年と2度に渡ってヨーロッパを旅行を契機、従来の幻想的画風から写実的な表現へと大きく変化していく。この画風の変化は、パリで行動を共にすることが多かったパスキンらエコール・ド・パリの作家の影響が大きい。中でも、大恐慌後の暗い世相を背景にした、憂愁や倦怠、孤独感などを漂わせた女性像(「横たわる女」など)は、その後の彼の作品の中心的モチーフとなっていく。
  
 横たわる女
 1935年に発表した「デイリー・ユース」あたりを境に、彼の画風は従来の社会的要素に加え、新たに心理的な側面も色濃くなってくる
 デイリー・ニュース Daily News 1935年
 
 戦中に製作された「誰かが私のポスターを破った」「飛び上がろうとする頭のない馬」などは、戦争の悲劇や人間存在への虚無感を強く感じさせるが、同時に微妙な立場に置かれた彼の深い苦悩と、リベラリストとしての抵抗を物語っている作品とも言える。
誰かが私のポスターを破った(1943年)
 
 
 戦後は、当時台頭しつつあった抽象表現主義やシュルレアリスムも意識した、赤を主調とした重々しい雰囲気の画風に転じる。仮面をつけた一連の人物像などは、戦後の不安感を強く暗示していると言われる。
 
(4) 国吉絵画の原点
 @ 岡山出石町生まれのアメリカ20世紀代表的な画家
 国吉康雄は岡山出石町生まれ、アメリカに移民し十数年後にアメリカ美術界で注目される新進画家となった。日本から欧米に渡って評価された画家は何人もいるが、国吉がアメリカで受けたほんとうに絶大な評価は他に比べようがない。しかし、国吉康雄のことは日本ではあまり知られていない。十七歳まで過ごした郷里の岡山でさえ、その名を知る人も多くなかった。国吉が十七歳で岡山を後にしてから、卿里を訪れたのはただ一度だけであった。1970年代になると突然、国吉の作品が日本の美術関係者の関心を集めるようになった。幸いなことは、岡山県立美術館が予算の許す限り国吉の作品を購入して公開展示していると、岡山に本社を置くベネッセの福武会長が個人で国吉の作品を収集に取りかかり、その作品の多くが岡山に存在するということである。社員の情操教育のために社内での公開を行った後、新社屋の建設を機に、社内に国吉康雄美術館を開館して一般公開にも踏み切った。また、大原美術館も国吉の代表的名作を所蔵している。

A 国吉の絵画における日本元素
 国吉康雄は、日本で生まれ十七歳まで日本で育った。亡くなるまで四か月ほど日本に帰った以外、日本で生活していない。すなわち、国吉康雄は絵の修業にしても、ものの考え方にしても、アメリカで学んだ事やアメリカで思考した事の方が時間的にも、量的にもはるかに多い。しかし、国吉の作品の多くには日本での生活経験や思考が見られる。幼少時から青年になるまでの十七年間だけ日本で生活したが国吉が自分の夢や幻想を絵画に表現している。
鯉のぼり Fish Kite 1950年 油彩/カンヴァス
こいのぼり(鯉幟)は、元来、江戸時代に武家から始まった日本古来の風習である。岡山で過ごした少年時代の想い出を感じ取ることが出来る。
休んでいるサーカスの女 1931年 油彩
国吉の作品には、サーカスをモチーフにしたものが、数多くある。少年時代に、岡山に本拠があり開演していた木下サーカスを父に連れられて見に行ったことに起因していると考えられている。 
日本の張子の虎とがらくた 1932年 油彩/カンヴァス 
この絵にある「張り子の虎」は、岡山県の郷土玩具を代表するもので、瀬戸内海沿岸の町で首振り式の張り子の虎は作られていた。家の片隅にあった記憶を蘇らせたものだと考えられる。

 当時、日本人がアメリカで画家、それもモダニストになるという例はきわめて稀であった。日系人の大部分は農業に従事し、西海岸に集中していた。彼らにとってアメリカはまず生活するところである、そのためには自分が日本でやっていた仕事に近い職業を得ることが成功の条件であった。あるいは画家になるにしても、アメリカで生きるためには日本画家として日系人を相手にするか、ごく少数のアメリカ人の日本画愛好家を満足させることを考えるのが妥当だった。いずれにしても、移民にとって保守的、閉鎖的、伝統的であることが最低限度の生活をするための条件であった。

 国吉の歩んできた道はそうした大多数の日系人とは違っていた。アメリカにわたってきた時は、まだ職業の経験もなく、また何になろうとも決めていなかった。画家として生活するまでに歩んできた道は孤独であった。そして華やかなスポットライトを浴びた時、彼に与えられたレッテルは、東洋の伝統を紛れもなく担った若いモダニストというものなのであった。

 確かに彼の絵の中には、日本文化や日本の伝統芸術、あるいは日本美術の特質に結び付けて述べうる可能性を持ったものがいくつも発見できる。しかしそれは国吉の絵に対する考え方、クニヨシイズムの一貫した態度によるのであり、現実と非現実との境目を徘徊することによって絵の中に自己を表現しようとする彼の美学に起因している。イメージにつきまとうシンボルは、当然のこととして絵の重要な構成要素となり、牛の場合は鼻輪として、赤ちゃんの場合には金太郎型の腹掛けといった風に、明らかにアメリカでは一般的でないシンボルが画面にあらわれることになる。このように彼の中で赤ん坊を、あるいは牛を象徴するものが日本のものであった時、アメリカ人の目には、国吉は日本の伝統を背負い日本に体を半分向けている人と映る。しかしアメリカ人がどう鑑賞しようと国吉の絵のなかに出てくるものは、彼のかけがえのない体験の所産であり、それがすべてなのである。

 こうした国吉の美術そのものの理解以前に、現代美術、ヨーロッパで次々に起こってきたそれらをまだ十分に消化していない批評も少なくない。そしてしばしばこういう批評家は国吉に対してないものねだりの批評を書くことがあった。国吉康雄はここ数年間アメリカの公衆を焦らしつづけている。全面的に理解されたわけではないが、彼は好まれている。彼にとって自分の美術であるという、東洋と西洋の不思議な混ぜ合わせの芸術は、はっきりと彼自身のものである。それは東洋の伝統に属しているが、同時に西洋の自我も持っている。この説明がもしわかりにくければ、ダニエル画廊に足を運ぶ必要がある。彼はあまりにも神秘的である。彼は単なる西洋人の心には、自分の神髄を捉えさせようとはしないのである。
  前章で論じたように、国安康雄の生誕の地は、岡山市北区出石町である。芸術を核としたまちづくりの可能性を探るために、その出石町の研究を進める。


3 出石町の歴史、まちづくりの背景

(1) 岡山市の形成における出石町の役割、特徴(地理的側面、機能的側面)
 歴史をさかのぼると、出石町は戦国時代に岡山城下町として開府されて以来、商人町として長い歴史と伝統を誇っています。そのロケーションは旭川の西側に位置し岡山城、後楽園に最も近い町として、築城や城下町建設、造園における資材の集積ターミナル、すなわち、当時の最先端であった水上交通の要所として発展しました。出石町は岡山の要衝として、その発展を支えています。
 
 まさに、現在の市街地形成の起点とも言えるのではないでしょうか。後楽園の門前町である出石町を含む、岡山城、後楽園を中心としたカルチャーゾーンには、国吉康雄などの文化人を育んだり、創造性を生み出したり、必然的に文化施設が集まる潜在的な要因があるといえます。

(2) 出石の歴史と街並み
 岡山市出石町は、旧岡山城下町で戦災を免れた数少ない地区のひとつで、400年前の岡山城築城から順次整備され、藩政期には高瀬舟の船着き場で商家が並び、明治期には後楽園が解放されると行楽客で賑わいました。そのため江戸期以来の路地に明治から昭和初期の建物がひしめき、伝統的な町家やモルタル壁の疑洋風建設(看板建設)が続く、懐かしい雰囲気を保っています。
 
 明治維新とともに鉄道の敷設が始まり、水運で栄えた町の多くが衰退へ向かいましたが、出石町は対岸の藩主の庭園が県へ移管され、明治17年に『岡山後楽園』として一般に開放されたので、鶴見橋の架橋とともに行楽客で賑わい、門前町として新たな繁栄を迎えました。そして明治43年に路面電車番町線が後楽園口交差点の坂下へ達し、西大寺軽便鉄道が後楽園の北(現在の夢二郷土美術館の場所)へ延伸されると、出石町は市内と東郊を結ぶ交通の結節点にもなりました。

大正時代の出石町から後楽園に向かう通りの様子 平成4年に取り壊された鶴見温泉(疑洋風建築)

 1945年6月29日未明の岡山大空襲で、旭川と西川が囲む旧城下町の中心部は、大半が焼失しました。これは柳川筋と県庁通りの交差点付近を目標地点に定めて高空から多量の油脂焼夷弾を投下したもので、爆弾は風にあおられながら円状に広がり落下し、当時の市街地の約80パーセント以上を焼き尽くしました。しかし風向きも幸いしてか、市街の北端の出石町と番町は多くが炎を免れ、古い情緒を伝える街並みが残りました。
 
 こうして出石町は城下町の建設期に定まった敷地割りへ、多様な時代の建築が混在した街並みとなっています。

 高度経済成長時代からのモータリゼーションの進展に伴う交通体系の変化は、それへの対処が困難な出石町へ深刻な影響を及ぼしました。商業の衰退と古い建物の取り壊しが相次ぐ中、通過交通が増加し、路面電車の廃止と、新鶴見橋の架橋による上出石町の分断が続きました。観光客の多くが、後楽園すぐ外の駐車場へ自家用車や観光バスで乗り付けるようになり、岡山駅方面からも、出石町を抜けて後楽園に徒歩で行く人はいなくなり、商業地としての魅力もなくなったことも、利用されず放置される空家が増えることの要因となった。

(3) 出石の町名の由来
 400年前の岡山城築城・城下町建設へと大改革の時代、旭川を川上から下ってくる筏の量は大変な数となり、河川活動の栄えた時代であったと想像できる。
 その活動の第一は河川の修復に始まり、商品流通の増大の為に川舟の交流、川舟の発着場の整備、波止建設、護岸工事は急ピッチに行われ、石組みの突堤で波止め、川舟の発着を容易にする「出石」が建設されたと考えられる。この出石が町名の語源という説がある。

(4) 過去のまちづくりの背景・現状
 ここでは出石町におけるまちづくりについて、ハード面とソフト面とに分けてみていきたい。
  【 ハード面 】
B 町家

 出石町の歴史にあった様に、出石町のまちづくりの源流は戦国時代からということになるが、現在の出石町に見られる伝統的な建物は、実は明治以降に建てられ戦災を逃れたものである。また、その建物は町人(商人)のまちであったこと、モータリゼーション以前の商店は往来の通行人に対し商売を行うことが通常であったことなどから狭小かつ、間口が狭く奥に長い町家建築が多いことも特徴である。これらの伝統的な建物はまた、岡山市街中心部では偶然にも戦災を逃れた地区であるがゆえに、比較的多く残っているのだが、かなりの老朽化や空家化が進んでいる。現在、再生をキーワードとして空家、空きスペースを改装しカフェレストランや革製品工房兼店舗などに生まれ変える活動が活発に行われている。今後のまちづくりでも主役になるべきものである。
 
C 路地

 路地については、戦災を逃れた地区であることが色濃く反映し、また、区画整理が行われていないことから、これこそ戦国時代からのまちづくりが現在にそのまま生きているものと言える。また、狭小であるからモータリゼーションの象徴である自動車の往来もなく、人や自転車の行き来きだけであるため、静かで落ち着いている。町家との一体的な在り方が自然でありかつ、重要である。一歩路地に踏み込むことで確実にタイムスリップを感じさせるだけの存在価値のあるものである。

D 現在の飲食店(cafeなど)、物産品店

 江戸時代から出石町は岡山城下町として発展を遂げてきたが、戦後は、戦災を受けなかった地区ということで伝統的な建物や路地がそのまま残ったことが一時的に禍となったのか、建物の老朽化とともに、町中人口も減少し往時のような活気のない町となっていた。しかし、現在は、その伝統的な建物を活かし再生するという取り組みが行われ、例えば、飲食店では出石町のランドマークと言われる看板建築にpieni、ばーるぼっこーね、出石まちかどカフェが集い、他にもサラリーマン食堂、つるみ食堂などが往時の賑わいを取り戻すべく頑張っている。物産品店では昭和5年からの老舗である備前焼平井本店があり、非常に新しいところでは、革製品工房兼店舗や大学卒業間もない若者グループによる岡山県内の地産地消を謳い文句にした店舗もできている。

E バス停・駐車場

 現在の出石町のロケーションとしては、出石町単独での成立というよりも岡山後楽園の門前町として捉えた方が非常に整理しやすく分りやすい。かつて、市内電車番町線が昭和43年に廃止されるまでは、市内電車後楽園口停留所から弓の町の坂を上り鶴見橋の西詰めまでの間で備前焼や吉備団子を販売する店が軒を連ね、多くの観光客や地元客でにぎわっていた門前町であった。しかし、モータリゼーションの進展による交通体系の変化、とりわけ後楽園の北端、蓬莱橋南東に観光バスと一般車両の駐車場が整備されると、それまで出石町、鶴見橋を通って後楽園正門に向かっていた歩行者の流れはほぼ完全に止まり現在に至る。

F 船着き場(出石)

 出石町は先述の通り、戦国時代からのまちづくりで形成された城下町であるとともに、旭川に面しかつ、岡山城、後楽園に最も至近な地区である。それ故に築城、城下建設や造園における材料を運搬する手段として、当時の最先端であった水上交通の要所として、川舟の発着場の整備、波止建設、護岸建設が行われた際に、石組の突堤が波止め、川舟の発着が容易になるように石組の建造物である出石が建設されたとの説がある。現在でもその容姿は、往時を想像させるに難くない形で、旭川の護岸にて観察できる。



 【 ソフト面 】
@ 出石町の活性化活動
 主な事務局
出石をどねぇんかする会

 出石町内に事務所を持つ任意の団体として、平成13年10月に発足し、その後、このような出石町の貴重な建物を保存して後世に残すための活動を主に行っている。建物の保存の方策として、出石町の建物をアーティストやクラフト職人にアトリエ、作品のショップ、工房などへの利用や、アートギャラリーとしての利用などを通して補修、修理を行うことで建物の保存を考え、その促進を行っている。
 代表的な活動としては、出石界隈の古民家や商家を住民から会場として提供を受け、作家が展示・インスタレーション・パフォーマンスなどを表現し、街並みの魅力を再発見しながら芸術を育み、地域コミュニケーションを高めることを目標に、平成18年から開催された「出石芸術百貨街」がある。
代表:山本賢昌氏 

岡山カルチャーゾーンまちづくりの会

 通称「カルまち会」として出石町、石関町、天神町と弓之町等からなるの岡山城、岡山後楽園、県立美術館を中心とする文化・芸術の施設、人々が集積する町内の有志が集まり結成されたもの。
 代表的な活動としては、岡山県が国民文化祭の成果を発展継承させ、県民の文化への関心を高めるとともに、伝統と魅力あふれる岡山文化を全国に向けて発信するために開催される岡山芸術回廊に対し、コラボレーションを行っている。
代表:大河原 喬氏

過去の経緯、つながり、外部への情報発信と交流

 これまでにも出石町やその界隈では、幾度となくまちづくりについての会や催しが行われ、冊子などが作成されていた。それについて、代表的なものを記述していく。
 
a.「後楽園周辺街並形成促進基本計画 歩いて楽しい、すんで良かったといえる街づくり 住民、行政一体となった協議型街づくりに向けて」
 これは平成7年7月に出石町街づくり研究会が、平成9年の岡山城築城400年、平成12年の岡山後楽園が一応完成をみて300年という歴史的な節目を前に、住民視点からわが町「出石町(岡山)」の再生の目標を「歩いて楽しい、住んで良かったといえる街づくり」とし、出石町アートタウン構想の下、具体的な方策をまとめたものである。
 
 b.「町誌 わが町中出石」
 これは、岡山城築城400年の平成9年に、自分の町を愛され、長くその地に住まわれた方々の記憶、体験、調査研究をまとめ、出石のこれからの発展への動機づけとして作成されたものである。


(5) 岡山城・後楽園界隈には文化・芸術的なものを生み出す要素があるのか
@ 他都市の事例をみる
 文化・芸術的なものを生み出す要素としては何なのか。岡山城、後楽園界隈はそのものが文化・芸術的施設として、全国に、世界に発信できるものであることについて異論はない。それだけの文化・芸術施設を間近に感じられる出石町、石関町、天神町と弓之町等からなるゾーンは充分に文化・芸術的なものを生み出す要素となるのではないか。そこで文化・芸術的なものを生み出すということについて他県の事例をみてみる。
 
A 俳句のまち松山市
 四国愛媛県の松山市は、平成22〜23年にかけて放映されたNHKのドラマ「坂の上の雲」で描かれたように、文化・芸術や、またはそれにより名を成した人物を生み出す要素が多分にある。
 
 その一例を紹介してみると、「松山は慶長八年(1603年)平田広野の中に横たわる丘陵上に加藤嘉明が築城した連立式天守閣を中心とする松山城を取り囲んでつくられた城下町である。中略、北と西に波静かな瀬戸内海、南と東に西南日本の最高峰石鎚山を主峰とする緑の山なみが連なって海山の姿が美しく、奈良時代には道後温泉を訪れた万葉歌人山部赤人は、この血を「島山宜国」とほめ、この温泉が絶好の景観に囲まれて国内最高の温泉であると讃えている。松山の気候は、少雨で晴天の日が多く、青い空からやわらかな日差しいっぱいで、とくに北に瀬戸内海を控えている関係で、冬は格別暖かく、雪が積もることは稀である。雪降らぬ伊予の大野や緋蕪 虚子 真之の幼少の頃からの親友で俳聖正岡子規は、「筆まかせ」第二篇の中で「故郷の暖気」と題して次のようにかいている。」(秋山真之のすべて 新人物文庫 田中歳雄共著)とある。
 
B 岡山市に当てはめてみると
 岡山市に当てはめてみるとどうであろうか。岡山市もやはり松山市と同じく築城、つまり、宇喜田秀家の岡山城築城に端を発して発展を遂げきた、云わば、歴史のある都市である。
 
 そして、南に波静かな瀬戸内海、北に蒜山を含む中国山地を抱き、少雨で晴天の日が多く、青い空からやわらかな日差しいっぱいである。そして岡山城と並んで天下の三大名園である後楽園を有す絶好のロケーションである。
 その中心地であった出石町、石関町、天神町と弓之町等からなるゾーンは内田百間、坂田一雄、国吉康雄といった文化・芸術人を輩出してきたのだから、文化・芸術を生み出す要素を多分に秘めている可能性があることは想像に難くない。
 
 ただ、岡山市が松山市と大きく違うのは、松山市は俳句の町という文化・芸術についてのコンセプトが確立されているが岡山市にはないということだ。それが、今後のまちづくりの1つのキーファクターとなると思う。
 



W 人の集まり

1  はじめに

人が集まる 世界共通の6つの定石と原理原則がある。

1、歴史・文化に触れることができる町
2、夢を見ることができる町
3、健康になれるか、それを体験できる町
4、美味しいものが食べられる町
5、楽しい買い物ができる町
6、水辺の美しさを感じられる町

 
ここで活性化事業の成功例を検証する

2 豊後高田昭和の町


 大分県豊後高田市の商店街は、観光客はゼロ。寂れた商店街は改装・改築が出来ないから、戦後の姿のままで誰も来ない。
ある日、この昭和の30年代の姿を活かして魅力ある街を創ろうと立ち上がった。今、観光客は年間30万人。
ここには、目標観光客数と目標売上高があり、まちづくり株式会社が責任を持っている。集客で一番大切な、商店主や店員の指導を徹底してやっている。
どの店も活力と自信に満ちている。笑顔がまぶしい。
閑散としていたコロッケ屋は今、多い日には1日1000個が売れるという。
観光客は、コロッケを食べながら、町を散策している。


3 伊勢市おかげ横町


 伊勢神宮の側にあった『おはらい町』、来客数が年間20万人まで落ち込んだ。
赤福の当時の濱田社長は、閉店している店を買い上げて400メートル四方の『おかげ横丁』構想を立ち上げた。5年の準備を経てスタートしたおかげ横丁の投資額は、総額140億円。

今、来客数は年間440万人。観光客は一人あたり千円を使う。
これを企画運営する会社は、おもてなしの心を、商品と接客に表現するように指導を徹底している。
ダメな店や経営者を排除し、やる気と能力のある人にだけ店舗を託す、資本主義社会の原点が見える街。
活力に溢れ、働いている人は、笑顔と自信に満ちている。伊勢市の経済力の源の一つに変貌を遂げた「おかげ横丁」がある。



 神宮の外宮は200万余りの参拝客が来るが、周辺にお金を使う場所が無いから寂れたままでつまらない。内宮は600万人以上が来て、おかげ横丁でお金を使い、満足して帰る参拝客。そして多くの人がまた訪れる。来年は神宮史上最高の参拝客が訪れ、記録を更新することは間違いない。

 この成功した二つの商店街の共通点は、以下の通りです。

     1、 会社組織で運営
     2、 目的が明確
     3、 目標(数値)が具体的
     4、 責任体制が確立

 行政と協力関係は築きながら、行政頼みにしないという姿勢の大切さを学ぶことができます。出石町の過去の活動の中にも、行政の補助金で事業を展開していたが、打ち切りとなったために、活動そのものが頓挫した例もありました。今後の地域活性化策においては、大いなる教訓です。 昨年の年末、廿日市市宮島に調査に行き、若者(カップル)の多さに驚きを禁じ得ませんでした。
 
4 廿日市市宮島
 世界文化遺産である、厳島神社を中心とした数々の神社仏閣、海に面した自然、町屋通りの風情、表参道の商店など魅力満載のパワースポットとして有名ですが、観光客の多さ、それ以上に若者カップルの多さに驚きました。正確に計測できませんでしたが、6割が若いカップル(大学生中心)、家族連れ2割、年配のツアー2割という印象でした。確かに表参道の店は、若者が気に入りそうな店も多く、賑わいを見せていました。人が集まる6つの定石-水辺の美しさを感じられる町-が脳裏を過ぎります。
また、JR宮島駅前から、フェリーで10分(フェリーもJR)とい手軽さと海を渡るロケーションも奏功しているのでしょう。

 また、世界最大の旅行クチコミサイト「TripAdvisorR」の日本法人であるトリップアドバイザー株式会社(http://www.tripadvisor.jp )は、外国人観光客から投稿された口コミでの評価をもとに「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20(http://www.tripadvisor.jp/HotSpotsJapan )を発表しました。その第1位に、世界遺産にも登録されている広島県の宮島(厳島神社)が、選ばれています。

 海、島、若者の比率、外国人の人気は、まさに瀬戸内国際芸術祭と共通します。若者が多いと言うことは、未来があるということに他なりません。




X 岡山市の現状と可能性


1 岡山市商店街の現状と出石町の可能性
 岡山市表町商店街と何処が異なるのか。商店街の活性化と言うフレーズが何度飛び交っただろうか。商店街は活性化していますか。商店主から、こんなに落ち込んだ岡山の顔たる商店街のために、政治や行政は何もしてくれない、と何度も愚痴を聞かされた。

原因を他に求めたら、解決の道はない。
原因を自らに求めると、解決の道が開ける。

 商店街は、商店街としての目的も目標も責任もない。消費者は、そんな商店街を見放している。
 
目的が無ければ、手段はない。
目標が無ければ、努力はない、結果が無い。
あるのは迷走だけ。

 昨年度より空き店舗が増えても、売り上げが減っても誰も責任を取らなくて良い商店街。これでは何も前進しない。

 私たちまちづくり研究科は、岡山市の出石町に注目してきました。ここは、出石の歴史、後楽園・夢二美術館・県立美術館・市立美術館・林原美術館・岡山城の7つの岡山の歴史と文化芸術が終結する中心に位置しています。
さらに、先に論じたとおり、ここには、二十世紀の世界を代表する画家・国吉康雄の生誕の地です。国吉の作品がこのエリアの中心、即ち出石町に位置すれば、人が集まることは間違いないと確信しています。

 私たちは、これらの他に類を見ない財産を活かさない手はない、と考え、まちづくり研究科を立ち上げ、行動を起こそう、と決意しました。今、わくわくドキドキ、しかしちょっとだけ、ハラハラしています。

 日本の宝物である岡山の歴史と文化芸術を、より多くの人に触れて頂きたい。これらの先人の哲学は、考える力を与えてくれる、そして心を柔軟にしてくれる、発想の転換に必要なヒントを与えてくれる、物事の本質を学ぶ力を育ててくれる。勇気を与えてくれる。より良く生きるエネルギーになる。

2 岡山カルチャーゾーン

 出石町を北限とするカルチャーゾーンには、多くの魅力的な資源が眠っている。かつて岡山城下の中心地だったこのエリアは、国吉をはじめ、内田百聞、坂田一男など、創造性豊かな偉人を輩出してきた。歴史の中で、新しいものを生み出す土壌が育まれてきたのかも知れない。出石町界隈では、その魅力にとりつかれて他地域から移住し活動する人、新規創業を目指す学生なども多く、人を引きつける魅力も持ち合わせている。未来に向けて新しいエネルギーの発信地としてこれほど相応しい地域はない。

 先ほど述べた人の集まりに必要な要素にも恵まれている。歴史、文化、水辺、
国吉の芸術と創造性から広がる夢。まちづくりの進行過程で、現在も芽生えて来ている、食べる、買い物をする機能整備も整うのならば、先の成功例に劣らない日本有数のエリアになると信じます。Gross Area Happiness by OKAYAMAの向上を目指す我々には、その実現のために無限の可能性を秘めた掛け替えのない地域なのです。





Y 紹介事例


1 IZUSHI美術街
 

2 岡山B級グルメ村
 昨今人気を博し報道でも大きく取り上げられた、昨年11月に開催された「第6回ご当地グルメの祭典 B-1グランプリin姫路」において、岡山を代表するB級グルメは、
  ゴールドグランプリ(第1位)―ひるぜん焼きそば
  シルバーグランプリ(第2位)-津山ホルモンうどん
               第9位 -日生カキオコ
の栄誉を勝ち取りました。まさに上位を独占して、日本一のB級グルメのメッカです。出石町の一角に「岡山B級グルメ村」が、完成すれば、大きな相乗効果が期待できます。


3 食の国際化ハラータウン
 街づくりでソフト面を考えると食が大事です。グローバル化が叫ばれ、国内の観光拠点では外国人観光客、特に今は経済発展を遂げている、中国人観光客の獲得に向けて頑張っていますが、経済発展は中国からアジア・太平洋圏に移っていると言われています、しかし、アジア・太平洋圏はイスラム教徒が世界全体の1/4、約16憶の人口を占めています。また、日本ではあまり知られていないのですが、イスラム圏では食べ物がイスラム教の教えで食べては行けない物(体に悪い物)「ハラム」と許される物「ハラール」が厳格に定められて、ハラムの食べ物は食べることができませんので、日本に来ても食べ物で困っています。
 イスラム圏と言うと中東のイメージが強いですが、世界で一番人口の多いイスラムの国はインドネシアで、2億人のイスラム教徒がいます。日本にもアジア・太平洋圏からムスリム(イスラム教徒)の方が多数来日しています。
 そこで、岡山市街地に国内で例の無い、「ハラール」を街づくりに取り入れて国際都市岡山を作るべきと考えました。

 
 ハラールとは
 イスラム教の教えで食べてはいけない物(体に悪い物)ハラムと許される物ハラールが厳格に定められています。このハラムは豚や犬・虎などの獲物を捕獲するための牙や爪がある動物、キツツキ、ロバ、ラバの肉を食べること、それ以外の肉であっても殺し方が正規の手順に従ったものでなければ食べられないし、アルコールも禁止されていて、飲酒及びアルコール分を含む食品も含まれます。ハラムでないもの、食べてもよいものがハラールです。

在日モスリムの現状
@ 鮮な肉(鳥・牛)が食べられない。
 日本のスーパー等で売られている肉はハラールでは無いので、食べられない為、通販のハラールショップで買いますが、殆どがイスラム圏からの輸入された物で値段は高いし、流通に時間が立っているので、鮮度は悪いと言う2重苦を我慢しています。
 
A の脂が付いていると食べられない。
 豚肉では無くてもラードを使った食べ物は食べられません。例えば、うどん屋で、野菜・魚の天ぷらであっても、天ぷら油の成分が判らないので素うどんしか食べない。
 
B 食店が何処でも入れません。
 調理器具も豚の料理をした後の調理器具で魚を調理しても食べられません。例えば、豚肉を調理したまな板で魚を捌いたら、魚料理でもまな板・包丁等の調理器具を分けない食べられない為、魚料理店でも入れません。
  
在日モスリムの人口
 早稲田大学で、日本に暮らすムスリムの調査を進めてきた多民族多世代社会研究所の推計によると、11万人前後のムスリムが日本に暮らしているとみられる。そのうち10万人ほどは外国籍のムスリムだと考えられている。
 
 日本に暮らすムスリム人口は増えています、80年代後半、バブル経済下の好況で、工場などの人手不足が深刻化し、当時、ビザの交互免除協定を結んでいたパキスタンやバングラデシュあるいはイランから労働者が来日するようになりました。海外からの出稼ぎです。また1990年代後半から、外国人技能実習制度の下で来日した研修生で多くのインドネシア人が増えてきました。近年ではイスラム圏からの留学生も増加してきています、それに伴い、卒業して日本の会社に就職する会社員ムスリムも徐々に増えています。08年には外国人看護師・介護福祉士候補者の受け入れが始まり。日本政府はインドネシア及びフィリピン政府との間で結んだEPAの枠内で、相手国の要請に基づいて受け入れますので、増加しています。     (2010年3月現在 日経ビジネスより)

ハラールで岡山を国際都市にする
 ハラールはイスラム教の教えにより出来た習慣ですが、イスラム圏の住民に取っては、古(いにしえ)からの習慣として生活する上では避けられないものとなっていて、幼い頃より教えられて体に染みついています。 日本では宗教が絡むと扱いが難しいですが、イスラム圏の風習、異文化として扱い、ハラールを岡山の飲食店、ホテル・旅館等の宿泊施設及び飲食販売店等で取り入れることにより、国内のモスリム住民やイスラム圏よりの訪問者に安心して食べられる物を提供できます、その事をPRすれば岡山への訪問者が増えるでしょう。それにより、岡山が誇るグルメが世界に知れ、食を求めて人が来れば、市内の美術館等にも訪れる人が増え、芸術を求める人にも安心して岡山のグルメを味わって貰えるので、相乗効果が生まれると思います。また、ムスリムは英語で通じる方が多いので、英語を話す機会・表示等も増え、ハラールをキツカケとして異文化を考え、海外との文化交流も増やし、海外の人々を意識した街づくりと人々との交流を行っていけば、岡山が国際的な街になると考えます。




Z 最後に

 国吉康雄の作品とその哲学、岡山の歴史・文化芸術、瀬戸内の美味しい食べ物、岡山の誇る物品店で岡山のおもてなしの心に触れて頂く街へと変貌することは十二分に可能である、と考えるに至りました。

 歴史・文化芸術を見に集まった人が、食事を楽しみ、岡山特産の果物や備前焼やジーンズや倉敷頒布を買って帰る。世界に発信し、世界中から人を集めるためには、「おかやまハラールタウン」「岡山B級グルメ村」(参考資料参照)などの新しい視点からの切り口も必要です。

 県外来た若い夫婦が国吉の作品に感動し、後楽園を、手を繋いで人生を語り合いながら散策する。
 還暦を過ぎても、また夫婦で訪れて手を繋いでデートする、そんな街にしたい。そんな未来像を夢見て、いや目標にして、笑顔の溢れる街を創りたい、良く生きるエネルギーを発信したい、と決意しています。

しかし、転換の第一歩は、大きなインパクトのある国吉康雄の作品です。現在、国吉の映画化も進行していると聞き及んでいます。再来年には、第2回目の瀬戸内国際芸術祭も開催されます。

 岡山から宇野港に移動し直島に渡れば、1時間45分かかります。
実験をしたところ、出石町の南に位置する京橋から、30人乗り、14tの客船で、直島本村港まで45分です。半分以下の時間で結ばれます。

 国吉の作品が、生誕地出石町に家プロジェクトのように展示され、街そのものが、美術館-IZUSHI美術街(参考資料参照)-となり、芸術祭の舞台の一部に加わることが叶うならば、岡山に多くの観光客が集まり、地域の人たちの背中を後押しすることができます。未来に向けて、岡山の歴史に輝く大きな起爆剤となることでしょう。

 その折には、行政に頼り切ることなく、豊後高田昭和の町・伊勢おかげ横町の成功例に学び、目標と責任体制を明確化した会社方式が成功の鍵となるでしょう。

 我々も継続して、人が集まる6つの定石・原理原則と成功に到る4つの共通項を心に刻み込み、実践的な活動に取り組んでまいります。





平成23年度 岡山政経塾 まちづくり研究科メンバー
善木 誠 岡山政経塾 2期生
彭 小武 岡山政経塾 5期生
平田 祥子 岡山政経塾 6期生
藤井 勲 岡山政経塾 7期生
谷 正太郎 岡山政経塾 9期生
石川 英知 岡山政経塾10期生
義若 智康 岡山政経塾10期生
サポートメンバー
井上 佳紀 岡山政経塾 5期生
西美 篤 岡山政経塾 6期生
小河原 房恵 岡山政経塾 7期生
難波 宏行 岡山政経塾 7期生
三島 聖子 岡山政経塾 8期生
森田 明男 岡山政経塾 8期生
高原 弘雅 岡山政経塾 9期生
東 裕介 岡山政経塾 9期生
藤井 美子 岡山政経塾10期生
小山 宣彦 岡山政経塾 事務局
アドバイザー
梶谷 俊介 岡山政経塾  幹事