2009年 直島特別例会
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◆塩澤 勝利(岡山政経塾 八期生)
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ベネッセアートサイト直島合宿レポート
瀬戸内海三島(犬島、直島、豊島)訪問から気づいたこと
〜正解がないからこそ、冷静なものの見方と、貪欲な吸収〜
今回の例会は、「見る・聞く・体感する。考える力を身につける。発想の転換をする。」が目的の例会。これまでの例会とは違い、自然の中のゆっくりとした空間に置く例会であったと思うし、それだけに塾生たちとの語らいの中でも、違った感想や関心が垣間見れた。それだけに、この目的に掲げられたことには正解がないのであろう。私が特に学んだことは大きくは以下2点であるが、これについて詳細にレポートすると共に、他の方のレポートからも、“見方”を学んで行きたいと思う。正解がないだけに、吸収した分だけ、自分の視野が広がると思われる。
【1】情報に振り回されないということ。
【2】あるものを活かしないものをつくるということ。短絡的に、ソリューションの薬箱に頼らないということ。
【1】情報に振り回されないということ。
きっかけは以下3つのことである。
@一日目の直島のアート(現代アート)は、他の美術館と比べ、全くといっていいほど、解説がない。どう解釈をすれば良いのかわからず、不思議な感覚に襲われた。ただ、「他では味わったことがない」との感覚しかもてなかった。
しかし、もし、「作者が若かりし頃の熱き恋愛の気持ちを作品に表現した」と解説されていたらどうであろう?きっと、恋愛をネタに、わかったつもりの講釈や解釈が始まっていたであろう。
この時点で情報に振り回されたことになるし、ある意味思考停止でもある。
巷の美術館、博物館の多くは、“解説”がつきもの。これまでは、その解説を元に“わかったつもり”の理解や解説をスタートさせていた。直島のアートは、私ならではの感覚や見方を大事にしてくれているような、また、情報に振り回されるなとのメッセージを届けてくれているかのように思えた。
A二日目の豊島産廃見学では、豊島事件の悲惨な経緯と今のリカバリーの努力を目の当たりにした。悲惨さを端的に表現すれば、近所に突然産廃業者が出来上がり、毎日悪臭、濁った空気の下で生活するようなものである。時折の異臭作業でさえもそこを通りかかっただけで嫌な思いをするものである。毎日となれば、たまったものではない。
アテンドしてくださった石井さんによれば、かつては、香川県民の多くから、あたかも豊島の住民が産廃を垂れ流しにしているように誤解されたことがあり、冷や飯を食わされたことがあるとのこと。誤解の原因は、石井さん曰く、県の提供した情報とのこと。
恐らくは、香川県民の多くは、情報や状況が混沌としていただけに、それまでに聞いた情報も忘れ、県発表のある意味ワンタイム情報をただ無批判に鵜呑みにしていたと考えられる。人間はこれくらい情報に振り回されやすい生き物なのかもしれない。
少なくても、情報や事実の理解の際は、関わった人物へ思いを馳せたり、過去の情報との対比を行うことが必要だと感じた。
B二日目の分科会検討の場で聞いたことだが、要介護認定者数は、岡山市発表数値と岡山県発表数値では食い違いが出るとのこと。確かに、数字は嘘をつかない。しかし、要素を盛り込みきれているとは言えないし、母集団の信憑性にも左右し得る。自分ではこの事実をまだ確認しきれていないが、食い違いの原因は、恐らく要素の盛り込み方や母集団の信憑性なのかもしれない。
ここで大切な二つのことを思い出した(一言一句まで正確ではないが)。
・大学時代の統計学の先生の発言「“数字”は鵜呑みにせず、その算出根拠も理解しないといけませんよ。その理解がないと、人生のどこかで騙されることもありますよ。統計学は、経済学や経営学に限らず、意味深い学問です。」(※当時は意味が理解できませんでした。)
・かつて参加したマーケティングセミナー講師の発言「政府発表データさえも正確で精度高いとは言えない。マーケティングの際は、政府発表データを鵜呑みにしがちだが、使い方次第では、誤った意思決定に繋がります。」
行政発表の情報でさえも時には頼りないものなのかもしれない。情報発信者を盲目的に信じるのではなく、根拠には目を配るべきである。
情報や事実を冷静に、あるがままに、精度高く理解するのは実は骨の折れる作業である。このことも情報に振り回され、時には思考停止をさせている要因なのかもしれない。これからも全ての情報/事実をこのように理解するのは厳しいことではあるが、少なくとも多くの人や物事に影響を与えうる重要な情報だけは、後々の影響も考え、この骨折りを厭わないようにしたい。その際には、少なくても、関連人物、時系列(過去情報との対比)、根拠、情報発信者を勘案する必要があろう。
このレポートでも、「気づいたこと」と銘をうち、記載を進めているが、実はただの人生訓の仮説、あるいは一般化なのかもしれない。わかったつもりにならず、折に触れ、この検証を、黄色信号を自分に示しながら(減速もしながら)、進めて行きたい。
【2】あるものを活かしないものをつくるということ。短絡的に、ソリューションの薬箱に頼らないということ。
前者は福武幹事が仰られる言葉。後者は『ビジネスシンク』(スティーヴン・R・コヴィー他著、日本経済新聞社刊)からの引用である。
以下3つのことが心に深く実感させた。
@犬島では、かつての銅の精錬所をアートにしてしまう試みが行われている。手をかけなければ瀬戸内海のただの廃墟島のままであったであろう。それも、単に土地を有効活用するに止まらない。かつての面影を残したままながらも、その中に現代アートを調和させている。仮に船で犬島の近くを通ったのであれば、ただの廃工場には見えず、古くも新しい感覚を感じるであろう。静けさや自然の中に美しさや洗練を感じる。ただの島ではない魅力を感じる。来訪者が多いのも納得が行く。
A上に述べた直島も、単に土地を有効活用するわけでもなく、また、景観を損ねてまでの開発をせず、その景観の中に見事なまでに現代アートを調和させている。この不思議な感覚は、ここで言葉を尽くしても伝えきれない。犬島に同じく、静けさや自然の中に美しさや洗練を感じる。ただの島ではない魅力を感じる。3400人の島に34万人が訪れる理由も頷ける。
B合宿当日には、松下政経塾OBで現在、愛媛の上島町で「しまの会社」という会社を営む兼頭氏と、長崎県大村市議会議員の村崎氏(かつて私の後輩)が、縁があり来て下さった。それぞれが、地元を愛し、地元に真正面から向き合い、あるものを活かしながら、その土地なりの特色を活かしながら、地元の活性化に努めている。売名半分で、アミューズメント設置などの打上げ花火的施策は一切口にしていなかったし、彼らのHPを確認しても、そのような記載は全くなく、地元のために日々愚直に取り組んでいる様子が窺えた。今特別の成功がなくても、彼らのビジョンは魅力的であるし、じわじわで強固な信頼関係や努力はきっと大きな力を引き出せると思う。
もし仮に今、私が、都市部から数時間の移動を強いられる、敢えて表現を選ばなければ僻地の議員に立候補し、地域活性化が命題であったとすればどんなことをするであろう?
恐らくは、ほぼ短絡的に、産業やTDSやUSJのようなアミューズメント誘致、あるいは、新幹線や空港や高速道路誘致をマニュフェストに掲げるであろう。なぜなら、直感的には盛り上がると思われるし、来訪者が増えれば、税収増も期待できるし、そして、ある種、人気取り(票集め)に繋がりそうであるからだ。
あくまで仮の話ではあるが、現実には、このような打上げ花火的な大規模施策が、皮肉にも打ち上げ花火的に終わる例は多い。
産業誘致をすれどアクセシビリティーや景気の左右で整理対象にされ、撤退される事態、アミューズメント誘致で一度は来て貰えるが、二度目の来訪は少なく、数年たったら閑古鳥で残るは借金まみれとなる事態、新幹線誘致をするもたいした時間効果や集客効果はなく、残るのは長年の借金と空気輸送という事態、空港誘致をするも各社の撤退が進む事態、高速道路を作っても料金所不在でも良いほどの交通量、など。
もちろん、成功例もそれなりに多いと思われるが、失敗を見聞きすることの方が多いことから考えても、少なくても決定的ソリューションとは言えない。都会からのアクセシビリティーUPや“お金を運びそうなもの”誘致は、それだけでは、何の役にも立たないということである。
私見ではあるが、これらの失敗の原因は、恐らくは、その土地ならではの魅力を活かしきることなく、言ってしまえばその土地でなくても良い、他の土地でも替えが効く施策であったからだと考える。
逆に、直島、犬島に限らず、飛騨高山、宮古島や石垣島などの沖縄の離島などは、大きな産業やアクセシビリティーに頼らずも、その土地ならではの魅力が多くの人を魅了し、遊びに来てもらえている例もある。
仕事や人生に置き換えても、何か課題や不足が生じると、とかく大きなソリューション導入や変え事に走りがちである。しかし、それらは、
・本当に決定打なのだろうか?
・あるものを活かせないのだろうか?
・短絡的で焦り半分の行為ではなかろうか?
・一瞬の止血ではなかろうか?
・もっと根本的には、その仕事なり/自分なりの本質をわかった上での行為なのであろうか?
・導入によるロスとエフェクトを見極めた行為なのだろうか?
今すぐアートや“まち”づくりのような大仰なことを行う予定はないが、少なくても今回のことを機に、身近な仕事や人生に於いては、これらの問いかけは続けて行きたい。
派生的であるが、これからはもっともっとホンモノを求めたいと考える。
【3】最後に〜正解がないからこそ多くの吸収を!〜
冒頭に述べたとおりになるが、私が特に学んだことは大きくは以上の2点であるが、レポート提出で終わったつもりにならず、他の方のレポートからも、“見方”を学んで行きたいと思う。正解がないだけに、吸収した分だけ、自分の視野が広がると思われる。
これからの岡山政経塾の活動では、なおさら正解のないことを探求していくことになる。100人いれば100人の見方、100国があれば100国分の見方がある。さすがに100は消化不良になるが、少なくても同期の17名だけを見ても、見方はそれぞれだし、面白い。それを一つでも吸収していくことが、より実りと現実味ある探求や提案に繋がっていくと思う。異なった考えをシャットアウトすることなく、貪欲に吸収して行きたい。
最後に、今回の例会に限らず、静動、目的、学びあふれるプログラムを用意してくださる岡山政経塾、細かい段取りをしてくださった事務局各位や西美さん、たくさん語り合い教え合った塾生各位、そして、たくさんの示唆とメッセージを届けてくださった福武幹事や石井さんにたくさんの感謝を持ちつつ、筆を置きたいと思います。ありがとうございました。
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