2011年 直島特別例会

 
◆佐藤 修一(岡山政経塾 十期生)
岡山政経塾  直島特別例会レポート
  『島々(直島、犬島、豊島)にみる未来の日本への光』



個人の利益、自己欲求を満たす社会に変わり、お年寄りの笑顔も子供の笑顔も失われつつある日本社会。直島にある数々のアート、そのアートと一体となった島、島民の方々の笑顔を見た時、この島には現代社会に欠落している「本物の幸せ」を感じた。この直島は人間社会の本来のあるべき姿である。

南寺、暗闇の中歩くために頼りになるのは壁を触る手、そして聞こえてくる声のみである。普段当たり前の感覚が失われ不安一杯になる。案内の方の言われる通り座り、落ち着き、その環境に慣れてくると何かが見えてきた。
白いスクリーンである。でも実際は近寄ってみると、それはスクリーンではなく白い空間であった。地中美術館、ジェームズ・タレルの「オープンフィールド」も同じく青いスクリーンの中に入れるとは誰も思わないであろう。環境が変化し、目の前に見えているものには対応はしているが、でも実際は本質が見えていないと私たちに語りかけているように感じた。

ミュージアム「バンザイ・コーナー1996」正義の味方であるウルトラマンが同じ方向に向きバンザイをしている。国家はビジョンを掲げ、そのビジョンに国民は賛同し一体となる。それが国家の喜びであり、国民の喜びに繋がる。ビジョンのない今の日本、国民も目的を見失い、どこに向かっているのだろうか? 直島にあり日本にないものをこのアートからも感じ考えさせられる。

犬島、精錬所を活かし、夏は涼しく、冬は暖かい。光に向かいどこまで歩いても振り向けば太陽が存在するアートからも便利さを追及し、自然を壊し、そして原発に頼る現代社会に、地球にとって絶対的な存在である太陽が異議を訴えかけているように感じる。小説家である三島由紀夫も同じく私たちに訴えかけている。このままではいけない。光の向こうに見える、手を振る人達は未来の子供たちを意味しているのであろう。

豊島美術館や豊島の景色からは想像もつかない産廃問題。政治の愚かさ、怒りを感じました。政治の責任を政治家ではなく、結局は国民に押し付けている。多くの政治家が自分の欲望、身の保身を最優先させ、責任をとらない。そんな政治を変えたいとは思うが、変えられるとは思わない。

だからこそ福武幹事は政治ではない視点からこの日本を変えていくため、都市化の進んでいない島々から変えているのであろう。この豊島は悪質な事業者が利益の為に自然と島民の笑顔を奪った。受け継がれる子供たちの未来をも。それを政治が許したのだ。業者との癒着があったことを想像してしまうのは私だけだろうか?
形は違えど日本では同じような事がたくさん起きている。
しかし豊島は島民が一致団結し行動し、政治家に責任を追及はできなかったが行政に責任を追及し、子供たちの未来を守ることができた。私はそれだけで十分だと感じる。だって私たち日本人は子供たちの未来を守る為に日本人全員が一致団結し行動しているだろうか?

都市化により、高齢化、核家族化が進み、家族の在り方が変わり、幸せの価値観を勘違いし、生きる希望や志が欠落した日本、先行き暗い日本、しかしこの島々から、「光」が見えた。

現代アートを体感した2日間、想像を超えたものでした。島民の方々がアートを通して同じ方向を向き一体となっている。そして心からの笑顔が溢れている。私はこれこそ現代に欠けているものだと考える。福武幹事は、日本はこのままではいけないと異議を唱えながら本来のあるべき姿、いや新しい国を造ったのだ。

でも私は直島に移り住むことは不可能である。直島に欠けているものがあるのか?そうではない。便利な環境に麻痺してしまっているからだ。便利が当たり前、全てがあって当たり前。この当たり前の世の中、進化という名の心の退化がある限り人間社会は変わらないのかもしれない。

今回解らない作品、今回体感できなかった作品。メッセージが伝わってきた作品。どの作品とも再度島々に行き、体感したい。そしてたくさんの方にもこのアートから何かを感じてほしい。政治を変えることも大事ではあるが、国民一人ひとりがこのアートを体感し、意識を変えること、これこそ日本を変える第一歩である。