2011年 直島特別例会

 
◆中川 真寿男(岡山政経塾 十期生)
岡山政経塾  直島・犬島・豊島特別レポート
  『現代美術と歴史』



●直島
 私は、地中美術館がオープンした2004年に、岡山大学の留学生たちと直島を訪れ、家プロジェクト、ベネッセハウス、地中美術館等を見学したことを思い出しました。現代美術をどう見るかは見る人の自由だと思いますが、変わった作品がたくさんあったな、光を使ったマジックみたいな屋敷や神社の下に石室があったりと不思議な印象がありました。留学生に感想を求めると「ワンダフル」と賞賛する人がいたり、じっと作品に見入っていたり様々だったような気がします。
 今回7年ぶりに直島を訪れることになり、いくらか直島についての本を読みました。福武幹事の直島のまちづくりにかける思い、美術館などを設計した安藤忠雄さんの話、現代美術についての解説等を見ました。

 家プロジェクトは、福武幹事の「在るものを活かし、無いものを作る」という考えのもと、古い民家を改修・改築しながら空間そのものを作品化していた。その中で特に印象に残ったのが、千住博氏の「ザ・フォールズ」です。築100年を超える石橋邸の母屋と倉を改修したプロジェクトとの1つであり、滝を描いた幅15メートルに及ぶ大作が蔵の中に配置され、床には漆塗りの板が敷かれ、滝をぼんやり映し出し、自分自身が吸い込まれるような不思議な感覚に陥りました。
 地中美術館は、島の景観に配慮して建物の大半を地下に埋設して、内部には自然光が注ぎ、柔らかい光のもとでモネの「睡蓮」を観賞しました。倉敷の大原美術館のモネを見たことがあるが、たくさんの名画の中の1つにモネの作品があったが、ここの配置はそれとは異なり、5点のモネが連続して並んでおり、穏やかな自然光のもとで、ゆっくりモネの睡蓮と対峙することができました。また、光を見せるジェームズ・タレルの作品、ウオルター・デ・マリアの不思議な空間には驚かされましたが、何を言わんとしているかは不明でした。
 後日、福武幹事の話を聞く機会があり、直島は老人がたくさんいる、その老人たちの笑顔があふれるコミュニティづくり、この世の極楽を直島で考えていると話されました。昔ながらの直島の暮らし、生活習慣、家並みと現代美術。合わない、似合わない取り合わせのように思っていましたが、都会の人どころか外国の人も大勢訪れ、交流が生まれ、町が変わっているように感じました。現代美術が地域を変える大きな力を持っている、まちづくりに貢献していると思いました。


●北川フラムさんの講演
 北川さんは「瀬戸内国際芸術祭2010」の総合ディレクターを務められ、芸術祭に携わっての感想や東日本大震災のことなどの話をしていただきました。昨年行った芸術祭は93万人の来訪者を集め、瀬戸内の島を元気にし、今後の展望を考える上で大きなヒントになったのではないかと思っていると話していた。そのなかで、サポーターを「こえび隊」として官民共同の仕組みを作り、それが有効に働いたこと、また、芸術、文化による地域づくりのモデルとして世界的なネットワークを確立していきたいことなど述べられ、3年先にまた行い、瀬戸内海を生かし、島々の地域活性化を考えていきたい、と思いを語ってくれました。
 芸術際は、昨年マスコミにもたびたび取り上げられ大変な賑わいで、島が活性化したと思っているが、祭りが終わった後それをどう持続していくのか大変なことだと思っている。瀬戸内海の魅力をどうアピールし、個々の島の暮らし、コミュニティをどう生かし、発展させていくのか、今の私にははっきりとはわからないが、祭りを通して、芸術を通して見えてくるものがありそうな気がしました。


●犬島
 犬島の「精錬所」は、犬島に残る銅製錬所の遺構を保存・再生した美術館で、既存の煙突やカラミ煉瓦、太陽や地熱などの自然エネルギーを利用した環境に不可を与えない三分一博志の建築とのこと。自然の風を利用して、エアコン並の涼しい風を取り入れ、外は暑くても、中にいればほんのりと涼風が漂い居心地がいい空間であった。三島由紀夫をモチーフにした作品もあり、「遺産、建築、アート、環境」による新たな地域創造のモデルを目指しており、循環型社会を意識したプロジェクトといえる。
 私が興味を持ったのは、ここの精錬所の銅は、帯江鉱山から運ばれたとのこと。帯江鉱山の一部は、早島町にかかっており、私も小さい頃この鉱山跡で友達と遊んだ記憶がある。帰って早島町史を見ると、明治前半期に鉱山開発のブームがおき、狭い早島村内でも9つの鉱山開発があったことが記録されている。当時の帯江鉱山は、主に銅を産出しており、鉱石の溶解から高炉を利用して銅を精製していた。明治末の頃の写真にも、犬島で見たと同じような高炉が写っている。
 鉱山の影響は公害として現れた。帯江鉱山の生産が伸びるにつれて深刻な被害が発生し続け、村の行政を揺るがす事態になった。煙突からはき出される悪臭煙のために山ははげ山になり、田畑の農作物は枯死し、その煙害は人の健康に大きな影響を与え、公害問題になった。隣の中庄村では、これに対し反対運動が展開され、精錬所の移転を鉱山監督署に陳情している。このような中、帯江鉱山は明治42年に新しい精錬所を犬島へ建設し、鉱山の地元での精錬を廃止した。これにより、早島を含む周囲の人々は大気汚染から解放された、と記されている。
 逆に、犬島の人は新しい迷惑施設により公害問題に悩んだのではないか。そのことの説明はなかったが、残された煙突は、今はアートとして利用されているが、歴史の証人のような気がしてならない。本土のいらないもの、処理に困ったものを島に持ってきて捨てる、処理する。豊島の産廃処理にも同じようなことがおき、島の人々、環境問題に大きな傷跡を残し、今その処理に追われている。犬島はこれらの遺産を生かし、アートによるまちづくりに取り組んでおり、島の活性化に期待したい。


●豊島
 廃棄物対策豊島住民会議の方から説明を受ける。豊島は、文字通り豊かな自然と心を持った人々が暮らし、古来より稲作をはじめとした農業や酪農、漁業が盛んな「豊かな島」だったそうです。それが、昭和50年代に本土の産業廃棄物が不法投棄されゴミの島、毒の島といわれるようになり、4半世紀に及ぶ闘いの後公害調停に至った悲しい歴史をもっている。調停の後にも60万トンを超える有害産業廃棄物が残り、現在もその処理を行っているが処理が済むにはあと2年ぐらいはかかり、500億円にも及ぶ経費が必要とのこと。
 豊島問題は、犬島問題と軌を一にするところがあると思っている。本土のゴミ、厄介ものを目の届かないところへ持って行って投棄、廃棄し、その上行政が目をつむるどころか業者の味方をした結果であり、民主主義の根幹に係わる問題であり、大きなつけであり、私たちもその負の残骸である産廃を目の当たりにした。この産廃と闘った豊島の人々の苦労は如何ばかりのものだっただろう、埋立地は今後どうなるのだろうかと心が痛み、行政の責任の重さを痛感しました。
 豊島美術館は、豊島再生のシンボルとして誕生した美術館とのこと。棚田、瀬戸内海、周辺の風景を見ながら小道を回遊して、水滴型のドームに入ると、2つの開口部から風が吹き、空が見えていた。床から無数の水がわき出し、それが水滴になり流れ、だんだん大きな水たまりになっていった。この作品は、母親の胎内をも意味しているとのこと。なるほど、座ってじっとしていた時間はゆっくりと流れ、不思議に心が穏やかで、落ち着けていたように思う。30分の時間があっという間に過ぎ、時間が止まったような感覚であった。自分を見つめ直すには、最適な場所ではないかと思った。


●終わりに
 島を実際見て、体感し、現代美術を鑑賞し、島のおかれている状況が少しは理解でき、また犬島については縁があり歴史を勉強しました。私自身の今後の生き方や価値観を見つめなおす刺激のあった合宿になり、お世話いただいた小山事務局長、ずっと丁寧に説明をしていただいた6期の西美さんに感謝申し上げます。