2003年 直島特別例会

 
◆垰   裕則(岡山政経塾 二期生)

直島合宿レポート



 今回、直島で安藤忠雄氏と福武總一郎幹事、それに石井享県議のお話を聞く機会に恵まれた。福武氏から文化と経済についてのお話を聞く事ができ、石井氏から産業廃棄物についてのお話を聞く事ができた。この御二方のお話は、それぞれの御仕事と深く関係する事柄であった。講演テーマに、何故それを選んだのか納得し易いものであった。それに対して、建築の内容に触れていたとはいえ、安藤氏のお話の内容は「生きる力の低下」が主題であった。安藤氏は建築家である。一見した所、建築家と「生きる力」は、直接には関係しなさそうである。

 本レポートでは、安藤氏の講演を振り返りながら、安藤氏の中で建築と「生きる力」とが結びつく理由を考えたい。併せて、時代の第一線で御活躍中の御三方に共通するものを探りたい。なぜなら、偶然とはいえ、同じ場所でほぼ同じ時間に御講演頂いたという事は、そこに共通する「現代」というものの影を見る事ができると思うからである。



 まず、安藤氏の建築の特徴として、コンクリートの打ち放しやガラスの箱が挙げられる。これらの素材を扱う事から、安藤氏はモダニズム建築に大きな影響を受けた建築家と見なされている。辞書で「モダニズム」を引くと、「近代主義」とある。大雑把に言って、近代の一つの考え方として、合理的な思考によって非合理的な思考を打ち破るという考えがある。そして建築における「合理性」とは、一つには大都会のビル群に象徴される「機能性」の追及であろう。「機能的」であるかや「合理的」であるかという事の判断基準として、コスト(=お金)が使われてきた。言い換えれば、経済的合理性によって、その建物を建てるべきか否か、またはその建築物の私たちにとっての価値を判断してきた。平たく言えば、儲かる建物が良い建物だという事になる。

 だが一方で、安藤氏は建築を通じて、「場所の記憶の再生」を目指している。この姿勢が安藤氏の建築家としての仕事に特色をもたらしている。しかし「再生」できたとしても、「場所の記憶」は経済的合理性からみて大した価値を持たないだろう。これも平たく言えば、安藤氏が目指す建築物はその場所の過去を振り返るきっかけになる建物だという事になり、儲かるかどうかはあまり関係なくなる。
 私が面白いと思うのは、モダニズム建築に大きな影響を受けた安藤氏が、近代という価値とは馴染みそうにない、受け継がれる記憶というものを大切に考えている点である。

 或る場所に訪れて、その建物や場所に思いを馳せるかどうかというのは、感性の問題である。感性というのは、自分で考える事である。そして、この自分の頭で考えて行動するのが減った事を捉えて、「生きる力の低下」と言われているように思った。恐らく、その根底にあるのは、氏の「自分の幸せは自分で創る」という考えだろう。そしてその対極にあるのが、「人が良いと決めたもの(=高価なもの)をお金で買う」という行動だろう。そしてその行動や考え(金銭価値が高いもの=良いもの)は、画一化を促進する。安藤氏の中で、この画一化の促進と「生きる力の低下」は表裏一体をなす。

 このように感性は創造力の源である。そして安藤氏は建築について「そもそも建築とは既存の環境に<刺激>を与え、社会に新たな問題提起を行う、そんな行為であるはずだ」iと述べている。そうなると自分が社会に問題提起を提出する立場の安藤氏にとって、感性や自分で考える事は非常に重要な要素になる。だから建築家という仕事を通じて、「生きる力の低下」を痛切に感じられるのだろう。
 ところで先程も触れたが、経済効果のみに囚われない仕事をしてきた点で、安藤氏の仕事は面白い。そこには経済が全ての社会に対する批判がある。同時に「場所の記憶の再生」という形での、経済的合理主義に対する問題提起が、幅広い支持を受けている事が伺える。それは自分のアイデンティティーとしての場所を大切にしたいという人々の欲求である。
 そう考えると、福武氏や石井氏との共通点を見出すことができる。



 福武氏からは、文化について考える示唆を頂いた。文化というものは自分が感じて、価値をつけるものである。空欄の小切手を渡して、「好きな金額を書いていいから、この美術品が欲しい」と言った人がいたと聞いた。そこが面白い。私達は美しいものについて共感する事ができる一方、最も好きなものは異なる事が多い。そしてその違いは、福武氏が仰っていたように、美術品と向き合って自分で考えた結果として生じてくるものである。福武氏は、美術品等を通じて文化に触れる事が我々に欠けているものだと指摘されていた。それは同時に、その触れあいを通じて得られる「自分で感じ、考える」事が不足している事を意味する。これは安藤氏も述べられていた事である。

 また、石井氏の講演で私が特に感動したのは、それまでは平凡な人生を送ってきた豊島の人々が、自分の故郷という場所を良い形で残したいという一念で、大変な(それは「大変」という月並みな言葉では言い尽くせない)活動を続けた点である。豊島の人々の抗議活動・反対活動は、自前の出費が大変多く勝つ見込みも薄く、経済的に全く儲からない(むしろ大きく赤字の)活動だった。むしろ経済的に儲かるという事は、豊島の産廃不法投棄問題の要因である。それに「現在儲かればよい」という姿勢が、現在の産廃問題の表面化を避けている要因でもある。それは産廃の処分場が、本当の処分から程遠い実体であるというお話からも分かる。一方で、豊島を守るというお金にならない活動に多くの人々が参加したのは、自分の場所の良い記憶を守ろうとしたからである。



 以上の講演を通じて私が考えたのは、やはり経済の価値で支配される分野を限定する必要があるという点である。芸術であれ、街並みや故郷の風景であれ、更には倫理や福祉、哲学もそうだが、経済的に「儲からない」ものも多く存在する。しかしそれらも今までの歴史の中で、人類がその生活をより豊かなものにするために築き上げてきたものである。しかしこれらの価値の地位は、社会の中で低下している。手前味噌で恐縮だが、大学でも哲学や芸術を研究する分野に予算が重点配分されたなどという話は聞かない。それらは企業における評価と同様に、大学における評価も低い。この傾向は拍車がかかる一方である。しかし社会のあり方を選択しているのは、私達一人一人に他ならない。となると一番重要なのは、どのような社会に住みたいかを各人が考える事になる。「そんなのを考えるのは面倒だ」というなら、他人が価値を決定してくれる世界、即ち経済の価値が全ての社会に住むようになるだろう。このように経済の価値の支配する分野を限定する事は、私が今回の合宿で学んだ事であると同時に、実現にはどうしたら良いのかという、私にとって途方もない課題となった。まずは自分の頭で考える癖をつける訓練から始めようと思う。


 最後になりましたが、直島合宿という貴重な機会を提供して下さった、幹事並びに事務局の方々や講師の皆様、そして共に学べた塾生の方々にお礼を述べたいと思います。ありがとうございました。



補足

例会担当幹事をさせて頂いた経験から少し述べさせて頂きます。
まず松下政経塾生の皆さんにも名札を用意するべきでした。
合宿で全員集合する前に、何らかの形で松下政経塾と岡山政経塾の塾生の交流をしておければ最も良いと感じました。

1.参考文献『安藤忠雄建築展2003 再生−環境と建築』のなかの安藤氏の文章「風景の再生」より抜粋