2010年 直島特別例会

 
◆油田 洋行(岡山政経塾 八期生)
松下政経塾・日本青年会議所・岡山政経塾  直島合同合宿レポート
  『直島を再び訪れて得たもの』



1.はじめに
 今回で2回目の直島訪問でした。先日、小山事務局長から「同じ話を聞いても、聞く人のレベルによって受け取るものが違うし、自身のレベルによっても受け取るものは違う。去年、本間さんの話を聞いて受け取れなかったものも、今年レベルがあがった状態で同じ本間さんの話を聞いたら、もっと理解が深まる」と教えていただきました。これは直島例会にも云えることだと思います。去年、直島から受け取ったメッセージと今年、直島から受け取るメッセージ、自分が成長できているのか、変われているのか確認することは私の目的の一つでした。
 さて、今回の直島例会は松下政経塾と日本JCの方々との合同合宿でもありました。松下特別例会も同時に開催されているようなもので、松下幸之助について研究していた私は、松下のみなさんにはいろいろと聞きたいこともあったので、この機会に聞いてみたかったことを質問してみようと考えていました。これも今回の目的の一つです。というのも、去年、私は松下特別例会で松下政経塾を訪問したのですが、その目的である「松下幸之助の理念を学ぶ」ことができなかったからです。「素直」、「志」、「元気」などなどキーワードとなる言葉はあったのですが、松下幸之助の理念とはどうしても思えなかったのです。そこから松下幸之助の研究を始めるに至りました。
 ところで、直島例会の本当の目的とは「見る・聞く・体感する。考える力を身につける。発想の転換をする」です。私は去年の直島例会でもやり残したことがあります。それは「考える力を身につける、発想の転換をする」ということです。去年の直島例会では「見る・聞く・体感する」ことで精一杯でしたので、去年の直島例会以降、自分への課題として考えることをいろいろと続けてきました。政治理念、霧島市マニフェスト、選挙など、上記の松下幸之助研究もその一つです。今回、直島例会に参加することによって。加えて考え続けた結果。一つの結論がでましたので、このレポートではそのことを書こうと思います。


2.松下幸之助氏の考え方
 松下幸之助が松下政経塾に託した理念とはなんだったのか?去年、松下政経塾を訪問し、それが見つからなかった私は、松下幸之助についていろいろと調べ始めました。その方法としては、松下幸之助自身が書いた著作物、松下政経塾HPなどに拠るところが多いのですが、まずは松下幸之助の人生について軽く振りかえりたいと思います。松下幸之助は1894年(明治27年)に和歌山県に生まれました。そして、その人生の中で3つの事業を興しています。それは1918年23歳での「松下電器」創業、1946年51歳での「PHP運動」開始、1979年84歳での「松下政経塾」設立の3つです。

2-1.松下電器創業
 8人兄弟の3男で末っ子だった幸之助は、小学校を4年生でやめ、わずか9歳で大阪へと丁稚奉公に出て、火鉢店や自転車店で奉公した後、23歳で松下電器を創業しています。そこから、ヒット商品の開発や、区議会議員当選、世界恐慌など紆余曲折を経て、37歳のときに天理教本部を訪れた際に「水道哲学」という産業人の使命を悟ります。そこから順調に事業を拡大させますが、初めての打撃が第二次世界大戦です。戦時中、幸之助は海軍の依頼で木造船や木造飛行機の生産に乗り出していました。それが仇となり敗戦後50歳のときに、GHQより「財閥家族」、「公職追放」などの指定を受け一切の経済活動を禁止されます。その失意のときに始めたのがPHP運動です。

2-2.PHP運動開始
 幸之助が51歳のときPHP研究所を創設します。「PHP」とは「Peace and Happiness through Prosperity (繁栄によって平和と幸福を)」の略です。幸之助がなぜPHP研究所を創ろうとしたかは、敗戦のなか幸之助含めみんなが貧乏しているのをみて、これはおかしい、と思ったところから始まっています。加えて幸之助には、いくら商売で儲けても政治がコケれば社会全体が悪くなる、というような戦争を始めた政治への強い不信感もあったようです。それが、PHP運動という啓蒙活動につながったそうです。以降、「人間を考える」、「新国土創成論」などを出版し啓蒙活動を続けますが、政治は幸之助の願う方向に進まず、松下政経塾設立へとなりました。

2-3.松下政経塾設立
 幸之助が84歳のとき松下政経塾を設立します。幸之助がなぜ松下政経塾を創ったのかはいろいろ云われます。「政界にも影響力を及ぼそうとした」、「金持ちの道楽」などなど批判的なものも目立ちますが、本当の理由は別のところにあったように思います。それは松下政経塾の塾是に表れているように思います。松下政経塾を創った理由、それは「本物の政治家を育てたい」だと思います。しかし、幸之助存命中にその夢は叶うことなく、政経塾とは別に進めていた新党構想も頓挫してしまいます。

2-4.松下幸之助の理念
 幸之助の死後、政経塾内では運営方針を巡って対立がありました。それは、「政治家を育てるべき」という意見と「分野を問わず国際的に通用する人物を育てるべき」という意見の対立でした。どちらの意見も最もですが、個人的に幸之助の著作物や政経塾の設立過程を見ると、幸之助は本物の政治家を育てたかったのであろうと思います。では、どのような政治家を育てたかったのか。真相は闇の中ですが、一つの答えとなりそうなものが、松下幸之助の新党構想を調べているときに見つかりました。
 (1)所得税一律5割減税の実施             (2)(財政立直しの為の)建設国債の発行
 (3)無税国家、収益分配国家の実現          (4)新国土創成事業の展開
 (5)政治の生産性の向上                 (6)日本的民主主義の確立
 (7)多様な人間教育の実施と教員養成機関の設立 (8)政治家及び官史の優遇
 (9)生きがいを高める社会の実現            (10)国際社会への真の寄与貢献
 以上は、幸之助新党の「当面の実現十目標」です。これを眺めていると(6)については、「人間を考える第2巻」で少し述べていますが、基本、後半5項目については、幸之助が直接言及している著作は少なく抽象的概念を提示しているだけです。ところが、前半5項目については、俄然、具体性を帯びてきて幸之助が折に触れ言及していたことです。例えば、無税国家論について云えば、入塾式訓話や一期生に対する一回目の講話などで触れています。国土創成論については、自身による「新国土創成論」という著作もあります。そしてこれらについて根底に流れる共通する考え方というのは、「経営感覚を国家経営に導入しろ」という一点に集約されます。たとえば、(1)については、国民(従業員)のやる気を削ぐな。(2)については、財政(貸借対照表)の健全化。(3)、(4)については、国家百年の大計(会社のビジョン)を示せ。(5)については、そのものずばり、少ない労力でできるだけ大きな国益、行政サービス(付加価値)を生み出せ、です。他にも幸之助新党の立党宣言の中には次のような個所があるそうです。「政治はすなわち国家の経営であります。よき経営は正しい経営理念のあるところに生まれます。したがって真のよき政治には正しい国家経営理念の存在が不可欠であると考えられます」。これらから察するに松下幸之助が追い求めた本物の政治家とは、経営感覚をもった政治家だと私は考えます。

2-5.経営感覚導入論
 「経営感覚導入論」というのは、私の造語でありますが、ようするに2-4で述べたような私が考える松下幸之助の理念のことであります。経営感覚を導入しろ、というのは平成の世に至ってはさして目新しいことではないと思います。例えば、事業仕訳なども役所の無駄削減であって、これは民間でいうところのコストカットにあたると思います。他にも、一昔前には、無駄な高速道路を造るな、という議論もありました。一見すれば、松下幸之助の唱えた「政治に経営感覚を」という願いは叶えられているように思います。ですが私はそのようには思いません。というのも、そもそも「経営」とは何なのか?という点を考えた場合、誰も「経営=コストカット」とは答えないと思うからです。つまり、現在の「政治に経営感覚を」といえば、それ即ち、「無駄削減(コストカット)」となっているように思うのです。私が思うに、松下幸之助が「政治に経営感覚を」と述べたのは「無駄削減だけをしろ」と述べたのではなく、「国民に夢や目標を持たせろ、その上で国益をとれ」というのが正確なところだろうと思います。前述の「当面の実現十目標」を見ても明らかで、「無税国家論」、「国土創成論」など国家百年の大計というべきものがあります。これが、「国民に夢や目標を持たせろ」の部分にあたります。では、「国益をとれ」とは何なのか。これは少ない労力、少ない予算でできるだけ大きな公共サービスを提供しろ、ということだと思います。例えば、前年に生活保護費が10億円かかったとして、今年9億で済んだのならば、1億円の国益を得たと考えるなど、いろいろな方法が考えられると思います。国益についてはまだ考えがまとまっていないので今後も考え続けたいと思います。

2-6.松下幸之助の人間観
 さて、完璧とは云えませんが、松下幸之助の目指すところは明らかになりました。では、そのために何を学べばよいのでしょうか?その答えも幸之助は政経塾で述べています。何を学ぶべきか。その答えは幸之助流にいうと「人間観」になります。福原市長のお話にもでてきたフレーズです。人間観とは「人間とはどのようなものか」ということです。その重要性を幸之助は常に強調していました。例えば、「人間というものを、徹底的に理解しなければならない」、「人間について熟知していなければなりません」、そして、「人間の本質を知れ」と云います。
 松下幸之助自身は人間の本質を著書である「人間を考える」で、「人間は万物の王者として、自然の理法にしたがいつつ、みずからと万物を生かし、そこに物心一如のかぎりない繁栄を生み出していくことができる、そういう偉大な存在であり、それが人間の天与の本質だ」(要約)と述べています。また、そのような人間の本質を発揮するためには、それに見合った人間の歩むべき道もあり、それを人間道と呼び、「その基本は、いっさいをあるがままに容認し、これを適切に処遇することだ」(要約)と述べています。
 つまりは、政治に経営感覚を導入するにせよ、各々の理想の政治を実現するにせよ、それには人間の本質を知り、それに見合った道を歩めということです。福原市長は「政経塾で今後学ぶべきことの目次を知った」とおっしゃっていましたが、確かに、幸之助の述べたことは3年みっちり学んだからといってどうにかなるものではありません。死ぬまで学び続ける覚悟が必要ですし、一切の全てのことから学べる感性が必要です。途方もない課題ですが、自分にできることを少しずつでも行い、少しでもいいので前進しようと私も思います。福原市長に負けないようにがんばろうと思いました(その前に何とか追い付かねばなりませんが)。私も今回福原市長のお話を聞いて何を学ぶべきかを改めて知りました。


3.福武總一郎氏の考え方
 福武總一郎氏については、著作物があるわけでもなく。まして何度も会えるわけでもないので、詳しく研究をしたというわけではありません。しかし、岡山政経塾のHPに福武幹事の講演を聴いての先輩方のレポートもありますし、去年の直島例会の福武氏の講演と直島という空間。そして今回の直島例会で直島文化村副社長の笠原良二氏から直島について体系的にお話を聴く機会もありましたので、それらを中心にして述べようと思います。

3-1.三宅親連氏と福武哲彦氏
 福武總一郎氏が始める「直島文化村構想」の前に、その前段階として二人の偉人がいたことから始めたいと思います。まず三宅親連氏とは元直島町長で現在の直島の基礎を造った人物とみて間違いないと思います。三宅氏は現在の政治家のように近視眼的政治家とは一線を画し、直島の長期的ビジョンを持っていた人物です。その構想は、直島を3つのエリア北・中央・南に分け、それぞれにテーマを持たせていたということです。北エリア(1/5)を工場エリアとし、中央エリアを生活・教育エリア、そして南エリア(1/6)を文化・リゾートエリアとする構想です。南エリアについてはさらに、「直島南部一帯を総合的に、清潔・健康・快適な観光地として開発したい」というコンセプトをもっていらっしゃいました。「総合的に開発したかった」。そのおかげで今、直島はベネッセ一社で開発がなされています。しかし、そのパートナーが見つかるまで10年の月日がかかったらしく、10年も待つとは大変な想いがあったのだと推察されます。
 福武哲彦氏は、「瀬戸内海の無人島に、世界中のこどもが集い楽しめるキャンプ場をつくりたい」という想いを持っていたそうです。それは、自分の事業が通信教育のため、こどもたちと直に接する機会がなかったために、そういう想いをもっていたそうです。そのような想いをもったお二人が直島町と岡山市にいて10年も巡りあわなかったのは神のいたずらのようにも感じます。しかも、二人の偉人が巡りあってすぐ、残念なことに福武哲彦氏はお亡くなりになってしまいます。

3-2.直島文化村構想からベネッセアートサイト直島へ
 哲彦氏の死後、直島も含め事業を継承した福武総一郎氏は「直島文化村構想」を立ち上げ、試行錯誤しながら直島の開発をしてきました。その歴史は重複も許して概ね4つの段階に分けられます。それは「子供たちのキャンプ場」、「ベネッセハウスと現代アート」、「地域創りと現代アート」、「深化」の4段階です。哲彦氏の子供たちのために、という想いから始まった直島文化村構想ですが、その根底には常に「在るものを活かし、ないものを創る」という明確なコンセプトが存在し、「自然」と「アート・建築」と「人」をコンテンツとして、よく生きるについて考える場所を創ることは一貫していたそうです。「ベネッセハウスと現代アート」の段階では、直島全体というよりも美術館の中だけで展開されていましたが、「地域創りと現代アート」の段階からは、舞台も美術館から直島全体に広がり、名称も「ベネッセアートサイト直島」と変わっていきました。その過程で島民も巻き込んだ活動となり、現在では海外からも観光客が訪れる島となっています。

3-3.「よく生きる」とは
 前回の直島例会では「在るものを活かし、ないものを創る」というメッセージが大変印象に残っており、他のことまであまり頭が回りませんでした。そしてその際に同期の榎波さんと「福武幹事のいうナイモノって何だろう」という疑問が話題となりました。当時は結局答えがでないままでしたが、今回、笠原さんのお話を聞いてその答えがでました。福武幹事は「よく生きるを考える場所」を創りたかったということです。確かに直島は現代アートを使って考えさせるポイントが島中にあります。過去の先輩方のレポートを読んでも「考えた」というフレーズが出てきます。では、直島を訪れる人に「よく生きる」を考えさせようとした福武幹事自身はどのような生き方をしているのでしょうか。その答えは去年の直島例会での福武幹事のお話にありました。去年の福武幹事のお話は「私の生き方形成プロセス」と題しており、先輩方によると、その内容は今までの講演とは一線を画す講演だったそうです。去年配られたレジュメの中央にはデカデカと「普通の人が自信をもって強く活き活きと生きるには」と書かれています。どうやら福武幹事の求めるところは「自信をもって強く活き活きと生きる」ことらしいです。そして、そのために「ブレない信念と成功する迄あきらめない情熱と執念」を持てと説きます。ブレない信念ができたら後は実行するのみで「コツコツと時間をかけて努力を積み重ねる」。そうすれば一番始めに戻り「自信をもって強く活き活きと生きる」ことができる。これをグルグル回るようにして生活のスタイルにするように云われました。要するに、毎日毎日自分の生活を、志を、精神を、見直してより質の高いものに高めていくということです。これから察するに、私は福武幹事自信の「よく生きる」とは「よく生きることを求め続ける」ことだと結論付けました。私も今一度「よく生きる」ということを考えてみようと思いました。

3-4.在るものを活かす
 「在るものを活かし、ないものを創る」。今回、直島を訪問して改めて、非常に奥の深い言葉だと思いました。まず「在るもの」とは何なのか。前回の私のレポートを読むと、それは「空き家から精錬所まで幅広い」と書いています。これは今でも変わりません。福原市長は益田市の良いものだけを取り上げ「在るもの」としていましたが、福武幹事のいう在るものとはそれだけではないと思います。一見してその役目を終えたものも在るものだと思います。例えば耕作放棄地などです。
 そして、今回新たにサイトスペシフィックワークの説明を聴いているときに考えたのが、「借景」という概念です。笠原さんの説明で「瀬戸内海だけの写真」と「そこにカボチャを置いた写真」を見たときに思ったのですが、私は今まで「カボチャ」だけを見て、あの作品を楽しんでいました。しかし、そうではなくあの作品は「カボチャ」と「その周りの空間」が合わさって一つの作品ということです。そう考えると、「在るもの」というのは「直島そのもの」とも云えます。私たちは今まで陸地からみてカボチャの作品を楽しんでいましたが、もしかしたら作者は海から直島を見てカボチャを置いたのかもしれません。現代アートなので、どちらが正しいとは云えませんが「在るもの」とは「直島そのもの」というのは新しい発見でした。

3-5.ないものを創る
 では「ないもの」とは何なのか。直島に限れば答えとしては「よく生きるを考える場所」でよいでしょう。でも、私は「よく生きるを考える場所」を創りたい、という発想自体に驚きました。私は地域振興や町づくりでこのようなことを考えている人を見たことも聞いたこともありません。大抵、「歴史上の偉人が何々をした場所」、「癒される場所」、「おいしいものが食べられる場所」だとかその程度です。「日本の中のアートとして直島を世界に紹介したい」という想いがあったからこそ「よく生きるを考える場所」という発想がでてきたのかもしれません。そして「考える場所」という発想があったからこそ答えのない「現代アート」と結びついたのかもしれません。「ないもの」については、もう少し考える必要があるのですが、「日本の中の○○…」という発想は忘れないようにしたいと思います。


4.提言〜地域財活用構想〜

4-1.松下幸之助の「人を生かす」と福武總一郎の「在るものを活かす」
 今まで長々と書いてきましたが、今回、直島を訪問しての一番の学びは、松下幸之助が「人を生かす」と云い、そして、我らがボスである福武幹事は「在るものを活かす」と云い、非常に似ていることを述べているな、と気付いたことです。松下幸之助も「人間を考える」の中で「…、みずから(人間)と万物を生かし…」と述べてはいますが、幸之助の人生の中では、専ら「人間を生かす」方に重点が置かれていたように思います。実際にいろいろな方が、松下幸之助は人を生かす天才だったと述べています。その幸之助が「モノを生かす」という視点で書いた著作と云えば「新国土創成論」ですが、その内容は、日本の国土の中の山林地帯を重機でならし、人が住める土地にしよう。余った土も埋め立てに使って人の住める土地にしよう、というような内容で田中角栄の「列島改造論」を思い起こさせる、高度成長期型の発想です。懇親会のときに福原市長や現役塾生の方にもいろいろと聞いてみたのですが、あまり深く考えてはいないようでした。
 では、福武幹事は「人を生かす」ということを考えていないのか、というとそうは思いませんが、幸之助の先を行っているとは余り思いません。しかし、直島の「在るもの活かし、…」というモノを活かすという点では、幸之助の先を行っているように感じます。ここでいう、先を行っているというのは、実現可能性を考えた場合のことです。

4-2.地域財活用構想
 「地域財活用構想」というのは私の造語であります。というのも、「在るものを活かし、…」というのは長すぎるので、この地域財活用構想という言葉を使って政治家として霧島市民に訴えていこうと考えました。参考にしたのは、「無税国家論」に対する「減税自治体構想」です。「国土創成論」に対して「地域財活用構想」というわけです。まだ完璧に頭の中で構想としてはできてはいないのですが、霧島市を例に少し説明すると、「地域財」というのは、霧島市に在るもの全てであります。もちろん、霧島市が誇るものは益田市のようにいろいろあります。霧島神宮だったり、霧島連山だったり、黒酢だったりももちろん在るものです。しかし、それだけでなく3-4で述べたように、一見してその役目を終えたものも在るものに含まれます。例えば耕作放棄地などです。すなわち、活用できそうにないものまでを含めて霧島市全体を「地域財」という言葉で表現しました。活用できそうにないものも含める、この点が福原市長と決定的に違う点です。
 そして、活用して何を創るかですが、これは福武幹事の云うような「よく生きるを考える場所」のように、今までにない普遍的なものを創る、ということを指してします。そのヒントは去年の福武幹事のお話の中にちょっとあるのですが、まだ考えきれていません。ただ、「不易流行」とか「人が軸」、「日本の中の○○…」というのがポイントになるのではないかと現時点では思っています。ちなみに福原市長の「一流の田舎まち」というのもちょっと違うように感じます。ちょっと抽象的すぎるような気がします。福武幹事の「よく生きるを考える場所」というのも抽象的ではありますが、「一流の田舎まち」よりは方向性がはっきりしている点で具体的に感じます。とにかく、もう少し「在るものを活かし、ないものを創る」という言葉の深堀が今後の課題です。


5.謝辞
 今回の直島例会は大変ためになりました。松下幸之助と福武總一郎が結びつくとは思ってもなかったからです。このような機会を提供して下さった、小山事務局長を始め、岡山政経塾関係者、ならびに松下政経塾、日本JC、ベネッセの方々、そして直島の皆さん本当にお世話になりました。ありがとうございました。


6.参考文献
 ・『人間を考える』 松下幸之助 PHP文庫
 ・『人間を考える 第二巻』 松下幸之助 PHP
 ・『新国土創成論』 松下幸之助 PHP
 ・『リーダーを志す君へ』 松下幸之助 PHP文庫
 ・『君に志はあるか』 松下幸之助 PHP文庫
 ・『松下政経塾とは何か』 出井康博 新潮社