岡山政経塾 チーム21

 

◆◆医療・福祉分科会◆◆


2.歴史(過去) 岡山の医療・福祉の今日に至る歴史

       8期生 山中 玲子     

はじめに

 江戸時代以降、岡山は医療・福祉の先進地といわれる。現在でも、岡山は全国でも有数の医療先進県である。県内に岡山大学、川崎医科大学の2つの特定機能病院、医科大学を有し、高度先進医療の提供、新たな治療法の開発、人材育成などを行っている。そして、大規模な福祉施設旭川荘があり、障害者などの治療やケアを行うとともに、川崎医療福祉大学と連携し多くのコメディカルスタッフを輩出している。また、住民の草の根的な活動として地域の子どもたちや老人の健康を支援する愛育委員は歴史も古く、全国的に評価が高い。さらに岡山には、多国籍医師団を擁する国際医療ボランティアの草分けAMDAの本部がある。岡山のこのような現状は、どのような歴史の上に形作られているのであろうか。
 この章では、岡山における医療・福祉の今日に至る歴史について、人物や出来事に焦点をあて、振り返ってみる。また、何か物事を成していくためには、その土台となる理念や人々の想いが重要であることはいうまでもない。岡山の人々のどのような想いが、このような歴史を創り上げていったのか、岡山の人的土壌についても想いを巡らせてみたい。




1  江戸時代:岡山ゆかりの人々
 
 江戸時代に活躍した岡山にゆかりある医師には、万代常閑、緒方洪庵、楠本イネなどがいる。

1) 万代常閑
 11代万代常閑(1675〜1712年)は備前岡山の藩医であり、「越中売薬の祖」として知られる。万代常閑は、地元岡山よりも富山で有名である。
 室町時代、泉州堺浦に住む初代万代掃部助(もずかもんのすけ)は、堺浦の海岸に流れ着いた異国商船の船員を手厚く介抱し、そのお礼に「妙薬 延寿反魂丹(はんごんたん)」の製法を伝授され、一子相伝で引き継がれることとなった。3代万代主計(かずえ)(1394〜1427年)は、備前国和気郡益原村に移り住み、常閑と改名、家名を「もず」から「まんだい」に改め、家伝の「妙薬 延寿返魂丹」を以て、代々備前の地で医業を職となすようになった。江戸時代初期、8代万代常閑は岡山城主に召され、場内で「反魂胆」を調合するなどしていた。11代常閑は、長崎に旅をした折、腹痛で苦しむ懇意になった富山藩士を「反魂胆」で救った。その富山藩士は「反魂胆」の製法を学び、自ら製作し使用していた。富山藩主が腹痛で苦しんだとき、それがよく効いたため、富山藩主は備前岡山の万代常閑を招き、富山の松井屋源右衛門に製法を伝授することになった。その後、松井屋源右衛門は「反魂丹」の製造に成功、富山藩主から他領商売勝手の許しがでた事によって八重崎屋源六が売薬商売を始めた。これが、富山城下の町人による、売薬の始まりといわれる。そして、全国津々浦々、各家庭に富山の置き薬が常備されるようになった。家庭の常備薬は、医師がいないときでも、病に苦しむ多くの人々を救ったのではないだろうか。
 苦しんでいる人に奉仕しようという万代家の人々が、一子相伝の薬を伝え、江戸時代、家庭の常備薬の基礎を築いた。岡山ゆかりの医師の想いが、江戸時代の人々の身近な存在として人々を苦痛から救っていたといえる。
 

2) 緒方洪庵
 緒方洪庵(1810〜1863年)の業績は数多くあるが、中でも教育者として適塾を開き福沢諭吉など明治時代の偉人を育てたこと、医学者として数々の西洋医学の医学書を日本語に翻訳し著したこと、医師として天然痘撲滅のための活動を広く行ったことなどが挙げられる。
 緒方洪庵は、1810年に備中足守藩の武士の家に生まれた。父の仕事の転勤に伴い、大阪で文武の修行に励んだが、生来病弱であったために医学の道を志し、「思々斎塾」で西洋医学と窮理学(物理学)を学んだ。
 1838年大阪瓦町に適塾(正式には適々斎塾)を開いた。適塾の特徴は、学級分けし、勉強の習熟具合によって進級させるなど、組織的な教育したことである。5〜6日毎に進級試験が行われ、現代の進学塾のような仕組みを採用していた。吉田松陰の松下村塾が思想教育の塾とするなら、適塾は語学教育・実技教育の塾であった。適塾は、福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内らを輩出し、現在の大阪大学や慶應義塾大学の源流の1つとなった。
 緒方洪庵は、数々の名著を日本語に翻訳して著した。代表作は、「病学通論」、「扶氏経験遺訓」、「虎狼痢治準」の3つである。「病学通論」は、現在の「病理学総論」にあたる。わが国最初の病理学書であり、歴史的に大きな意味を持つ。「扶氏経験遺訓」は、最大の代表作と言われている。原書である「Enchiridion Medicum」は、当時のドイツ内科学の大権威ベルリン大学教授のフーフェランドが自身の長年の経験をまとめあげたもので、日本の蘭学者たちに大変な評判で洪庵自身もこの本に非常に感銘を受けた。「虎狼痢治準」は、当時、コレラについて書かれた3つの書物を洪庵が訳しまとめたもので、洪庵の経験則を交えながら症状や治療法が詳しく解説されていた。「虎狼痢治準」は、多くの医者にとってはコレラの治療指針ともいえるものであり、社会への貢献度は高かった。
 種痘事業は、洪庵の医師として最も評価される偉業であり、洪庵自身が長年に渡り最も力を尽くした。種痘とは、天然痘の予防接種のことである。日本では、洪庵らの地道な活動と努力により、安政5年、全国に先駆けて大阪除痘館に官許がおりた。これにより、種痘事業は政府(幕府)に公認され、種痘が金儲けの手段にされるなど悪用されることが実質的に規制された。


3) 楠本イネ
 日本で最初の女医の一人とされる「楠本イネ」は1845年から1851年の6年間、岡山の地で産科医術を修めた。
 現在、岡山市北区表町には「オランダ通り」という商店街がある。商店街振興組合のホームページには、「オランダ通りは1845年、日本の女医1号のシーボルトの娘楠本イネが医者修業を始めた場所です。オランダ通りの名前も地域通貨(おいね)もこれにちなんでネーミングされました。現在では、おしゃれなファッション店や飲食店が軒を並べ、人の流れもできつつあります。」とある。イネは、今でも岡山の人々に愛され、地域活性化に一役かっている。
 楠本イネは、ドイツ人医師・博物学者シーボルトの娘である。東洋研究を志したシーボルトは、1823年オランダ商館の医師として長崎出島に上陸した。シーボルトは医師であるとともに、日本を研究する使命をおびていた。日本研究の範囲は、宗教・風俗、法律・政治・農業・地理・芸術・薬草など人文および自然科学のすべてを網羅していた。やがて、シーボルトのもとには、日本各地から医師や蘭学者たちが教えを請うために集まった。1824年に、長崎藩の許可を得て出島外に鳴滝塾を開き、病人の診察手術を行うとともに、彼を慕ってきた医師たちに生理学・薬物学・臨床医学などの講義を行った。
 1827年、イネはシーボルトと日本人楠本お滝の子として長崎に生まれた。1829年シーボルトが国外追放となり、イネの養育はシーボルトの門人二宮敬作に託された。1840年イネは敬作の郷里伊予宇和島藩卯之町でオランダ語と西洋医学の修行を始めた。1845年イネは19歳となり敬作のもとを離れ、岡山下ノ町で開業していた石井宗謙のもと産科修行をした。1852年、イネは石井家との間に不和が生じたため長崎に去り、長崎で石井宗謙との娘たかを生んだ。
 1854年、イネは敬作によって再び卯之町に招かれ、その地で開業した。その頃、緒方洪庵の適塾で学んだ長州藩の医者村田蔵六(後の大村益次郎)が長州(現山口県)を逃れて宇和島藩に滞在しており、イネは彼から蘭語を学んだ。
 1871年、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリッヒ)の支援で、西洋医学によるわが国最初の女性産婦人科医として東京築地に開業した。1873年、福沢諭吉の推挙で、宮内省御用掛(宮内省などの命を受けて用務を担当する職)に任用され、明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会うなど、その医学技術は高く評価された。
 1875年に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったため、医院を閉鎖した。1884年、医術開業試験の門戸が女性にも開かれたが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、以後は産婆として開業した。
 イネは、生涯の中で父シーボルトの鳴滝塾の弟子だけでなく、緒方洪庵の適塾門下生であった福沢諭吉や大村益次郎の力添えを受けている。岡山という地縁が1つの鍵になったのかもしれない。




2  岡山大学 
 
 岡山大学は、現在では日本有数の総合大学だが、元々は医学部から始まった。医学部は、今年で創立140周年を迎えた。
 1870年、岡山大学医学部の源流となる岡山医学館が誕生した。1871年、廃藩置県で岡山藩医学館は岡山県医学所となったが、規模や予算はひどく縮小され、多くの医師たちが去って行った。1872年、県費の支給は廃止となり、病院の維持運営が極めて困難となった。残された10数名の医師達が遠近を問わず診療に出かけ、得た金品を病院の維持につぎ込んだ。
 1873年、岡山県令(知事)は、病院医師の涙ぐましい努力と病院の窮状をみるにみかね、岡山県病院を設立し毎年病院に予算を支給した。岡山県病院となってからは、財政的に困ることはなかったが、地元の医師のみでは技術の向上や、近代医学を教えることは困難であった。病院医師たちは、県当局に対し外国人医師を病院に招くことを度々要請したが、なかなか適当な人を得ることができなかった。1875年県庁の一職員が米国人宣教医師と知り合い、権令が県病院の医学教師を依頼し、外国人医師が患者の治療や医学生に対する講義を行うようになった。1876年岡山県病院から岡山県公立病院と改称し、生徒の教育を行う方を医学教場と呼び、病院の附属とした。現在の大学附属病院とは全く逆の関係であった。
 1873年、岡山医学校が病院から独立し、初の生徒募集が行われた。この頃、東京大学医学部卒業生のみが、開業試験を受けることなく開業免状を交付されていたが、地方医学校卒業生は全て内務省の開業試験を受けなければならなかった。岡山県医学校は、その教官の陣容と県病院の内容が優れているということから、1882から卒業と同時に開業免状が交付された。1883年、岡山医学校は、甲種医学校の許可を得、西日本最大の医育機関となった。
 その後、幾多の変遷を経て、1922年、中四国唯一の医科大学・岡山医科大学となり、1949年創設の岡山大学の母胎となり、中四国最難関学部として今日に至っている。
 

2-1  秦佐八郎
  秦佐八郎(1873〜1938年)は島根県に生まれ、1891年から第三高等中学校医学部(現岡山大学医学部)で学んだ。ドイツ留学中にパウル・エールリヒ(1908年ノーベル生理学賞・医学賞受賞)と共に、世界で初めて梅毒の特効薬「サンバルサン(砒素化合物製剤606号)」を開発し、多くの患者を救ったことで知られている。「サルバルサン606号」は、ヒトの細胞には影響を及ぼさずに、原因菌のみを特異的に殺して治療する世界初の化学療法剤で人類に貢献してきた。
 

2-2  矢野恒太(やのつねた)
 矢野恒太は1866年岡山県に生まれ、第三高等中学校(現岡山大学医学部)で学んだ。「相互会社の産みの親」といわれている。現在の第一生命保険の創設者である。相互会社とは、保険加入希望者が出資し合って団体を構成し、その団体が保険者となって構成員のために行う保険をいう。加入者相互が保険する、相互扶助の精神を基本とする。 
 矢野恒太は、保険業界のみならず統計、公衆衛生、社会教育など各方面に功績を残し、『金利精覧』、『ポケット論語』ほか多くの著作でも知られている。
 
 その他、この後の章で述べる石井十次、旭川荘や川崎医科大学を創設した川崎祐宣、県知事として数々の業績を残しマグサイサイ賞を受賞した三木行治なども、岡山大学医学部で学んでいる。
 歴史を振り返ってみると、岡山藩医学館は数多くの優秀な医師を輩出してきたが、廃藩置県の時に廃止されていてもおかしくなかった。しかし、現場の医師の踏ん張りと行政の協力、また地元の人々の支えがあったために、今日の繁栄があると考えられる。




3  日本の社会福祉の先駆者「岡山四聖人」
 
 岡山には、「岡山四聖人」と呼ばれる日本の社会福祉の先駆者が存在する。それは、石井十次、留岡幸助、山室軍平、アリス・ペティ・アダムスの4人である。石井十次(1865〜1914年)、留岡幸助(1864〜1934年)、山室軍平(1872〜1940年)はいずれも同志社大学創設者新島襄の薫陶を得た岡山県が生んだ明治のキリスト教社会事業の先駆者であり、3人はかたい友情で結ばれていた。また、アリス・ペティ・アダムスは、アメリカ人宣教師であり、石井十次と同時期に岡山で貧民救済に尽力した。県外出身の石井とアダムスは、岡山市内で事業に取り組み、高梁市出身の留岡と新見市出身の山室は県外に活動の舞台を求めた。彼らは、互いを意識し、自らの信念の下に事業に身を捧げた。
 

3-1  石井十次
 石井十次は、日本で最初に孤児院を創設し、「児童福祉の父」と呼ばれている。
 l865年、石井十次は宮崎県高鍋町に生まれた。1881年に結婚し、宮崎で小学校教師、警察署の書記として勤めた。この頃、高鍋出身の医師荻原百々平(おぎはらどどへい)と出会った。荻原医師は熱心なクリスチャンであり、この出会いが石井十次の生涯に大きな影響を及ぼした。1882年、荻原医師の感化で人を助けるために医師になることを志し、岡山県甲種医学校に入学した。1884年岡山から帰省中の船中で新島襄の同志社大学設立書を読み感激し、教育がいかに重大なものか悟った。
 1887年卒業試験に失敗し、岡山の上阿知診療所で医師としての実習を兼ねて代診をしていた。このとき、四国巡礼途中に夫に先立たれ途方にくれる母子に出会い、その長男を預かり育てる決心をした。その後、岡山市三友寺を借り、日本孤児教育会をはじめた。次第に、医学修行との両立が困難になった。悩んだ末、「医者になる者は他にもいるが、孤児を救おうとする者は誰一人いない。自分の一生は、孤児救済に捧げよう。」と、6年間学んだ医学書を焼き払い、孤児救済運動に専念することを決意した。石井十次は、最初から孤児救済施設を「教育院にして養育院にあらず」と述べている。食べさせるだけではなく、労働を通じて教育をすることが大切であるとの信念のもと、以降3,000人以上の孤児救済に生涯を捧げた。
 石井十次と友情で結ばれ支援した人々の中に、倉敷の実業家大原孫三郎と画家児島虎二郎がいる。多額の借金をつくり大学を中退し倉敷で謹慎していた大原は、石井の講演を聞いて感銘を受け、それまでの放蕩癖を改め、石井の事業を全面的に支え、最大の支援者となった。石井は、大原との友情について、「君と僕とは炭素と酸素、会えば何時でも焔(ほのお)となる」表現した。児島は大原家の奨学生となって絵画を学び、大原の紹介で岡山孤児院に泊り込んで「情けの庭」を描いた。この絵が、東京府主催の美術展で一等賞となり、皇后陛下のお買い上げとなった。石井十次は、児島虎次郎の実直な人柄に惚れこみ、長女・石井友子を児島の嫁にした。大原孫三郎夫妻を媒酌人に結婚式がとり行われた。翌年、友子の男児出産の電報が届いた日に石井十次は死去した。
 石井十次の偉業は、地元実業家の支えもあって発展していった。
 

3-2  留岡幸助
 留岡幸助は、「感化事業の父」と称される。感化事業とは、非行の性癖のある少年少女を保護・教育してその矯正を図る事業のことである。
 1864年、備中松山藩の商人の家に生まれた。生まれてすぐに米小売商留岡家の養子になった。幼い頃、武士の子とけんかをして理不尽な仕打ちを受け、このことを一生忘れなかった。ある時、高梁で行われたキリスト教宣教師の講演で「武士も農民も商人も、神の前では皆同じで、平等である」と聞き感銘を受け高梁で洗礼を受けた。
 地元の人々の支援を受けて同志社大学に進学し、様々な人脈と知識を得、経験を積み重ねた。卒後、結婚し京都丹波地方で宣教師として人々を導いていた。この頃から、家庭教育論を強く訴えた。その後、教誨師して北海道に赴任することになった。教誨師とは、「刑務所などの矯正施設において、収容者や受刑者の徳性の育成や精神的救済を目的として行われる教誨に従事する者のこと」である。刑務所の悲惨な状態を目の当たりにし、日本の刑務所の改善の必要性を痛感した。そして、アメリカへ留学し、監獄制度や感化事業を学んだ。特に、感化事業に関心をもち、日本でも同様の施設を創設するために奔走した。東京巣鴨や北海道に家庭学校を設立した。北海道の「家庭学校」は日本最初の児童自立支援施設であり、日本の福祉の原点の一つともいえる。北海道家庭学校周辺の地域は、留岡幸助の業績を称え1961年に「留岡」となった。
 留岡幸助は、備中松山藩出身である。備中聖人山田方谷の影響を受けている。松山藩では、山田方谷のおかげで、武士だけでなく商人や農民の子も教育を受けることができた。山田方谷の教えの一つに「至誠惻怛(しせいそくだつ)」(福祉と奉仕の理念)がある。留岡幸助が高梁の地に生まれてきたことが、偉業の始まりかもしれない。
 

3-3  山室軍平
 山室軍平は、日本人初の救世軍士官で初代日本軍司令官である。救世軍(Salvation Army)とは、現在世界120の国と地域で伝道事業、社会福祉事業、教育事業、医療事業を推進するキリスト教(プロテスタント)の教派団体である。軍隊を模した組織をとる点が最大の特徴である。
 山室軍平は、1872年岡山県阿哲郡哲多町(新見市)に生まれた。家が貧しかったため少年時代に養子に出された。上京して働いていたときにキリスト教に触れ、同志社大学に入学した。しかし、当時台頭してきた自由主義神学(リベラル)への反発もあり、同志社大学を中退した。そして、岡山に帰り、石井十次らと高梁教会などで伝道活動を行った。
 その後、石井十次の勧めで救世軍に参加し、日本人で始めての士官となった。後に東洋で最初の中将となり、日本軍国司令官となる。終生に渡り社会福祉事業、公娼廃止運動(廃娼運動)、純潔運動に身を捧げた。1924年に勲六等瑞宝章を受章。1937年には救世軍より「創立者賞」を受けた。
 

3-4  アリス・ペティ・アダムス
 アリス・ぺティ・アダムスは、アメリカ人女性宣教師であり、1891年岡山花畑地区の子どもたちとクリスマス会を持ち、日本学校を開始した。これが、日本最初のセツルメントであるとされている。セツルメントとは、「貧しい人が多く住む区域に定住し、住民と親しく触れ合ってその生活の向上に努める社会運動。また、そのための宿泊所・授産所・託児所などの設備。」のことである(岩波国語辞典第五版より抜粋)。(余談だが、日本初のセツルメントは、解釈によって、アリス・ぺティ・アダムスが花畑地区で行ったクリスマス会か、片山潜が東京に設立したキングスレー館か、どちらが先かという議論がある。片山潜は、岡山県久米南町生まれの労働運動家、社会主義者である。いずれにしても、日本初のセツルメントには、岡山ゆかりの人が関係している。) 
 アリス・ぺティ・アダムスは、1866年にアメリカニューハンプシャー州に生まれた。教師になるためボストンで勉強中に、市内のスラム街を見て救済事業に関心を持った。1891年24歳のときに、アメリカンボールド宣教師として来岡した。最初は宣教師として教会の仕事をしていたが、教育や健康に恵まれない子ども達が、将来の希望無く、重い障害さえ持つことになるのを捨て置かず、地域のなかに飛び込んだ。石井十次が孤児救済を行っていたと同時期に、すぐ近くで貧児救済を行った。
 アリス・ぺティ・アダムスは、藍綬褒章、勲六等瑞宝章なども受章し、伝記の刊行なども勧められたが、「そのお金があったら、運営費に使え」と固辞し、入るお金はすべて活動資金に回された。彼女の事業は、現在も「岡山博愛会」として受け継がれている。そして、博愛会の建物の前にある銅像は石井十次の像である。
 アリス・ぺティ・アダムスの従兄弟「ジェイムス・ペティ」は、1880年に岡山基督教会に派遣された宣教師4人の中の1人だった。彼は、石井十次が運営する岡山孤児院の有力支援者で、「院のおじいさん」と呼ばれるようになった人物である。アリス・ぺティ・アダムスは、この縁で来岡した。




おわりに
 
 この度、岡山の医療や福祉の歴史を調べさせていただいて、岡山という地の底力を感じた。岡山は、日本の医療の発展を牽引し、日本の福祉は岡山で夜明けを迎えた。それを支えたのは、岡山という土地に縁のある人々の想いからではなかったか。医師や宗教家のみではなく、事業家や行政担当者もその時代時代で協力しながら、現在に至る歴史を創りだしていった。
 現在岡山に住む我々は、この歴史を今一度学ぶことで、これから何をなすべきか、見えてくるのではないだろうか。




■参考資料
 
特定非営利法人(The association of Medical Doctor of Asia: AMDA) 
いちょう並木、No.58
中山沃、岡山の医学、岡山文庫42、H5、日本文京出版株式会社
オランダ通り商店街振興組合HP
吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』 上・下巻 新潮社 1993年
長崎女性史研究会『長崎の女たち』 長崎文献社 1991年
板沢武雄『シーボルト』 吉川弘文館 1960年
愛媛県史編さん委員会『愛媛県史 人物』 愛媛県 1989年
福井英俊『『鳴滝紀要』創刊号(1991年)別刷 
楠本・米山家資料にみる楠本いねの足跡 
シーボルト宅跡保存基金管理委員会 1994年