岡山政経塾 チーム21
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◆◆医療・福祉分科会◆◆
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3.多様性と先進性に富む岡山県の医療・福祉の現状(現在)
F) 岡山の医療福祉の源流 旭川荘
9期生 松田 浩明
社会福祉法人旭川荘は、岡山だけでなく日本が誇る医療と福祉を推進することを目的とした総合施設のパイオニアである。1957年に開荘され早い時期から国際的な視野を持って日本の社会状況を把握・先読みしながら発展し、現在では岡山県、愛媛県、中国上海市で展開する障害医療福祉、知的障害福祉、身体障害福祉、高齢者福祉、児童福祉、地域医療、相談支援、教育・研究・研修、国際交流の9分野にわたる施設数70余、入所・通所の利用者およそ3,000人、職員数2,000人の総合医療福祉施設となっている。
1. 戦後の社会福祉の流れと旭川荘の発展と実績
(ア) 戦後の混乱期(1945-1954年)
@ 福祉三法の成立
第二次世界大戦での敗北による荒廃状態での生活に困窮した人々を保護、救済する目的で社会体制の整備が進められた。日本国憲法制定後の1950年に憲法第25条の生存権理念「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に基づくことを謳った生活保護法が成立した。また戦災浮浪児や孤児に対する保護も課題とされたが、児童一般を対象とした児童の福祉を増進する必要性から1947年に児童福祉法が成立した。また当時、身体障害者の多くが退役傷痍軍人や戦災により障害を負った人々であったが、身体障害者の社会復帰を推進し、自助の精神を養うことを目的とした身体障害者福祉法が1949年に成立した。以上、福祉三法が成立すると、社会福祉事業を増進するための全分野共通の基本事項を規定する法律として社会福祉事業法が1951年に成立、公共性の高い社会福祉事業を経営する主体を国、地方公共団体、そして社会福祉法人に限定した。この法律により国は社会福祉法人を規定し、行政の監督、規制の下に社会福祉法人に対して公的補助を行いながら社会福祉事業を委託できるようになった。
A 旭川荘設立への思い
旭川荘創設者川ア祐宣氏は1904年鹿児島生まれ、岡山医科大学卒業の外科医であった。35歳で外科川崎病院を開業、日夜診療に励んでいた。福祉三法は成立していたが、1951年頃より、からだやこころに障害をもつ不幸な子どもや老人に接する機会が多く当時の社会事情からみて、「医者として私の力で何とかならないものか、治療だけでは救えない児童や高齢者を何とかしなければならない」という、やむにやまれぬ気持ちを抱くようになった。臨床家としての経験のうちに高齢者、障害者、乳幼児とその家族が充実した生活を送るためには医療と福祉が統合的に提供されることが必要であると確信したのであった。同じ医師で岡山医大の先輩であった岡山県知事三木行治氏に相談、岡山を代表する社会事業家の博愛会病院理事長更井良夫氏を紹介され、さらに岡山大学医学部を中心とする医の人脈も動き始め、1954年先駆的で創造的な総合社会福祉施設づくりという事業構想をまとめて山陽新聞に発表したのである。鹿児島出身である川ア氏は西郷隆盛の生き方に共鳴し、その指針であった「敬天愛人」−人間尊重の社会をめざす−を旭川荘設立の理念とした。また更井氏がまとめた社会福祉法人旭川荘設立趣意書には「公的社会福祉施設の欠陥を補うため私的社会福祉事業をさらに発展させる必要があるが、その基本的立場は昔流の慈善博愛の事業ではなく社会共同責任観念の自覚と発達に促されたところの、いわば公的性格を持った私的事業でなくてはならない。」「社会福祉事業は救貧事業ではなく社会全体のために行われるべきと考えるがゆえに、地域社会が要求する諸問題を鋭敏に感知しそれを認識し、社会的使命を自覚する立場から・・」「多方面の社会的協力を得て新しい総合的社会福祉事業を実現させんと開拓者的計画を夢見ている。」「未だ我国に其の類を見ざる総合的社会福祉事業を建設せんとするものである」と記されてある。つまり、公的扶助だけでは支援、補完できない社会の課題や要求に対処し、そして日本社会、国民全体のための福祉を実現するため、岡山という地域に根差した民間の総合医療福祉施設である旭川荘は、相互連携して計画的に効果的に科学的にそして開拓者精神に基づいて創設されたのである。さらに川ア氏は国際的に視野を広げるため、半年間欧米の先進的医療福祉施設を視察し、国際的視野に立って旭川荘の事業開設に備えた。
(イ) 高度経済成長期(1955-1973年)
@ 経済的豊かさと福祉社会を求めて
1955年頃から高度経済成長が始まり、毎年二桁の経済成長により所得水準は上昇、食糧事情や生活環境の改善をもたらし日本人の平均寿命は著しく向上した。第一次ベビーブームも手伝い人口は急速に増加し、産業構造の変化による労働力地域間移動に伴って均一で多数の核家族という血縁単位を生み出し、企業での終身雇用と年功序列を規範として社員は強い社縁意識のもと豊かさを実現するため懸命に働いた。核家族を基盤とする豊富な労働力によって均一で良質な物品が大量生産かつ消費され、安定成長期へとつがなる豊かな日本社会が形成されていった。
1950年代の当初は、医療保険未加入者が低所得者層を中心に3,000万人存在しており、この社会全体の貧困に対して1958年国民健康保険法が成立した。同じ時期、4,700万人が年金制度に加入しておらず1961年に国民年金法が施行され、これにより国民皆保険、皆年金体制が確立した。児童福祉法により知的障害者施設が法的に規定され知的障害児は公的施設に入所できるようになったが、18歳以上の知的障害者に対する法的援助施策として1960年に精神薄弱者福祉法(現知的障害者福祉法)が成立した。高齢者を生活困窮者の枠組みから外して高齢者単独に対する援助法として1963年に老人福祉法が成立した。戦争で配偶者を失った女性が子どもを育てていくための支援として母子年金、児童手当等の法整備が進んだが、経済成長期に入り経済的問題だけでなく児童の健全な育成も視野に入れた母子一体の対策が必要となり1964年母子福祉法(現母子及び寡婦福祉法)が成立した。これら三つの法律の制定により先に成立した福祉三法を合わせて福祉六法体制となった。そのほか医療保険の給付率の改善、年金水準や生活保護基準の引き上げ等、社会保障分野での制度の充実・給付改善が行われた。この時代の経済白書のテーマは経済成長に関するものから次第に福祉の向上や豊かさの挑戦という課題が挙げられるようになり、また国民生活白書のテーマも国民生活の経済的な分析による内容から豊かな人間社会や環境に関するものへと推移していった。一方1968年にGNP世界第二位となり社会が豊かになるに従って平均寿命は順調に長くなり、1970年には日本の高齢化率は7%を超え高齢化社会へと突入した。1973年、政府は「活力のある福祉社会の実現」を目的とした「経済社会基本計画」を策定し、同年を「福祉元年」と位置付け、老人医療費無料制度の創設(70歳以上の高齢者の自己負担無料化)、健康保険の被扶養者の給付率の引き上げなどの具体的施策を断行した。
A 旭川荘の開荘、基礎固め、拡充
構想発表から3年間の準備期間を経て1957年、肢体不自由児施設「旭川療育園」、知的障害児施設「旭川学園」、乳児施設「旭川乳児院」の3施設を開設して旭川荘は発足した。職員全員が福祉によせる情熱を持って、子どもたちと寝食を共にしながら未知なる分野の開拓に取り組んだ。保護者と強い絆を結び、地域との信頼を得ていった。
肢体不自由児施設「旭川療育園」
岡山県で最初の肢体不自由児施設として発足、先天的、後天的に肢体が不自由で日常動作に支障のある児童に適切な医療・訓練・職業指導・生活指導を行って将来、自活、社会参加できるようにするための施設としてスタートした。療育園は障害児対応とは別に開かれた病院として近隣住民の外来診療も行った。当初より施設内特殊学級が設置され、さらに父母の会が中心となって県に対して要望運動を行った結果、1961、1962年園内に県立養護学校小学部、中学部が開設、旭川荘と県立養護学校の連携によって障害児教育体制が確立した。1979年の養護学校義務制の開始に先立って入園児の実質的義務教育の実施であった。
知的障害児施設「旭川学園」
年長知的障害児を対象として発足、目的は「全人教育」を通して社会復帰を促すことであり、職業訓練を中心に療育を開始した。手探りの実践と、たゆまない研究の積み重ねでつかんだものが、即効を求める職業指導中心の道ではなく、もっと根本的な全人格にわたる「人間づくりを目指した生活学習」を中心にした療育体系を手作りしていくことであった。その全人教育の一環として「岡山―蒜山(140km)徒歩行進」(1962年)を実施した。参加者は児童34人と教職員の計45人が一体となって歩くことに全力で取り組んだ。仲間通しの助け合い、施設外での宿泊体験を通じての生きる力の養成や沿道各地の愛育委員会など地域の人々の歓迎、ボランティアに触れることによる社会の「愛」の体験など子どもたちの成長にとって計り知れない糧となったのである。就労による自立のための職業訓練だけではなく「生きる喜び」「助け合いの喜び」「本当の美しさ」など一見遠回りのように思える生活体験の積み重ねが自立への近道であることがわかってきた。
乳児施設「旭川乳児院」
満二歳までの乳児を対象にした養育施設として発足した。その目的は、保護者が病気などで保育環境に欠ける乳児を保護者に代わって健全育成することにあった。
経済成長を誇った昭和40年代には公害などの多発や社会福祉の立ち遅れが目立ち、「成長から福祉へ」の転換点が1973年の福祉元年であった。それに先駆けて1967年に父母、愛育委員、市民ボランティアの協力、運動、募金活動の「地域の愛」にささえられ重症心身障害児施設「旭川児童院」が誕生した。重症児施設に取り組むにあたり、旭川荘はその総合的な能力が問われた。
その総合力とは
1.精神性、敬天愛人の理念を深化させ一人ひとり生きる願いを助け、存在の尊厳を守ること、
2.医療と福祉の基盤の融合した一体経営、
3.時代の要請、地域のニーズに敏感に柔軟に応えていく、民間社会福祉施設としての変化への対応力、
4.信頼の絆、障害をもつ人々とその家族、そして県民、地域社会との信頼の絆であった。児童院には中四国一円から重症児が次々と入院、最初は重症児の生命を守る保護から療育技術の開発、研究業績などを通じて医療・看護、リハビリ、生活教育からなる独自の療育体系を確立した。また院内に重症児の特殊学級を開設、1974年には県立移管され岡山県立岡山養護学校旭川児童院派遣学級となった。
1963年老人福祉法が施行されようやく高齢者福祉対策が注目されはじめた。1970年には日本の高齢化率は7%を超え高齢化社会へと突入した。寝たきり高齢者の対策は全国的にも少なく、岡山県では県北に一施設が開設されていたのみであった。旭川荘は創設以来の懸案であった高齢者対策に着手し、1968年医療介護を中心とする特別養護老人ホーム「旭川敬老園」を開設した。健康管理と老化を防ぐ体のリハビリテーションと生活に喜びを見出す心のリハビリテーションを軸とした生きがいづくりを支援する介護サービスを行った。
(ウ) 安定成長期(1973-1992年)
@ 福祉見直し論の台頭
福祉元年を宣言した1973年に第4次中東戦争の勃発によるオイルショックが襲い、国内物価が急上昇し高度経済成長期は終了した。それに伴って日本では経済状況の改善と財政危機を打開するために社会福祉関係費の上昇を抑制する必要があるとした「福祉見直し論」が時代の趨勢(すうせい)となっていく。1979年に政府により示された「新経済社会7か年計画」での日本型福祉社会の基本内容は、欧米型福祉国家の否定、個人の自助努力や家庭による福祉の重視、地域社会での相互扶助の重視、それらが機能しないときの補完策としての社会保障等であった。その後、安定成長への移行及び国の財政再建への対応、将来の超高齢化への適合を目的として社会保障制度の見直しが行われ1982年には財政に占める老人医療費増加を抑制するために高齢者に医療費の一部自己負担を課す老人保健制度が導入された。1985年には全国民共通の基礎年金制度が導入される一方で給付水準が引き下げられた。厚生白書のテーマも高齢化社会での社会保障に関するものが多くなり、経済白書では安定成長、持続的成長や構造転換などのテーマが主流となった。一方、障害者福祉の分野では1975年、国連での「障害者の権利宣言」が採択され、さらにこれらを理念ではなく実現するという意図のもとに1981年に「国際障害者年」(テーマは「完全参加と平等」)が議決された。続いて1983年から1992年までの期間を「国連・障害者の10年」と宣言し、各国で種々の課題解決に取り組むこととなった。
以上、戦後の日本の社会保障は高度経済成長期に立案、構築されてきた経緯があり、雇用主である企業が、夫婦と子どもから成る核家族をベースとした雇用者の世帯を正規雇用、終身雇用するというモデルをつくり、その家族のライフサイクルを想定して作り上げていったのであり家族の支え合いや企業福祉によって補完されてきた。
A 旭川荘の拡充、総合、江草理事長のもと新体制
最初に子ども中心の施設で発足したが、その子たちの成長とともにライフステージに合わせ、成人へのケア体系を広げていった。1973年には旭川療育園、旭川学園に100人を超える年齢超過児が在籍しており、彼らの行き場の確保、つまり生きる道を拓き、自助、自立、社会参加を目指す一連の支援体制が必要であった。高齢者対応に続き、18歳以上の成人障害者の生きる道を拓く身体障害者療護施設「竜ノ口寮」、知的障害者更生施設「いづみ寮」が1973年に開設された。オイルショックの折、父母や愛育委員会、ボランティアなどの募金活動による支援、「地域の愛」が大きな支援となり開設に至った。このようにして乳児から成人、高齢者までのライフステージにおける福祉サービスを提供する総合福祉施設としての骨格を形成していった。
また旭川療育園は1965年から通園部を開設していたが、1970年代に入り、障害のある人が地域で暮らすというノーマリゼーション思潮の高まりの中、従来の「入所」中心から「利用される」施設へ、つまり施設機能を地域社会に開放する「脱施設化」の流れとして在宅福祉(通園通所、在宅療育と家族支援)に取り組み始めた。
1981年、「完全参加と平等」を掲げた国際障害者年を迎え、障害のある人が地域で暮らすノーマリゼーションの考えが主流になり、翌年から「国連・障害者の10年」が始まった。コロニー論が見直され、「平和的理想郷」を目指した旭川荘は1985年に開荘から携わってきた江草安彦氏が二代目理事長に就任、社会の中で「共に生きる」理念の具体化、社会自立を目標とした施設機能の強化、地域福祉推進へと舵をきった。1985年、旭川荘の地域展開の第一号の知的障害者通所授産施設「松山作業所」をつくり、これが祇園地先から外への最初の一歩となった。この後も積極的に地域で出ていくことに取り組み、在宅福祉、地域福祉、障害を持った人たちの家庭生活、地域生活を支援する方向へ重点をおき、ノーマリゼーションの実現に取り組んだのである。
(エ) バブル崩壊後から現在まで(1993年〜)
@ 福祉のサービス化、地域福祉の推進
1993年からのバブル景気崩壊後の急激な景気の悪化により多数の企業の倒産や従業員のリストラが相次ぎ、失業率は上昇した。今世紀に入り、グローバル化の深遠によって成果主義の賃金形態が導入されることによって人の流動性は高まるとともに、コスト削減の圧力から社会保障の網から抜け落ちやすい非正規雇用者が急激に増加し、それまでの社員の勤労意欲や会社に対する忠誠心は急激に低下、現在では会社を核とした社縁意識は希薄化している。日本社会は人口減少、少子高齢化へと突き進みつつあり、65歳以上の人口が総人口に占める割合を示す高齢化率は、2010年の推計人口で23.1%であり、すでに高齢化率が21%を超えた超高齢社会である。1975年以降、一人の女性が一生涯に産む子どもの数を示す合計特殊出生率が、下回る状態が持続すると人口減少に転ずるといわれる2.0を下回り、2009年で1.37と低迷している。実際、1973年の第二次ベビーブームをピークとして子どもの数は減少しており、出生率の低下による少子化や高齢化率の上昇による死亡者数の増加により、2004年の1億2779万人をピークに2005年から日本の総人口の減少が始まっている。さらに高度経済成長から安定成長期を支えてきた核家族という最小血縁単位でさえ崩壊しつつあり単独世帯(一人世帯)が急増、つまり血縁の崩壊ともいえる単身化が進行している。日本の社会保障は家族の支え合いや企業福祉によって補完されてきたが、低成長時代でのその血縁単位である家族の崩壊による一人住まいの増大や非正規雇用形態の浸透は日本の社会保障の根幹を揺るがす問題となっている。
この高齢化の進む低成長時代においては高齢者に対する福祉政策も計画的に長期的に施策を立案するようになってきた。1990年に福祉八法が改正された後、福祉行政の地方分権化が進み、在宅を含む地域主体の社会福祉サービスを法制化する動きが強まった。1989年にはゴールドプラン(高齢者保健福祉推進10か年戦略)、1994年には新ゴールドプランが発表され、全国の市町村で老人保健福祉計画が策定された。1995年に社会保障制度審議会による「社会保障体制の再構築に関する勧告」では社会連帯を強調するものの、国の公的支援を回避する姿勢や自らの自助努力による自立を促す姿勢が強く認められた。その背景には1980年代後半から1990年代の前半にかけて少子高齢化の進展や家族機能の弱体化などの社会の変化に伴い、生活に困窮した限られた人たちだけでなく児童の育成や高齢者の介護などのすべての市民を対象とするサービスを念頭においた「社会福祉基礎構造改革」の動きがあり、それにより2000年に社会福祉の増進を目的とした「社会福祉法」(社会福祉事業法の改正)が成立、さらに同年には高齢者の介護を社会全体で支えるために生まれた新しい社会保険の方向性を示す「介護保険法」が施行され、ともにサービスにおける措置制度から契約制度への転換がもとになっている。障害者福祉についは、1995年に「障害者プラン−ノーマライゼーション7か年戦略」が提示された。高齢者福祉と同様、行政が中心となっていた措置制度から契約制度へ移行し、さらに障害種別(身体障害、知的障害、精神障害)にかかわらず障害者の自立支援を目的とした障害者自立支援法が2006年に施行されたが、応益負担による障害者の自己負担増加の問題や障害者施設の経営困難や廃止の問題が表面化し2010年応益負担から応能負担に変更する内容等が盛り込まれ改正された。この時代の社会福祉の理念は福祉のサービス化、地域福祉の推進、ノーマライゼーションの推進であった。
A 地域密着・在宅支援、地域福祉の広域展開、アジアの中での旭川荘
平成に入ってバブル経済が崩壊後、少子高齢化や家庭や地域の介護力の低下の問題がさらにクローズアップされ、ノーマリゼーション思潮の浸透と相まって、高齢者福祉でも在宅介護の重要性が高まった。旭川敬老園は1987年に小規模デイサービスを開始、また高齢者の社会参加と生きがいづくりのために身体機能の維持をめざす生活リハビリテーションや文化活動、ボランティアとの交流などに取り組んだ。2000年の介護保険制度の施行からは措置施設からサービスを提供する契約施設となり、制度上も利用者に選ばれる時代となっている。
2003年愛媛県に進出、旭川荘の医療福祉の実績が評価され厚労省、愛媛県の要請を受けて南愛媛病院、南愛媛療育センターの経営を始めた。2004年、旧川上町、旧備中町の医療・福祉施設が旭川荘に運営委託され、2007年から「備中医療福祉センター」として川上診療所、備中診療所、平川診療所等で包括的地域医療ネットワークを形成している。2005年には本部と備前、備中、愛媛の三支部制になり、旭川荘の取り組みは広域化、多様化してきた。
アジアを中心に早くから医師、看護師、保育士に介護、医療の技術指導を行ってきた。1990年には第一回福祉の翼訪中団が中国上海を訪問、1998年には日中医療福祉研修センターを上海市に開設し、高齢化が進む中国での介護の人材育成が軌道に乗っている。旭川荘の国際交流はアジアの中で新たな発展期を迎えた。2007年、旭川荘は創立50周年を迎え、末光 茂氏が三代目理事長に就任、持続的飛躍の新たな出発点となった。
2. 旭川荘の展望と今後への期待
戦後の日本社会の変化の中で、旭川荘の生い立ちから成長、発展をみてきたが、日本の障害者・児童・高齢者福祉の分野において旭川荘はパイオニアであり、そして我国はもちろん、国際的にも時代の潮流を先読みしながらその牽引役として果たした役割はあまりにも大きく、この岡山の地にしっかりと刻み込まれている。
岡山の医療福祉の源流である旭川荘は、創設者である川ア祐宣氏が外科医としての日常診療の中で感じた「医療だけでは救えない児童や高齢者を何とか救わなければならない」という、やむにやまれぬ気持ちから出発し、障害者や高齢者、児童が社会の中で充実した、心豊かな生活を送るためには医療に福祉を統合して提供することが必要であるとの信念がその根底にあった。福祉三法は成立していたが、公的扶助のみでは支援できない課題が依然として存在した時代に、日本の社会、国民全体の福祉の向上を目的とした、岡山という地域に根差した総合医療福祉施設が相互連携のもと創設されたのである。当初は障害児、乳児の子ども中心の施設で発足し、保護者、愛育委員会、ボランティアなどの地域との絆、そして外来診療など地域貢献を大事にしながら、パイオニアであるが故の未知なる分野への手探り状態での挑戦、そして開拓に取り組み、基礎を固めた。そして人間としてのライフステージごとの支援を考え、当初より障害児の生きる力の重要視した教育に取り組むとともに、子どもから成人へ、そして高齢者の福祉へと体系を広げていった。
この背景には日本での高度経済成長の中、「成長から福祉へ」の気運が大きくなった時代があったが、世界に先がけて「知的障害者の生存を可能な限りノーマルなものにすること」を目的とした1959年のデンマーク法の制定に尽力したバンク−ミッケルセンのノーマリゼーション思想が国際的に、そして日本、岡山においても障害者福祉の大きな推進力となった。1971年の国連「障害者の権利宣言」や1981年の国連障害者年のテーマである「完全参加と平等」の理念としても反映された。旭川荘名誉理事長の江草安彦氏は1980年バンク−ミッケルセンにデンマークでインタビュー、「明日の障害者福祉」という連載記事となり、また「ノーマリゼーションへの道」(1982年)を著している。ノーマリゼーション思想は北欧、北米の地域でそれぞれ歴史的にも変遷をたどりながら今日に至ってはいるが、「すべての知的障害者に、社会の通常の生活環境と様式に可能な限り近い日常生活のパターンと条件を可能にさせることを意味する」(ニィリエ)と定義される。従来の障害者の「入所」中心の施策から「利用される」施設へ、施設機能を地域社会に開放する「脱施設化」の流れが、国際的にもそして日本でも認知され始め、旭川荘においても在宅福祉に取り組み、社会の中で「共に生きる」理念の具体化、社会自立を目標とした施設機能の強化、地域福祉へと邁進し、この岡山の福祉の進展に貢献してきたのである。
日本はバブル崩壊後、低成長時代に入り、人口減少、少子高齢化の問題が取り上げられ久しい。さらに日本を含めた世界でグローバル化が進み、人、物、金、情報が活発に自由にそして効率的に世界を流通する市場を推し進めるために国家間の障壁を可能な限り低くした。結果、自由な企業間の競争に拍車がかかり、能力主義、効率主義から日本の社会保障システム補完の一つであった終身雇用、年功序列制度の崩壊をきたし、それに伴い正規雇用に比して社会保障の網から抜け落ちやすい非正規雇用者や無職者の増大の問題が叫ばれている。一方で、膨大な情報社会の中で、様々な価値観が出現してきた。高齢者はもちろん、若者、働き盛りの人たちの単身化の増大、かつそれに並行して血縁、地縁、社縁などの人とのつながりの網から滑り落ち、経済的、文化的、精神的な貧困状態に陥る深刻な問題もクローズアップされており、現代は今後いつ何時、誰でもがそのような社会的主流からの逸脱に陥る可能性を持っている。
「障害とは個人の中にあるものではなく社会環境の中で生じるのであり、通常な社会生活を送れるように、本人一人ひとりの障害のあり方に注目した多様で個別的な方法を持って主体性や選択の自由を増大させるような支援システムの整備と啓蒙を社会において行う」というノーマリゼーション思想は、障害者だけでなく社会全体に拡げることにより
多様な価値観を持った、子どもから高齢者までの人々すべてが社会に必要とされているという自尊心を持ってつながりを保ちながら、充実した生活を送っていける、つまりよく生きることができる日本を将来構築していく上での重要な核となる理念であることは間違いない。
旭川荘は、地域と密着、連携しながら、教育も含めて人のライフステージに沿った支援を行いながら障害者、児童、高齢者福祉の発展に貢献し、またアジアの国々にも障害者、高齢者福祉に関する指導、情報発信を行ってきた。岡山の福祉の発展の歴史は、岡山地域の発展の縮図ともいえる。旭川荘の歴史の中には、人のやる気、現状を変える創作欲、課題を見つめる視点の転換など地域発展につながる知恵が余りあるほど詰まっている。ノーマリゼーション思想に基づいた医療福祉を進めてきた経験の蓄積をもとに現在の日本、そして岡山の福祉、そして地域社会が今後も前進していくための大きな提言者、牽引者で有り続けて欲しいと切に望むところである。
■参考資料 ・輝いて生きる 旭川荘 半世紀の歩み 1957-2007 社会福祉法人旭川荘
・社会福祉のあゆみ 社会福祉思想の軌跡 金子光一 有斐閣アルマ
・改訂版高齢化時代の医療福祉 しあわせな生活設計のために 江草安彦 山陽新聞社
・インクルーシブな社会をめざして
ノーマリゼーション・インクルージョン・障害者権利条約 清水貞夫
クリエイツかもがわ
旭川荘の歴史と日本社会の変遷

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