岡山政経塾 チーム21

 

◆◆観光・文化分科会◆◆

 ・ 備中聖人「山田方谷」の観光資源化について
 ・ 備前焼の現状と未来への提言
 ・ 岡山の特産物に触れて
 ・ スポーツツーリズムによる岡山の活性化

『備中聖人「山田方谷」の観光資源化について』

       8期生 油田 洋幸     

まえがき

 今回チーム21観光・文化分科会に所属し、岡山県全体に視野を広げ、観光・文化の視点から岡山県活性化のための提言論文を書く機会を頂きました。そもそも「観光」とは何か、「文化」とは何か、まったくとは言いませんが、少ししか考えたことがなかったのですが、今回このような機会を得たことにより観光・文化について深く考える機会になりました。
 今回、この論文で「岡山の偉人が何々をした場所」とか、「何々がおいしい場所」といったことは書かないことにしました。私は岡山政経塾で直島について学んだことにより、福武幹事の「在るものを活かし、ないものを創る」という地域創りを肌で感じたからです。「在るもの」とは「岡山の歴史、そして今現在の岡山そのもの、特にその地域独特の文化」のことです。そして、そこから「ないもの」を創らなければなりません。今の漠然としたイメージで言うと、「普遍的で人が軸になっているもの」です。また、「ないもの」とは言葉を変えれば、前例のないものとも言えます。非常に難しいことでありますが、この論文では、以上のことを提言できるように挑戦してみました。 
 はじめに、山田方谷の生涯について大まかに振り返っておき、次に、山田方谷の学んだ陽明学について、その後、備中松山藩の改革を現在の日本の財政問題と絡めて論じます。それらを踏まえて最後に、山田方谷をどのように観光に活かしていくのか、その最終目標・ビジョンというものを提示してみようと思います。




1.山田方谷について
 
 ここでは、山田方谷の生涯について大まかに振りかえっておきます。

1−1.出生から遊学時代
 山田方谷は文化2年(1805年)2月21日に備中松山藩領阿賀郡西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)に、父五郎吉重美、母梶の長男として生まれました。中井町西方はJR伯備線にある「方谷駅(日本初の人名の駅)」から北東へ約5キロの所にあります。実際に樹木が茂る深い渓谷を通り抜けて訪問してみると、今も当時とほとんど変わらぬ山深い僻地で、道路と家屋だけが現代風といった小さいのどかな山村であります。
 山田方谷の幼名は阿隣、本名は球、通称は安五郎、方谷は号です。方谷の祖先は清和源氏の流れを汲む源重宗と伝えられており、れっきとした武士の家柄でありました。しかし、方谷の曾祖父にあたる益昌が怨恨から村の寺の住職を斬殺し、自らもその場で切腹して果てたため、全財産を没収され一家所払いとなり、ここから山田家は非常に苛酷で不幸な運命を背負うことになりました。そして、19年後に許されて帰村できた方谷の祖父である正芳、父重昌、そして方谷と三代にわたる並々ならぬ努力で山田家が再興されることとなります。
 父五郎吉は、農業と共に菜種油の製造販売で生計を立てており、山田家再興を念じながら一生懸命働いたそうです。方谷にも何度も山田家再興を聞かせており、家では父五郎吉家訓という、質素倹約を旨とした決まりがありました。例えば、「衣類は木綿に限る」、「酒の嗜みは無用のこと」、「遊芸は一切無用」など12カ条があります。
 このように質素倹約を旨とした山田家ですが、教育にはお金を惜しむことが一切なく、方谷5歳のときに、隣の新見藩の儒者丸川松隠(しょういん)に預けられています。そこで、朱子学や四書五経を学び、9歳の頃には、塾を訪ねてきたお客に「何のために学問をするのか」と問われ、「治国平天下」と答え、周囲を驚かせたというエピソードも残っています。
 さて、方谷14歳のときに母、15歳のときに父と相次いで両親を亡くした方谷は、残された継母や弟を養うため丸川塾を去り、農業と菜種油の製造販売という家業を継ぐことになりました。しかし、方谷の学問への情熱は冷めることなく、家業の傍ら、深夜に学業に励むという生活を6年間送ります。その努力の甲斐あって篤学の名声が高まり、21歳のときに藩主板倉勝職(かつつね)に認められ、2人扶持が支給され、藩校有終館に勤務することができるようになりました。その後25歳のときに名字帯刀を許され8人扶持を賜り、中小姓格に昇任し、有終館会頭(教授)になりました。

 方谷は文政10年(1827)〜天保7年(1836)までの10年間に4回遊学しています。
1回目 京都 文政10年に10カ月 23歳のとき、
2回目 京都 文政12年3月〜9月に7カ月 25歳のとき、
3回目 京都 天保2年7月〜4年12月に2年6カ月 27歳〜29歳のとき、
4回目 江戸 天保5年1月〜7年9月に2年9カ月 30歳〜32歳のとき、

 京都では寺島白鹿(はくろく)に就いて学ぶ他、後に陽明学者として名を成す春日潜庵(かすがせんあん)らとも交わりました。また3回目の遊学で陽明学と出会い、そのまま、江戸への遊学を願いでて、佐藤一斉の塾に入りました。そこでは佐久間象山らと交わり、塾では塾頭を務めました。象山からは論争を挑まれましたが、方谷が負けることはなかったそうです。陽明学と出会った方谷は「伝習録抜粋序」に、「熟読して心に会得すると、あたかも澄んだ水面に明月の影がやどり、水と月とへだてのないようなすがすがしい心地になった」と記しています。そして、以下のように朱子学と陽明学との相違を論じています。「朱子学は心の内のことと心の外のことを合わせ、博学と集約を兼ねる。このため、朱子学によって学ぶと中正を失わず、知者でも愚者でもそれなりに順序に従って学問の道を進むことができ、これが長所である。他方、陽明学はわが心の内のことを専ら大切にし、心の内に集約することに努め、陽明学によって学ぶと一方に偏ることとなって、学ぶ者により長所短所が生じる、暗愚な者が陽明学を学ぶと自分を尊び、古人や古典から学ぶ努力を怠り、奔逸、独断専行の弊に陥り危険である。賢明な者が陽明学を学ぶと人間の本質を悟ることが速やかで、道理を判断することが果断となり、事を成すに効果をあげることが往々にある、よく学ぶものが短所を捨て長所をとるのはもちろんで、朱子も王陽明も論語を共通基本の教科書とすることは同じである。陽明学を非難することは当たらない」。
 王陽明の「伝習録」と出会ったとき、方谷は29歳。以後、陽明学徒として歩み始めます。


1−2.藩政改革時代
 天保7年(1836)9月に、方谷は佐藤一斉塾を退き帰藩します。帰藩すると藩主板倉勝職より武士の子弟を教育するための藩校有終館の学頭(校長)を命じられました。方谷を有終館学頭に任命した板倉勝職は跡継がいなかったので、天保13年(1842)6月、伊勢桑名藩主松平定永の8男寧八郎を婿養子に迎えました。寧八郎はその後、板倉勝静と改名しました。方谷はこの勝静の教育を担当することになり「資治通鑑綱目」等の講義を行いました。このとき、方谷と勝静との間に信頼関係が生まれました。
 嘉永2年(1849)4月に勝職が隠退し、勝静が新藩主となり、その年の8月に勝職が亡くなると、一つの時代が終わったため、方谷は勝職の恩に報いるためにも喪に服し、隠退届けを出しました。しかし、その12月には、藩主勝静から藩の元締役兼吟味役に命じられました。時に方谷45歳、勝静27歳のときでした。元締役は、藩財政運営の責任者で、吟味役はその補佐役です。この2つを兼ねるということは、藩の財政運営を全て任せることを意味します。今でいえば、財務大臣にあたります。このような人事は当時としては当然異例であり、世襲の門閥武士でもなかった、農民出身の方谷への反発は相当のものがありました。実際に次のような狂歌が流行りました。
「山だし(山田氏)が 何のお役に たつものか へ(子)曰(のたま)はくの ような元締」
「御勝手に 孔子孟子を 引き入れて なおこのうへに 唐(空)にするのか」
 改革が始まると、反発が嫉妬や怒りに変わり、一時は暗殺計画もあったとされますが、勝静の「方谷の意見は私の意志である。方谷に対する悪口は一切許さない」というような絶大な信頼と、方谷自身の強靭な意志により、淡々かつ徹底的に改革は進んでいきます。
 主な政策は次の6つになります。@上下節約、A負債整理、B産業振興、C軍政改革、D教育改革、E藩札刷新の6つです。当時の備中松山藩の財政状況は、表向き5万石とされていましたが、実際には1万9,300石という状況でした。さらに、備中松山藩の通常ベースの財政規模は、約5万両でしたが、藩の収入は3万両にすぎず、2万両の赤字。さらに借金は10万両。利息だけでも1万3000両に達していました。このような状況であったので、参勤交代の際、東海道のかごかき職人から「貧乏板倉のかごはかつぐな」といわれ、敬遠されるほどでした。
 改革の詳しい内容は後述しますが、方谷は、このような厳しい財政状況を最終的に10万両の貯蓄ができるほどの状況にまでもっていきました。


1−3.晩年
 方谷の晩年は、自分の高位高官など見向きもせずに、将来の日本の教育のために子弟教育に費やされました。当時教育といえば、武士階級のための教育が主流でありました。そういう中で、庶民教育のための「学問所」や「教諭所」などの教育施設の充実を図りました。また、岡山藩の藩校である閑谷学校などを再建し、陽明学などを教えました。
 明治政府は方谷に新政府への出仕を要請しますが、彼は固辞し、長瀬(方谷駅周辺)から小阪部(大佐町)へと居を移しながら子弟の教育に専念します。実際に大久保利通がいかに方谷の能力を買い信頼していたかが分かる逸話があります。維新後、小田県(現笠岡市付近)の県令(知事)になった矢野光儀が上京し、時の内務卿大久保利通に小田県の諸問題について報告しましたところ、その際、大久保から「山田方谷を訪ねたか」と質問され、矢野が「まだです」と答えると、大久保は不機嫌な表情をし、「小田県を治めなければならないのに、山田翁に政治を問わないで、何ができるか」と一喝されたそうです。矢野は大久保のもとをほうほうの体で立ち去り、早々に方谷に会いに行っています。その後、矢野は再び大久保のもとに行き、物産会社の規則案を手渡し、「方谷の草案です」と言ったところ、大久保はその場で読み終え、直ちに許可を与えたので、矢野は仰天してしまったそうです。
 方谷の晩年の主な弟子には、井手毛三(落合町長)、谷川達海(岡山商業会議所初代会長)、中川横太郎(関西高校の創設に尽力)らがいます。また、明治初期には、新時代の到来とともに岡山県内各地で民間主導による学校が開かれました。そのいくつかには方谷も関わりがあり、講義を行っています。久世町の「明新館」、美咲町の「知本館」、「温知館」などがそれです。
 方谷は「備中聖人」などと呼ばれて、明治10年(1877)6月26日、家族や弟子たちに見守られながら、小阪部塾の自宅で安らかに亡くなりました。享年73年でした。方谷が亡くなった小阪部塾跡には勝海舟の揮毫(きごう)による8メートルの石碑が今も建っており、方谷の業績を讃えています。

 このように、山田方谷は幼いころから学問に励み、苦学して陽明学を修めます。その後、平和な時代であれば教育者として生涯を終える予定であった方谷ですが、幕末を向かえようとしている時にあって、方谷は備中松山藩の財政再建を任されます。江戸時代において様々な藩で財政改革は行われていましたが、その中でも、方谷の手腕が明治政府の大物、大久保利通にも一目置かれていたことから備中松山藩の改革がどれほどの成功を治めていたのかが解ります。しかも、その後の方谷は明治政府の出仕話を断り、また一教育者として歩み始めます。このような人生を歩んでいた方谷はいつのころからか「備中聖人」と呼ばれるようになります。その方谷の学んでいた陽明学とはどのような学問なのか、次の章で明らかにしようと思います。




2.儒学について
 
 儒学は孔子を始祖とする思想の大系であり、その教えは「修己治人」の教えといわれています。特に、四書と呼ばれる『大学』、『論語』、『孟子』、『中庸』を経書としており、日本には大変影響を及ぼした思想体系です。儒学の歴史上重要なのは、宋の時代に中興の祖として有名な朱熹(しゅき)、そして、明の時代の王陽明です。二人は朱子学と陽明学をそれぞれ打ち立てました。山田方谷はこの中の陽明学にとくに影響を受けています。ここでは、実際に方谷が傾倒した陽明学について述べてみようと思います。

2−1.儒学入門の書『大学』
 個人的に『論語』、『孟子』は大学生のときに読んだことがあったのですが、その内容は名言集、教訓集のように感じて、今の時代に通用するものもあれば、通用しないものもある、という感想を持ちました。しかし、今回『大学』、『中庸』を読んでみて、なぜ儒学が修己治人の教えと言われているのかがわかりました。ここでは、とくに儒学入門の書である『大学』について述べます。
 大学の内容は三綱領、八条目に集約されます。三綱領は、本文の冒頭に述べられている「明徳を明らかにするにあり」、「民に親しむにあり」、「至善に止(し)するにあり」のことを指し、儒学を学ぶ者の最終目標を意味しています。続いて、この三綱領を達成するための方法として八条目が示されます。

 「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先(ま)づ其の国を治む。其の国を治めんと欲する者は、先づ其の家を斉(ととの)う。其の家を斉えんと欲する者は、先づ其の身を脩(おさ)む。其の身を脩めんと欲する者は、先づ其の心を正す。其の心を正さんと欲する者は、先づ其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先づ其の知を致す。知を致すは物を格すに在り。」

 即ち、「治国平天下」、「修身斉家」、「誠意正心」、「格物致知」の教えです。以下、この八条目についての説明が続いて大学は終わります。ところが、大学では「格物」と「致知」については全く触れられていません。実はこのことが、宋の時代に朱熹と王陽明の二人を生み出すことになります。


2−2.朱子学と陽明学
 まず、朱子学は朱熹が打ち出した学問ですが、『朱子』という書物が存在するわけではありません。朱熹が行ったことは上で述べた大学の新しい解釈本である『大学章句』や中庸の新しい解釈本である『中庸章句』を記したことです。特に、『大学章句』については新解釈、並べ替え、新しい文の追加など、もともとの大学を大幅に変更するものでした。特に朱熹の思想がでている所は、「格物致知」の解釈です。上でも述べたように格物致知については原本に何も解説がなかったため、朱熹はこの点に注目し、格物致知について新しい解釈を生み出したのです。
 朱熹は格物致知を「知を致すは物に格(いた)るに在り」と読みました。即ち、すべての「物」についてその本質や理を理解すること(格物)ができて始めて、すべての物について善悪を正しく判断すること(致知)ができるようになり、それができて始めて心の発動するところに嘘、間違いがなくなり(誠意)、それができて始めて心が正しくなる(正心)。心とは我が身体の支配者であるから心が正しくなって始めて、身を修めることができる(修身)。即ち修身の完成というわけです。
 朱熹のこの説は絶大な支持を受け中国全土に広まることになるのですが、この朱熹の説に異を唱えたのが王陽明です。
 王陽明と朱熹との違いは大学に何も解釈が書かれていなかった「格物致知」の教えの解釈によります。というのも「平天下」、「治国」、「斉家」、「修身」、「正心」、「誠意」、「致知」、「格物」を順に見ていくと、「世界」、「国」、「家」、「身」、「心」…と徐々に内面に入っているのですが、朱熹の解釈の場合、最後の「物」を外物、身の回りの物、例えば草木、水、火、土、もろもろの生物、石などなどと解釈しており、最後の最後でいきなり心の外のことを問題にします。王陽明はそこに異を唱えて新しい陽明学を打ち立てました。
 結論から述べると、王陽明は格物致知を「知を致すは物を格(ただ)すに在り」と読みました。どのような意味かというと、王陽明は、身・心・意・知・物を一つのものであるとして、良知(=知のこと、但し、学んで得る後天的知識のことではなく、人間が本来生まれながらに持っている善悪を判断する先天的「知」のこと)を致すことが、修行の根本であると結論しました。
 即ち、心は身体を統率支配するものであり、身は心の命ずるところを実際に行うもので、両者は表裏一体の関係にあるから、身を修めるには、心を正せば自然に修まるはずである。しかし心の本体は性(良知と読み代えてもよい)である。性(良知)は善であり、正であるから、ただす必要はないわけであるが、ただ意(=良知の発動したもの)の動くとき、善悪が生じるので、そこにただす意味が起こってくるのである。だから、心を正すことは実際には意をただすことに他ならない。意をただすとは何であるかというと、意が純粋であるときは必ず善を好んで悪を憎むが、必ずしもそうでない場合があるので、意を純粋にして誠にすることを言うのである。意が必ずしも誠でない原因は、良知が完全に発現しておらず良知が曇っているからである。なぜ、良知が曇るかというと、それは人間の欲望(名誉欲、金欲、性欲などなど)が良知の判断を鈍らせるのである。そして、欲望を心から去り良知を完全に発現することを、知を致す、というのである。
 さらに、王陽明は次のようにも述べています。「物とは事なり。凡(およ)そ意の発する所、必ず其の事有り。意の在る所の事、之(これ)を物と謂う」。即ち、物の定義は「意の在る所の事」です。この定義に従うと、石でも誰かが意識的にある特定の所に置いた石であれば物の定義に含まれます。草木も人間の手が加わっていると王陽明の定義に合致します。さらに「人間の意が働いている事」も物の定義に含まれます。しかし、これではわかりにくいので一つの例を提示します。
 例えば、周囲に柵などが何もない井戸(これも一つの物です)があるとします。その井戸に小さな子供が落ちそうになっているのを見たとします。この時、我々の「良知」というものがはたらき「あぶない!!」と思います。そして、「あぶない!!」と思ったあと、普通ならば「助けなければ!!」と思うはずです。これを「意」と言います。「助けなければ!!」と思えば、それを実際に行うために、「心」が「身」に命令して実際に行動に起こし子供を助けるはずです。ここまでの一連の出来事を王陽明は「意の在る所の事」と言い、それを「物」としたのです。さらに言えば、以後、子供が落ちないように井戸に柵をつければ、それを「格物」としたのです。
 ところが、上記の例で、心のどこかで「助けるべき」と思っていても、この「意」は時と場合によっては「助けなくてもいいや」と思うことの方が強く働くときもあります。例えば、非常に疲れていたときとか、人生に絶望していたとき、大嫌いな人間の子供だったとき、もっと簡単に言えば、助けないことにより、自分に莫大な利益がある場合などです。陽明学では「助けなくてもいいや」という意が勝り、実際に行動に起こすことがなかった場合、物は格されなかったとします。「助けなくてもいいや」という意を去り、「助けるべき」という意を選択することを「格物」とするのです。
 結局のところ、「知を致すは物を格(ただ)すに在り」とは、事にあたって良知を致し実際に行動にうつすこと、の意味です。格物が致知の前提ではなく、むしろ、致知の後でなければ格物はなし得ないもののように説かれているのは、正心・誠意・致知・格物を一体の同じ事とすることから出ています。
 以上が、陽明学の簡単な説明ですが、実際に行動に移すことを重視する学問であることが窺えます。

 
2−3.日本への陽明学の影響
 日本での陽明学の祖とされる人物は近江聖人と称される中江藤樹です。彼の門人には、岡山藩で活躍した熊沢蕃山がいます。さらに、蕃山と同時期の陽明学者に津田永忠もいます。というのも、江戸時代の官学は朱子学でしたが、それに対抗する形で陽明学が盛んな藩もいくつかあり岡山藩もその一つだったからです。陽明学が盛んな代表的藩には薩摩藩も挙げられます。さらに、幕末には長州藩の吉田松陰などが熊沢蕃山に傾倒するなど陽明学は明治維新の立役者にも非常に影響を与えています。もちろん山田方谷も熊沢蕃山に傾倒するなど岡山は江戸期を通じて陽明学が盛んな地域でした。




3.方谷の基本的な考え方

 この章では、いよいよ山田方谷の行った行財政改革から軍政改革までに及ぶ藩政改革について述べる。その改革は巨額の財政赤字に悩む現代日本も大いに見習う点があり、その点において山田方谷を岡山県がPRする意義があると思われる。始めに紹介する理財論とは、山田方谷の藩政改革の根底に流れる思想を明らかにしたものであり、方谷が佐藤一斉塾の塾頭をしていたときに書かれ、上下二編からなる経済論の概論である。


3−1.理財論の概要
 理財論について述べる。理財論は方谷の経済論についての考えを述べたものである。上下の二編に分かれるが、方谷の考え方はほとんど上編に表れていて、下編については、上編についてのよくある反論について、さらに反論している文章である。
 方谷の理財論について紹介されるときによく引用される文章がある。それは次のようなものである。

「それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈せず。而るにいまの理財者は悉(ことごと)く財の内に屈す」

 「事の外に立ちて事の内に屈せず」とは、「大局に立ち、本質を見つめ、歴史に学んで、目先の問題だけにとらわれない心を持つ事が重要だ」とよく説明されます。要するに、収支の増加と支出の削減をいかにするかということにのみとらわれてしまい、その他のことは財政再建の名の下に片隅に追いやられてしまうということです。
 その他のこととは何のことでしょうか?山田方谷は上の文章に続けて次のように述べています。「世の中が平和になり、戦争がなくなりかなりの年月がたった。多くの藩は、根本的な事を何もしないまま、のうのうと平和をむさぼっている。現時点での重大な関心事といえば、経済の悪化を如何にして解決すれば良いかだけになっている。上から下まで経済問題ばかり気にしている。毎日毎晩、目先の苦境脱出の方法を考えるだけで、その根本的原因については考えようともしない。人心は日に日に間違った方向へと進み、直すことができない。人情も一日一日と薄くなり、自分のことだけ考えている。役人は日々悪習に染まり、大衆は生きる事に疲弊してしまった。日常の生活道具さえも破損し、修理する余裕もない。教育は日に荒廃し、軍備は日増しに弛んで、危機意識すらなくなった。こんな事で良いのか?と、問いただす者がいれば、目の前の資金が不足しているので、毎日のやりくりを考えるだけで精一杯だ、と答える。これらの諸問題は、国を治める上での基本根本であるにもかかわらず、乱れたままに放置されている。国政上の根本原則はここに乱れ、法はここで現実の役に立たなくなった。このような状態でどうやって経済を立て直すことができるだろうか。今の役人達は、いたずらに重箱の隅を突き、金銭の増減比較ばかりしており、まるで役に立たない。これらの人は財の内に屈する者で、本当のものの道理が分らない人物と言えよう」。つまり方谷は、経済論は経済論だけを見て議論してはならない。経済論は、軍事論、教育論、風紀・モラル(遵法精神)なども含めて議論しなければならないと論じているわけです。


3−2.現代日本の財政問題と山田方谷の改革
 ここでは、山田方谷の改革と現代日本の財政問題について述べる。
 方谷は元締役を拝命した後、藩が公表している財政収支に疑問の念を抱き、藩の財政状況の詳細な調査に着手しています。その調査で発覚した事実は、備中松山藩は表向き5万石ではあるが、長年の悪政がたたり、米の生産性が低下し続けた結果、実質2万石弱というありさまでした。
 さらに、この事実に基づき「藩財、家計引合収支大計」という藩財政の収支の試算をしています。それによると、嘉永2年(1849年)の総収入は42,800両、総支出は75,800両、財政赤字額は33,000両です。これを借金や臨時の増税で賄うわけですから公債依存度は約44%にもなります。また嘉永2年の時点で約10万両の借金もありました。
 
 現在の日本の平成22年度予算では、一般会計総額が約92兆円、新規国債は約44兆円、国債依存度は48%と過去最高で備中松山藩よりもひどい状況についになってしまいました。
 資本主義の全盛の現代は、財政金融政策の理論、政策、民間においても利潤追求について、今日ほど熱心に細かく徹底して追求している時代はありません。
 それなのに、我が国の困窮度合は歴史的にみて今ほどひどい状況はないと断言できます。収入を増やそうとして、事業税、所得税、関税、固定資産税や住民税、その他消費税等考えられる税金は何でも対象とし、ここまでしなくともよいと思われる所まで税金を徴収しています。逆に支出を減らすためには、役人の給料、供応の費用はもとより、慶弔費、接待交際費、交通費、日常の経費、諸雑費などの固定的な経費をほんの少しでも削ろうとしています。
 財政状況を良くしようとして努力を重ね、税金を重くし、支出を削りに削って十数年経過しましたが一向に我が国の財政状態は良くならず、悪化の一途をたどっています。さまざまな学者、知識人、さらには心ある一般庶民に至るまでみんな財政赤字について気にしているにもかかわらずです。
 どうして、このような状況になるのでしょうか。山田方谷の理財論によれば、それは「いまの理財者は悉(ことごと)く財の内に屈している」からです。理財論によれば、経済を正したいのであれば、敢えて遠回りに見えようとも綱紀政令を正すことから始めなければなりません。即ち、税収を上げたり、経費を削減したりの努力が足りないのではなく、その考え方と手法すべてが間違っているのです。
 例えば、仮に消費税増税によってすべての財政問題が解決されるとしましょう。しかし、今の公務員の天下りや彼らの特権意識になれた心の麻痺、加えて、政治家は「秘書が…、秘書が…」を連発し責任を果たさない者多数。また最近の、増税を唱える与謝野氏の信念のない変節ぶりなどを見ていると、仮に良くなるとわかっていても国民が増税にYesというとは思えません。
 対して一般大衆は生活に疲れきってしまい、ただその日を何とか過ごせればよいという気持ちになり、法律の抜け穴を突き、刹那的快楽を追求し、政治には無関心です。
 その結果、現代社会の道徳、倫理、教育はどんどん悪くなっていく一方で、何か起きたときの危機管理意識、これがまるっきりありません。大災害が発生したときの備えや、万が一外国から攻撃を受けたときの備えなど日頃から準備しておかなければならないことを考えると不安な状況です。尖閣問題や、この論文の執筆中にも大雪や霧島山新燃岳噴火のニュースが飛び込んできました。雪害では死者もでているようです。さらに財政を圧迫するでしょう。方谷は言います。「庶民の願うところは数金に過ぎず。然るに終生あくせくし、これを求むれど得ず、飢餓困頓とし、ついに以て死するに至る」。
 結局、国政といえども、その行動は一般大衆の愚かさや、卑しさと変わることがない。国家としての目的を見失い、故に上下ともに金、金、金…と迷走を続ける。国家の崩壊は近いと言わざるを得ません。
 財政からモラル、教育、軍事までこれらの現代日本が抱える問題と、方谷の生きた幕末の備中松山藩において抱える問題は非常に酷似しています。そして、方谷はこれらの問題に真正面から立ち向かい見事にそれを解決しています。
 
 元締役という今で言う財務大臣に就任した方谷の行った改革は理財論に基づき財政改革だけにとどまるものではありませんでした。まずは、自ら範を示すことから始めます。それは、自らの俸禄の大幅カットです。1割カットとかそういった生易しいものではなく、元締役という藩の要職にありながら、自らの俸禄は中下級武士程度に抑えました。さらに、当時は重要な要職に就くほど役得といったものもありましたから、それらもほとんどやむを得ない場合を除き禁止しました。それらを証明するために方谷は自らの会計出納を第三者である塩田仁平衛に委任しました。ここまで行ったうえで、節約令を発布します。それは中級以上の武士と、豪農、豪商をターゲットにしたものでした。というのも、末端はすでに倹約に次ぐ倹約でもう削るところがなかったのです。
 次に方谷が行った政策は負債に関するもので、帳簿の公開を行いました。帳簿を大阪の商人たちに公開して、今までの粉飾決算を明らかにして、正直に話し借金の一事棚上げの協力を依頼しました。もちろん返済を遅らせるだけで借金はしっかりと返すという約束のものです。さらに、経費削減の観点から、大阪蔵屋敷を廃止しました。蔵屋敷とは、諸藩の大名が現金を入手するための年貢米を運んで貯蔵する倉庫付きの屋敷のことです。当時の大阪は日本最大の米市場であったため大阪に蔵屋敷があったのです。これの維持費に年間1,000両かかっていたのでこれを廃止して、備中松山藩で保存することにしました。このとき、方谷は藩内40カ所に貯倉を設置して対応しました。いろんな集落に分散させることにより飢饉の非常事態に備えようとしたわけです。
 さらに、負債整理だけでなく税収を上げるために方谷は「撫育局」と呼ばれる役所を新設しました。これは備中松山藩が藩内で生産した年貢米以外の一切をこの役所に集中させ、販売管理をも藩の一手で処理しようとする専売制のことです。実は高梁地区は奈良時代から良質の砂鉄が取れたので、方谷はその鉄を使って、備中鍬を生産しそれを江戸で販売するようにしたのです。他にも備中松山藩ならではの特産品である松山葉の煙草や柚餅子、檀紙などを取り扱いました。他藩の専売制と違う点は、生産者の利益を重視して、商品を買い叩くことなく仕入れ、その上で藩の利益を確保した点にあります。どのようにしてそれを達成したかというと、できるだけ中間搾取をなくすことによって達成したのです。商人の力が強くなりすぎて中間手数料がかかる大阪を避けて藩所有の艦船で直接江戸へ運び売りさばくようにしたわけです。これにより巨万の利益を手にした松山藩は大阪商人への借金も前倒しで返済できました。
 その他にも、軍制改革では西洋式の砲術などを採用、農民を兵力に取り入れるなど五万石の小藩だからこその軍政改革を行っています。教育改革では庶民教育のための学校設立に力を注ぎ、鍛冶町、八田部、玉島に「教諭所」を設けました。向学の風を吹かせるためにも良く出来る生徒には賞を与え、さらには士分に登用して役人に抜擢しました。


3−3.藩札刷新
 方谷の行った改革の中でよく注目されるものといえば、撫育局を使った産業振興なのですが、この論文では藩札刷新について別に章を割いて触れておこうと思います。というのも、方谷自身が晩年に藩政改革を述懐したときに「余は我藩財政につき、過半の力を藩札の運用に用いたり」と述べているからです。私にはこの意味がどうしてもよくわからなかったのです。てっきり産業振興に過半の力を用いていたのだとばかり思っていました。
 江戸時代の貨幣制度について説明すると、当時、貨幣は大別して、金貨、銀貨、銅貨の三種類からなっていました。その鋳造は徳川幕府の独占事業であり、各藩が独自に貨幣を鋳造することはご法度でした。その代わりに諸藩は紙幣である藩札の発行が認められていました。もちろんこれは、額面通りの金貨等にいつでも交換できる兌換紙幣であることが条件なのですが、窮乏にあえぐ諸藩は交換準備金の正貨まで使い込んでしまい、兌換紙幣であるはずの藩札が、いつの間にか不換紙幣となっている状態でした。備中松山藩においてはニセ札が出回るありさまでした。
 松山藩の藩札刷新については、方谷は藩政改革に着手すると同時に、三年間という期限を区切って、この世間から蛇蝎のごとく嫌われていた紙屑同然の藩札を貨幣に交換するとのお触れを出し、8,019両にも上る藩札を回収しました。そして、その回収した藩札を大衆の目の前で焼却するというデモンストレーションを行いました。その後、新しい藩札を発行しています。その藩札は他藩の領内でも流通するほど庶民の信用を勝ち得たものでした。
 現在、方谷の言う「理財の術」はマクロ経済学として当時より発達しています。市中に出回ったお金は必ず次の経済の芽を育み、人々が社会的不安に駆られて懐を必要以上に引き締めると、流通がストップし、経済が停滞し、デフレスパイラルになるという経済学の法則はよく知られているところです。おそらく、当時の松山藩も民衆の将来不安から景気の低迷が起きていたのでしょう。方谷のデモンストレーションによって民心は刷新され景気もよくなったのだと思います。ただ、なぜ方谷は藩札を焼いたのか、旧藩札廃止のお触れではいけなかったのか、疑問がつきません。そして、藩札を焼いて民心にどのような変化があったのか、今の私の見識では窺い知ることはできません。経済は生き物とはよく言いますが、現在の日本にも方谷のように人間に対する深い見識をもったリーダーの誕生を望むばかりです。ちなみに、この藩札焼却のデモンストレーションは時代が下って明治時代に松方正義によって真似されています。




4.最終目標
 
 ここでは、岡山県が目指す最終目標というべきものを提示してみます。今までに前例のないもの、即ち、歴史や伝統に根ざした「あるもの」を活かして、人が軸になっていて前例のない「ないもの」を提示してみようと思います。

4−1.日本陽明学の聖地
 結論から述べると、「岡山県を日本陽明学の聖地にしよう」というのが私の結論です。そして、その3つの資格が岡山県にはあります。
 1つ目は、3−3で述べたように岡山県は熊沢蕃山や津田永忠など日本における陽明学の先駆者を輩出した県です。しかも、陽明学を信奉、傾倒したほとんどが非業の死を遂げたのに対して(例えば、吉田松陰、大塩平八郎、最近でいえば三島由紀夫などです)、岡山で活躍した陽明学者は天寿をまっとうしています。山田方谷しかり、津田永忠しかりです。現在の陽明学は、その信奉者の最後がことさら強調されて狂人の学問として喧伝されていて正しく評価されていないと思います。それを正すためにも天寿をまっとうした陽明学者が多い岡山県が適任なのです。
 2つ目は、岡山には閑谷学校があるからです。閑谷学校は日本初の庶民のための教育施設です。そこでは、広く庶民に儒学の講義が行われていました。今では、第二次世界大戦後に日本の教育が見直されるにあたって必要以上に儒教教育、即ち修身の学問が排斥されてしまったために、知識偏重に偏って儒学を講義する学校などほとんど皆無です。よって、陽明学の基である儒学を始めて民間に講義した閑谷学校がある岡山県はその意味でも適任です。
 3つ目は、今の日本が陽明学を求めているからです。それは4章で見たとおりです。財政赤字に苦しみ、庶民は目先の利を追い、政治家も21世紀の進むべき道を示せないでいます。そのような中で山田方谷の軌跡は非常に深い示唆を私たちに与えます。つまり、岡山だけでなく日本のためにも陽明学のPRは必要なのです。もっといえば、陽明学を信奉していても、生きながらに聖人と呼ばれたのは、日本では山田方谷と中江藤樹の二人しかいません。そのうちの一人が岡山県出身なのです。やはり岡山には陽明学をPRする資格といえるものがあります。
 以上が、岡山県が日本陽明学の聖地たる所以です。


4−2.聖地たるには〜山田方谷理財論に学ぶ〜
 ここでは、方谷の理財論に謙虚に学び、岡山が陽明学の聖地たるには何が必要であるかを明らかにしようと思います。
 方谷の理財論は上下の二編に分かれていて、理財論の下の方では、理財論の上を受けて、それに対してのよくある反論について、門答形式でさらに反論しています。
 まず、理財論の上では、「財政を立て直すためには、財の内に屈せず、財の外に立って、綱紀政令など基本的なことから正していかなければならない」と主張します。
 それに対するよくある反論として、次のようなものを方谷は想定しています。それは「貧しくて資源もない弱い国は、役人に人材がおらず、大衆は苦しみ抜いている。今、国家の基本を整えて、法を正したいと願っても、餓えて死ぬ状況が目前に迫っている。その苦しみを除こうと思えば経済的な手段をもってしか救えないことは、自明の理である。それでもなお目前に迫った餓死者の苦しみから目をそらせ、他の方法で救おうとするのは、非常に回りくどい手段ではないだろうか」という反論です。これは非常に強力な反論で、現代の日本に当てはめてみればそれがよくわかると思います。今でも財政再建しようとすると、そんなことより景気回復が先だ、という反論はよく聞かれます。財政再建派と上げ潮派の対立によく似ています。では、この反論に対する方谷の反論はどのようなものだったのでしょうか。
 「曰く、此れ古(いにしえ)の君子が義利の分を明らかにするを務むる所以なり。それ綱紀を整え政令を明らかにするものは義なり。饑寒(きかん)死亡を免れんと欲するものは利なり。君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。ただ綱紀を整え、政令を明らかにするを知るのみ。饑寒(きかん)死亡を免るると免れざるとは天なり」
 「然りといへどもまた利は義の和なりと言わずや。未だ綱紀整い政令明らかにして、饑寒死亡を免れざる者あらざるなり」
 「なお此の言を迂となして、吾に理財の道あり、饑寒死亡を免るべしと曰はば、則ち之を行うこと数十年にして、邦家の窮、ますます救うべからざるものは何ぞや」

 つまり、「非常に回りくどいやり方に見えるからこそ、だからこそ古の君子は義利の分を明らかにすることに努めたのです。国家の基本を統一し目的を明らかにすることは義であり、餓えや死ぬことから逃れようと自分自身の利益を願うことは利である。上に立つ者の仕事は義を明らかにすることであって利を求めることではない。古来より易経には利は義の和なりとあります。即ち、義を明らかにすれば、餓え苦しむ人は自然といなくなるのです。これでも私(方谷の案)に反対して、理財の道があると主張する者には、我藩の現実をみせてやればよい。なぜなら、今までも我藩は理財の道を求め続けてきており、数十年たっても全く良くなっていないではないですか」と反論したわけです。
 
 今、私たちは岡山県に観光客を呼び込むためにいろいろな方法を考えています。そんな私たちをみて方谷は何と述べるでしょうか。理財論から推論するに、観光客を呼び込もうと考えるのは「利」である、といわれるのではないでしょうか。それよりも「義」を明らかにしなさい、といわれるはずです。
 では、私たちが明らかにするべき「義」とは何でしょうか。以下で明らかにしてみたいと思います。
 1つ目は、儒学奨励です。先にも述べましたが、日本では第二次世界大戦後、必要以上に修身の学問の排斥が行われ儒学の儒の字は歴史で少々学ぶだけという状態になってしまいました。さらに批判を恐れずにいえば、岡山県には閑谷学校がありますが、現在ではただの文化財に成り下がり、知る人ぞ知る観光地として整備されているのみです。私は閑谷学校のそのような活用方法はもったいないと思います。日本初の庶民のための教育施設です。もっと儒学や陽明学の教育施設として実際に活用するべきだと考えます。これこそ在るものを活かし、ないものを創るだと思います。さらにいえば、現在は漢文の授業は行われなくなっていますので、できれば、総合教育というわけのわからない授業時間をつぶして、それを「大学」または「論語」の簡単な経書の素読の時間にでも充てて欲しいと思います。
 2つ目は、儒学に基づき政治を正すことです。儒学を奨励しても、山田方谷をPRしても、実際の岡山県の政治が借金漬けのなさけない政治ではいけません。今現在も山田方谷や熊沢蕃山や津田永忠の精神が岡山に生き続けていなければ、それはとうてい聖地とは言えません。京都に観光客がなぜ多いのか、古き良き日本が残っているからです。伊勢神宮になぜ観光客が多いのか、神道の伝統が生きているからです。比叡山や高野山になぜ観光客が多いのか、仏教の伝統が生きているからです。儒学の伝統が岡山に生きていることを内外に示さなければなりません。そのためには、岡山の先人に学び、その教えを実際に活かさなければなりません。そのために政治を正す必要があります。
 3つ目は、普遍的メッセージを発することです。では、どんなメッセージを発するべきなのか、今の私にははっきりわかります。それは、「誠」です。山田琢氏(元金沢大学名誉教授)によれば、方谷の陽明学の特色は次の通りであると分析しています。

「方谷は誠意、致(良)知、格物という三項目を陽明学の眼目として取り上げている。そしてその中で誠意を中心に据える。致良知と格物とが二本の柱となってこれを支えているのである。良知を致すことによって誠意の本体を確認し、格物の実践によって誠意が実際のものとなるのである。何事を為すにも誠意を中心とするのが方谷の一生を貫く信条となっている」
 
 即ち、誠意主義というわけです。簡単にいうと「言ったことを成す」、誠の字そのままです。そして、それこそが今の日本に切に求められていることであり、いつの時代も通用する普遍的メッセージです。

 以上が、岡山県を陽明学の聖地化するための3つの具体的方策です。山田方谷も当時言われているように、観光政策としては回りくどすぎるという批判があると思いますが、敢えて、この方法を提言したいと思います。地道にやっていくしかないのです。直島も実際には10年以上の長い時間がかかって今の成功があるのです。本当に岡山県が観光で食べていこうと考えるならば私の提言を実行する必要があると思います。




まとめ
 
ここまで書いてきてひとつ思ったことがあります。それは福武幹事の「ないものを創れ」というのは「聖地を創れ」ということなのではないかということです。そして、その聖地の満たす条件として、「普遍的メッセージを発している」、「人びとの生活に根ざしている(歴史がある)」、「現在も活用されている」という3条件を発見するに至りました。もちろんこの3条件は検証する必要がありますが、伊勢神宮だとか、比叡山、高野山などはこの条件を満たしているように感じます。加えて、私は卒塾論文で観光には、「あれがあるから行きたい」と思わせる施設(アトラクティブ)を創れ、と書きましたが、確かに世の中で「聖地」と呼ばれているものはアトラクティブに足ると思います。興味のある人は何度でもいきたい場所であり、興味のない人も死ぬまでに一度は行きたい場所、それが聖地です。
 今回、山田方谷先生を取り上げるにあたり、私は方谷先生の故郷である岡山県高梁市中井町西方にある先生の墓(方谷庵)を訪ね、その墓前にて「学ばせて頂きます」と参ってきました。この論文を書き上げるにあたり、また方谷先生のお墓参りに行かなければと思っているところです。それほど、今回の学びは得るものが多かったです。方谷先生には感謝しております。これからも方谷先生には学ばせて頂き、そして実行していきます。
 そして、このような機会を与えて頂いた小山事務局を始め岡山政経塾の関係各位、チーム21の取りまとめである波夛さんにも感謝申し上げます。大変ありがとうございました。








■参考文献
 
・入門山田方谷 山田方谷に学ぶ会著 明徳出版社
・山田方谷に学ぶ改革成功の鍵 野島透著 明徳出版社
・財政破綻を救う山田方谷「理財論」 深澤賢治著 小学館
・炎の陽明学 矢吹邦彦著 明徳出版社
・伝習録 近藤康信訳 明治書院
・大学・中庸 赤塚忠訳 明治書院
・論語 久米旺生訳 徳間書店