おかげ横丁視察レポート
春名 充明 (岡山政経塾 15期生)
1.はじめに
年間500万人が訪れるまちには、どのようなお店に、どのような商品が並んでいて、どのような人が来ているのか、見に行くため、視察に参加した。
参加日程:平成28年12月10日(土)
視察内容:おかげ横丁視察及び講演(有限会社伊勢福 橋川史宏社長)
2.「とにかく人が多い・・・」
おかげ横丁を訪れたのは、3回目だったが、どの時期に来ても、多くの人で賑わっている。500万人が訪れるまちは、歩く場所もないぐらい、混み合っていることがわかった。今回の視察の一番の収穫である。そして、もう1点、若者が多い。詳しくは後述するが、地元の湯郷温泉と比較すると一目瞭然である。これだけ若者が訪れるまちは、全国的にも少ないように感じた。
3.「現代の御師(おんし)、伊勢福」
御師とは、特定の寺社に属し、参拝や宿泊の案内役を務める職で、おかげ横丁に隣接する伊勢神宮では、平安時代から登場し、全国に伊勢神宮の信仰を広めたと言われている。御師の登場の背景には、伊勢神宮の経済的問題があると言われており、まさに、存続の危機を脱するために活躍したと考えられる。
平安時代までは、伊勢神宮の参拝は貴族とその付き人に限られていたと言われているが、御師の登場により、鎌倉時代には、武士の間で伊勢信仰が盛んになり、室町時代以降、農民等の民衆に広まった。江戸時代には、「お陰参り」と呼ばれる全国的な参拝ブームが5回発生している。このときには、1年間に数百万人が伊勢神宮を訪れたとされている。この頃から、伊勢神宮の門前町として、御師が活動するまちを「おはらい町」と呼ぶようになったと言われている。
参拝者の増加傾向は、明治時代以降も続いたが、第二次大戦後、自動車の普及とともに、駅に近い外宮に立ち寄ることなく、自動車で直接内宮へ参拝する者が増えた。その結果、外宮と内宮の参拝者に差が出始め、さらに、1970年代以降は参拝者が減少傾向となった。当時、おはらい町は、年間20万人程度の集客に留まっていた。
この状況に危機感を感じ、まちづくりを始めたのが、(株)赤福であり、結果として、20年間で観光客が20倍以上に増加した。完成したまちは、「おかげ横丁」と呼ばれ、運営は(有)伊勢福が行っている。まさに、現代の御師の役割を担っている。
4.「なぜ、若者がおかげ横丁を訪れるのか」

おかげ横丁と湯郷温泉の観光客を比較した。
もっとも違いがあったのは、年齢層だった。おかげ横丁は30代までが5割にのぼる、対して湯郷温泉は、2割弱・・・。定年後の60代以上が湯郷温泉の場合、約6割。これは、非常に大きな差であると感じた。若いうちからおかげ横丁を訪れると、年齢を重ねるたびに訪れる機会があり、何度も訪れることになる。そのデータとして、おかげ横丁を8回以上訪れている割合が3割もある。湯郷温泉も負けていない。2回以上訪れている観光客が6割もある。しかし、ほとんどが1泊のみである。
若者が訪れること、行きたいと思ってくれることが観光業として、最重要ではないかと思った。
5.「おかげ横丁にあるものとは」
「おかげ横丁は空間的な定義ではない、ブランド名である。」講演の中で橋川社長がおっしゃっていた言葉。
たしかに、地図を見ると、おかげ横丁は飛び地になっている。では、おはらい町と何が違うのか。一つ感じたことは、「こだわり」である。たくわんや干物、塩辛などの食品にこだわりがある。昔からこの地で良いものとされていたものを再現している。建物もそうである。職人の技術を十分に発揮している。伝統的なものを売りにすると、深みが出る。それは、人々を魅了するのではないか。当然、そのようなものは、おかげ横丁にしか、ない。講演の後、おはらい町とおかげ横丁を比べるように歩いた。売っているものが違う。建物が違う。
まちづくりをする際に、役割・方針・こだわりを明確にし、個性を発揮すること、それを従業員等の関係者に浸透させることが重要であると感じた。
6.「干物を食べながら感じたこと」
視察後、買ってきた干物の「さめのたれ」を食べながら、今回の視察を振り返ってみた。
(1)やり遂げる信念を持ったリーダーが、このまちを創った。だから成功したのだろう。
(2)おかげ横丁では、観光客の数え方にも正確性があった。これは全国的に統一されていないので、より正確な数え方に揃えるべきだと思う。個人的には、GPSを使用した携帯端末の位置情報から分析するが良いのではないかと考える。
(3)この干物、めちゃくちゃおいしいな。また、買いに行こう。
参考文献:新田功:観光の原点としての伊勢参宮についての経済的・統計的考察,新情報Vol.102,pp32-41,新情報センター,2014.