2016年 直島特別例会レポート(直島・豊島)

「Benesse(よく生きる)」の実現

紺谷百世 (岡山政経塾 14期生)

1.はじめに
 私は感動した。ちょうど1年前、岡山政経塾幹事であり、ベネッセアートサイト直島の代表である福武總一郎氏の講演に感動した。具体的には以下の内容である。
・福武幹事は経済至上主義により直島や豊島等自然が破壊されたことに憤りを感じていた。過度な近代化と都市集中化への“レジスタンス”の意味も込め、「経済は文化の僕」という考え方の下、アートサイト直島を開発した。
・現代文明は「在るものを壊して無いものを創っている」。
アートサイト直島は「在るものを活かして無いものを創る」。
・幸せになるには「幸せなコミュニティに住むこと」。幸せなコミュニティとは「人生の達人であるお年寄りの笑顔があふれているところ」。
・都市の若者と島のお年寄りをアート・建築が媒介することで、お年寄りを笑顔にする。
 1年後の今回の合宿では、公益財団法人福武財団のアートマネージメント部門長である笠原良二氏から講演を頂いた。福武幹事の考え方がどれだけ現場まで浸透しているのかということに関心を持ちお話を伺った。

2.公益財団法人福武財団 笠原良二アートマネージメント部門長の講演
①直島町と㈱福武書店(当時)の出会い
 直島町開発の構想は三宅親連元町長が掲げたものである。三宅元町長は、1959年直島町長選挙に50歳で初当選を果たし、9期連続36年の間町長の職に就き1995年に引退した。三宅元町長は直島町のまちづくりについて北部:三菱マテリアル直島製錬所を中心とした産業エリア、中央部:生活・教育エリア、南部:瀬戸内海国立公園を生かした文化・リゾートエリアという基本構想を掲げた。
 「直島南部一帯を総合的に、清潔・健康・快適な 観光地として開発したい」という三宅元町長の思いから、1960年に藤田観光㈱を誘致し1966年にはキャンプ場をオープンさせたが、10年後の1976年には同社は撤退した。
 藤田観光㈱の撤退から約10年後、三宅元町長は㈱福武書店創業社長であった福武哲彦氏が出会った。「瀬戸内海の無人島に、世界中のこどもが集い楽しめキャンプ場をつくりたい」という思いを持つ福武創業社長と三宅元町長の思いが重なり、㈱福武書店が直島町のパートナーとして直島町南部の開発を行うこととなった。
 その後福武哲彦氏は急逝し、跡を継いだ福武總一郎氏が1987年に一体の土地を購入し、㈱福武書店による直島町の開発が始まった。1988年8月人と文化を育てる場を作る「直島文化村構想」を発表し、リゾート開発とは一線を画した。

②ベネッセアートサイト直島の意義・活動
 ベネッセグループの社名であり企業理念でもある「Benesse(ベネッセ)」とはイタリア語の「Bene(よく)」と「esse (生きる)」を合体させてできた造語で、「よく生きる」という意味である。
 ひとりひとりの「よく生きる」を実現するには「幸せなコミュニティに住む」ことであると考える。「幸せなコミュニティ」を「人生の達人であるお年寄りの 笑顔が溢れているところ」と定義し、アートサイト直島では、都市の若者と地方のお年寄りをアート・建築が媒介することで、島のお年寄りの笑顔を実現している。
 ベネッセアートサイト直島は、「Benesse(よく生きる)」が実現している場所であり、「Benesse(よく生きる)」を考え、体験する場所となることを目指している。そのような場所を創るため、ベネッセアートサイト直島は「自然」、「アート・建築」、「人」、「歴史・文化・暮らし」をコンテンツとしている。アートに現代美術を選んだのは、同時代を生きるアーティストのメッセージや問題意識が反映されているからである。
アートは「サイトスペシフィックワーク」(=場(site)固有の(specific)作品(work))という手法が取られており、アートにとっても場所にとっても特別なものとなっている。例えば、草間弥生の「南瓜」は直島以外の場所にもある作品だが、直島の海辺に置かれることで作品にとっても置かれている場所にとっても特別なものとなっている。
また、家プロジェクト(直島の本村地区に残る古い民家を修復・保存・復元させながら、現代美術の空間として再生させるプロジェクト)に代表されるように、「あるものを壊し新しいものを創る」のではなく、「あるものを活かし、新しいものを創る」という考え方でアート作品が創られている。

③町民の理解
 当初はアートに対する町民の関心は低かった。町民の理解と関心が高まるきっかけとなったのは、家プロジェクト第一弾である「角屋」の成功であった。アーティストの宮島達男氏は「角屋」を創る際に町民を公募し、作品を構成するデジタルカウンターの点滅速度を一人一人にセッティングしてもらった。多くの人に参加してもらうことと、質の高いアートを創るということを両立させるのは難しいことであるが、宮島氏はそれを成し遂げ、町民にアートへの理解を深めることに成功した。
 開発を手掛けるベネッセ側と町民の日頃のコミュニケーションも、町民の理解を高めるために重要であった。これまでアートサイト直島の開発に携わってきた笠原部門長は、開発を進めるにあたって自治会や直島町議会への説明を行ってきた。それだけでなく、町史を読んでわからないことは町の人に聞く等、町のことを知ろうと努め、町民との日頃のコミュニケーションを大切にしてきたという。そうすることで、町民の理解を得ながら円滑に開発を進めてきたのだ。

3.まちづくりの要諦についての考察
 アートサイト直島の開発についての学びを通して、まちづくりを行うに当たって大切なことを学ぶことが出来たと考えている。
 一つ目は、理念の共有である。冒頭でも述べた通り、福武幹事の考え方がどれほど現場まで浸透しているのかということに関心を持ち、笠原部門長のお話を伺った。いくら素晴らしい理念があっても、現場で何一つ理解されていないのでは、その理念は絵に描いた餅になってしまうと思ったからだ。しかし、お話を伺って、福武幹事の考えが笠原部門長にも浸透しており、トップから現場まで同じ方向を向いて開発が進められていることがわかった。
 二つ目は、住民とのコミュニケーションである。これまでアートサイト直島の開発に携わってきた笠原部門長は、町のことを知ろうと努め、町民との日頃のコミュニケーションを大切にしてきた。そうすることで、町民と良好な関係を築くことができ、開発を進めるにあたって町民の理解を得やすくすることができたのだ。
 三つ目は、住民の思いである。ベネッセアートサイト直島の開発を手掛けたのは㈱ベネッセホールディングスと福武財団である。ヒト・モノ・カネが揃っているベネッセグループが手掛けたのだから、これだけの成功を果たしているのだろうと私は思っていた。しかし、直島町の開発は三宅元町長の思いが出発点となっている。三宅元町長の思いがなければ、三宅元町長が福武創業社長をパートナーにしていなければ、今の直島町はなかったと言っても過言ではない。まちを変えるには、まず住民の思いがなければ始まらないのだと感じた。

4.終わりに
直島町は人口約3,000人の町であるが、芸術祭のあった2010年の観光入込客数は約63万人を突破し、通常年でも40万人を超えている。なんと人口の200倍もの人が訪れていることになる。小さな島にこれだけの人が訪れるのは「自然」、「アート・建築」、「人」、「歴史・文化・暮らし」これらが融合し、「ここにしかないもの」が創られ、「Benesse(よく生きる)」を体験することができるからだろう。
 最後になりましたが、このような多くの学びや気付きの機会を与えて下さった関係者の皆様に心よりお礼申し上げます。