感性を磨く島~直島・豊島~
高田真也 (岡山政経塾 16期生)
○はじめに
アートとは何か。岡山政経塾に入塾して、例会テーマ「定義」で問われた一言。43年間生きてきた中で、考えたこともない「問い」だった。果たして、合宿の2日間で、この問いの答えを見つけ出すことはできるだろうか。フェリーに乗り込む私の胸は、期待いっぱい。海風は心地よく、長雨あけ、照り返す海辺の光はまぶしかった。
○地中美術館《ジェームス・タレル、ウォルター・デ・マリア、クロード・モネ》

ジェームス・タレル。「オープン・フィールド」階段を上がったその先に見えるブルーの空間。勧められ一歩踏み出すと、そこは何千メートルも続いているのではないかと錯覚するブルー。光の演出そのものがアートになっている。私自身、全く思いつくものでもなく、その発想に度肝をぬかれる思いだった。
ウォルター・デ・マリア。「タイム/タイムレス/ノー・タイム」金箔を施した謎の木柱。中央に鎮座する直径2.2メートルの黒い石の球体。天窓からの自然光はその球体自身が、あたかも笑っているかのように顔・形を演出する。その笑顔は
神が微笑んでいるかのようにも思えた。
クロード・モネ「睡蓮の池」。その空間に入った瞬間、大作は目に飛び込んできた。何とも言えない淡い描写。はっきりとわからない抽象性。美術館入口で見た淡い睡蓮が、脳裏で逢い交じる。白い自然光の空間から5面にわたる作品が、私全体を包み込む。描きたい、描いてみたい。自分でも描けるのではないだろか。うぬぼれ甚だしい思いにかられ、あっという間に時が過ぎていった。
○自己超越欲求(コミュニティー発展欲求)
福武聰一郎塾長より講演頂いた。マズローの欲求には、さらにもう一段階上があるいうこと。コミュニティー発展の為には、本気さがあるかどうかだけ。やるべきことを30年やりつづけろ。そうすれば変わるとのことであった。
高齢者施設で勤務している私にとって、施設の高齢者は未来の自分の姿。地域包括支援センターでコミュニティーの形成に関わってきた私にとって、高齢になってもみな笑顔で暮らしていけるコミュニティーは理想の形である。自己の実現のためでなく、コミュニティー発展のために活動する、そしてその幸せなコミュニティーに住むことが、人間の幸福であると解釈した。
また、建築・アート・自然の組み合わせから共生をはかること。これは都市からは決して生まれず、地方こそ、その国のアイデンティティーがあり、地方を大事にしない国はいつか必ず滅ぶというもの。都会は自己実現主義で、経済が目的化している。人々を豊かにするものはあくまで「文化」で、「経済」は手段に過ぎない。「文化」が目的。「経済は文化の僕」という塾長の考えはまさに、自分自身が求める未来の姿だった。
○家プロジェクト
「角屋」は200年近く使われた家を改修し、デジタルカウンターを使った新しい現代美術。アーティストだけの作品でなく、島民が参画することで「アートが地域を元気にする」モデルとなったと感じた。島民参画の原点がここなのだと思う。デジタルカウンターの移り変わりの速さに、島民の思いが込められている。
島民1人1人の顔が浮かんでくるようだった。
○豊島美術館
バス亭から降りて目にとびこんできた衝撃。何て綺麗なのだろう。青々とした棚田、その先に見える瀬戸内海。犬島、山の緑。うねるコンクリートの道路と建造物。すべてがパーフェクトのように思えた。ここに建設しようとした発想に感嘆の念を感じた。
美術館に入るまでの道程が、さらなる期待を増幅させる。とにかく曲線が美しい。この曲線を描いた人も人だが、それを忠実に再現した建築士にも敬意を感じる。水が湧き出す様をアートにしようとする発想。考えられない。一粒の滴が、流れとなり、湖となる様をアートにしようなどとだれが考えるだろうか。水のなす様が、人間の気持ちを表しているように感じた。人も心も、低い方、低い方へと自然に流れていく。それが集まれば大勢となり、事を成すように。
○おわりに
1999年当時、観光客は15,000名程度だった島が、今では727,000名もの
方が訪れる島となっている。しかもその7割は外国人観光客だ。そこに何があるのか。本物、もとめるべき本質がそこにあるのだと思う。日本と比べ、文化レベルの高い外国人たちは、その本質への感度が高いのではなかろうか。アートとは何か。現在の私はこう答える「幸福をもたらすエネルギー」。
次回、もう一度この島を訪れたとき、自分が成長していれば、また別の感覚を味わうことができるのだそうだ。成長している自分が絶対条件とのこと。感性を磨きたい。今度は、家族も一緒に。