2017年 直島特別例会レポート(直島・豊島)

若旅啓太 (岡山政経塾 16期生)

 直島、豊島には毎年世界中から40万人もの人々が訪れる。人口合わせてたった4,000人の自治体の平均所得は県下2位、額では岡山県倉敷市を超える。アートに先入観を持ちたくなかったので、下調べを行ったのは豊島産廃問題だけであった。ベネッセホールディングスと福武財団の献身的な投資があれば、史上最悪の産廃問題の現場として有名だった豊島もアートの島にできるのも当然だろうと思っていた。しかし現地を周っていくうちに、それは間違いだったと気付かされた。
 芸術の島の誕生は、優れた作品をかき集めることでは成し得なかったのである。1998年、ベネッセは築200年近い古民家をアートとして修復した。その一連の活動は後に『家プロジェクト』と呼ばれることになる。当初は地元住民のアートに関する関心は低かったのだが、角家のデジタルタイマーを町民が設定したことを皮切りに、町民参加型の地域開発が始まった。島全体の発想の転換である。奇跡の復活を遂げた直島豊島の2日間から、特に心に残ったものを紹介する。

・ 地中美術館
 『瀬戸内海の景観を壊さないように、美術館を地中に埋めた』この言葉に胸を打たれた。安藤忠雄設計の館内にクロード・モネ、ウォルター・デ・マリア、ジェームズ・タレルの作品が常設されている。モネとデ・マリアの作品は降り注ぐ自然光で鑑賞するスタイルで、時刻や四季の移り変わりと共に表情が変わっていく。空間の中で、光を物質として捉える作風が持ち味のジェームズ・タレル。彼の『オープン・フィールド』という作品が印象深かった。壁に向かって収束する階段の先に映し出されるブルーのスクリーン、最上段まで登りスクリーンを手で触れようとすると突然出入り可能な空間に変化する。スクリーンは壁面ではなく、空間への入り口だった。そんなこととは露も知らなかった私は思わず『わっ!』と声を上げてしまった。群青一色で彩られた空間の中で、確かに感じた浮遊感は忘れられないものとなった。



ジェームズ・タレル 『オープン・フィールド』 2000年

・ 福武塾長の講演
 2日間を通して一番心に残ったのは福武塾長の講演だった。行き過ぎた資本主義によって損なわれた、直島豊島の自然を再開発する意味を込めてアートサイト直島を開発した。過度な近代化と都市への1局集中へのレジスタンスであり、豊島産廃問題はそれを象徴していた。現代社会は『在るものを壊して無いものを創る』、アートサイト直島は『在るものを活かして無いものを作る』。現代社会を構成する一員として、その言葉の重みを痛感した。
 また『田舎を大切にしない国は絶対に滅びるんだ』と真剣な眼差しで福武塾長が仰ったこの言葉に救われた気持ちになった。食料の80%は田舎で作っているし、食料を自給できない国に未来は無いと言う。『このまま地方が強くならねば日本は危ない』という思いだけで都内から縁もゆかりもない岡山県和気町に移り住み、地方創生の現場で働いてきた私の選択は正しかったと背中を押していただいた気がしたからだ。現場で働いていると行政組織との軋轢や不条理に心が折れそうになることが多々あるのだが、それでもなお将来の日本国のあるべき姿へ一層邁進していく所存である。その気持ちをより強固にして頂いた福武塾長のお言葉は何よりも有り難かった。

・終わりに
国立西洋美術館やBunkamuraで学生時代に何枚も鑑賞したはずのモネの睡蓮も、地中美術館で見たそれとは全く異なるものだった。壮大なキャンバスに描かれた、睡蓮が水面に浮かぶ様からは力強くも柔らかく、かつ郷愁をも滲ませているように感じたのだ。どの睡蓮も同じ人物が晩年のたった6年間のうちに描き上げたもののはずなのに、その差異はどこから生まれるのだろうか。私は現地でこの感覚を言語化できずにいたのだが、しばらくしてその違いに気づくことができた。地中美術館の睡蓮は、直島の姿と調和していたのだ。整然と展示され美術館の中のみで完結する睡蓮ではなく、瀬戸内海の自然の一部として混ざり合い溶け合っていたのだ。
福武塾長も仰っていた通り、我々日本人は古来より自然と共存しその命を繋いできた。自然への敬意、畏怖など大切な感覚を現代人が忘れてしまったことに対して、モネの睡蓮は警鐘を鳴らしているように私は感じた。古来よりの日本人のあるべき姿が想起された結果、地中美術館の睡蓮からは『郷愁』にも似た感覚を覚えたのだ。『なぜモネの睡蓮でなくてはならないのか』と私は感じていたのだが、今ではその必然性に気づくことができた。(無論これは私個人の勝手な解釈なのだが)
二日間では直島豊島の3割ほどしか周ることができなかったので再び現地を訪れ、犬島を含めた3島の全てを見てみようと思う。