直島/豊島合宿・講義 レポート
林 豊 (岡山政経塾 18期生)
はじめに
「あるものを生かし、無いものを創る」 福武塾長の理念が直島には詰まっていた。【自然】【島の生活】【不便】のなかに、世界的な設計家、美術家の【世界】が融合し、世界でも有数となる 『アート(芸術)の島』が直島に創られていた。
また、豊島には、今の姿からは想像出来ない過去と想像を絶する闘いがあり、今もそれは続いている。今回、当事者からほんの一部であるが話を伺い、豊島の産廃問題を自分が如何に他人事に考えていたか、猛省させられるとともに、島民の苦悩に涙が出る程胸を締め付けられる想いであった。
1.福武塾長 講義
福武塾長は、東京が大嫌いだ。何故かというと、文化が無いからである。東京だけでなく、日本自体が『歴史』はあるが『文化』がないそうだ。塾長は今、この先200年300年残る『文化』を創られている。
- 1-1.直島と芸術の出会い
直島は、今や国内外から観光客が訪れる世界でも有名な『アートの島』に変貌している。しかしこの直島は、漁業の衰退、過疎、不便さによる人口減少、そして操業する精錬所の影響により、40年程前まではただのはげ山の島であった。
福武塾長は、『島』は豊か、そして個性と魅力が詰まっているとおっしゃる。この直島を元気にするために、島の自然の中に『芸術(アート)』を融合させることを決意された。
元々、直島を含む瀬戸内は、1939年日本で初めて国立公園に定められた自然豊かな地域であり、19世紀以来、ヨーロッパから来訪する海外の著名人もその風景に畏敬の念を表している(西田正憲 研究)。
「自然こそが人間にとって最高の教師である」(福武塾長) - 1-2.東京一極集中の弊害
塾長は東京嫌いだが、何故東京一極集中が文化勃興の弊害になるのか。箇条書きになるが
・消費社会(使い捨て社会)の氾濫、スクラップ&ビルド
・没個性(みんな一緒)
・没コミュニティ
東京はモノも情報も溢れていて、一見なんでも揃う、なんでも出来る刺激的な場所ではあるが、文化が育ち、残され受け継がれていくところではないのである。 - 1-3.自然・建築・アートの融合
今回、地中美術館を見学したが、これこそが『日本のアート』の真骨頂である。
福武塾長 講義資料による
瀬戸内の自然、設計家安藤先生のアーキテクト(建築)、作家(モネ,デ・マリア,ジェームズタレル)、それぞれが素晴らしいものばかりであるが(私は現代アートに疎いが、単純に良いものは良いと感じることはできる)、これら3つが融合する場所は海外を含めても稀有である。他にも、ベネッセハウスミュージアム、李禹煥美術館等も同じであり、それゆえ、直島を目指して世界中から人が集まるのだと確信した。 - 1-4.幸せなコミュニティ(直島メソッド)
マズローの欲求段階説では【生理的欲求】に始まり【安全】→【社会的】→【自我】そして【自己実現欲求】であるが、その次には【コミュニティ発展要求】(自分が属するコミュニティ全体の発展、幸福を望む欲求)が存在する。コミュニティが幸せになるためには?→人生の達人であるお年寄りの笑顔が溢れていること。直島メソッドでは、若者とお年寄りをアート・建築が「媒介」し、お年寄りが笑顔になる。
- 1-5.まとめ
直島町の人口は3,097人(2019年4月時点)、うち65歳以上が1,091人(35%余)、立派な高齢化市町村である。その直島への観光客は54.4万人(2018年 直島町観光協会)。瀬戸芸2019開催の今年は、100万人を超すとも言われている。
何故なのか。魅力が、いっぱい詰まっているのだ。
ベネッセは、直島の人々との活動を通し、幸せとは?本当の豊かさとは?と自問されて、福武塾長の社長時代、福武書店から「よく生きる」の意味である現社名に社名変更された。また、公益資本主義という考えの基に福武財団を設立され、直島を中心としたアート活動を行っている(公益財団法人であり利潤を追求する組織・団体ではない)。
直島はベネッセのものではないのは勿論であるが、直島の今があるのは、福武塾長の情熱、島への愛情、文化への敬意、反骨心(とりわけ東京への)の賜物だと思った。
「経済は文化の僕である」(福武塾長)
2.豊島産業廃棄物不法投棄問題 豊島を含む瀬戸内海は、1934(S9)年、国内初の国立公園に選定された。その豊島の西に位置する「水が浦」は、絵に描いたような白砂青松の場所で、まさに自然が生み出した素晴らしい景勝地だったそうだ。その水が浦や横引き海岸の砂は、珪素を多く含むため、戦前からガラスの原料として大阪に運び出されていたが、戦後機械化が進み、1975(S50)年までに砂と土を取りつくされた。その後、土砂を採取していた業者によって、全国から産業廃棄物を違法に持ち込まれ、1990(H2)年までに約94万t(2012年修正値)の有害産廃を廃棄された。
建設会社ではよく目にする産業廃棄物管理票(マニフェスト)は、産廃が適正に収集運搬・処理されているか管理する制度だが、今ではごくごく当たり前になっているこの制度は、この豊島産廃問題により法の整備がなされたとのことである。
今回、この問題について『てしまびと編集委員会』石井代表が短い時間の中で凝縮した講義をしてくださった。


(引用 委員会事務所パネル)


- 2-1.問題の起因
豊島産廃問題は、①「金儲け」のため悪意の満ちた業者(豊島観光)の存在②産廃に関する法の整備不良③監督官庁(許可者)である香川県の落ち度と保身、それらが重なって起こり得たのではないだろうか。
- ①業者の存在
豊島総合観光開発(豊島観光 代表 松浦某)は、水が浦から採取する土砂が枯渇した後、当該地に有害産廃処理場の建設を申請したが、住民の反対に合い裁判になった。そこで申請を「木くずや食品残渣等無害な産廃を利用したミミズの養殖」に変更申請をして許可を得た。しかし実際は、全国から有害物を含む産廃(摘発後の確認では、海外のドクロマークのドラム缶も存在していた)を有価で引き受け、野焼きしてこの地に廃棄する行為を進めた。更に住民の反対運動を受けると、シュレッダーダストから有価物である金属くずを回収する「金属くず商」の許可を得て、1990年摘発されるまで廃棄行為を続けた。
豊島観光の目的は「金儲け」であり、倫理観(近隣住民への配慮、環境への影響)や遵法意識は垣間見られない。 - ②法の整備不良
現在では、産業廃棄物を処分する際、排出業者-収集運搬/処分業者間で産廃委託契約を締結し、排出の際はマニフェストを交付し、排出業者が管理、または追跡調査が出来る状態にする必要がある。
しかし、この法律は豊島産廃問題以降に厚生省の指導により始まり、1997年廃棄物処理法の改正によって翌年施行が始まった。つまりそれまでは、産業廃棄物がきちんと管理された状態では決してなかったと言え、豊島は、行政による産廃法整備の踏み台とされたのである。 - ③香川県の落ち度、保身
初め、香川県は有害産業廃棄物処分場を計画する業者に対し、矛先をかわした『ミミズの養殖』で事業許可を出した。業者が不法処理を進めるなか、住民に対し業者が金属回収業を行っていると説明する傍ら、業者に「金属くず商」の許可申請をするように勧め許可を取得させた。この対応こそ、その後10年以上産廃の不法処理(投棄)が続く原因であることは否めない事実である。
しかも、1977年、住民説得に来た県知事が「豊島の心は灰色だ」と言い放った。首長としての良識を疑うところだが、何故、当時の知事が一方的に業者の肩を持ったのか、その真相は今回明らかにならなかった。
※後々の捜査で、県職員の一人は「松浦某が威圧的、高圧的で恐ろしかったので、言いなりにならざるを得なかった」と供述したとのことだが、別のある職員は「当時職員になったばかりで、松浦某に金を掴まされた」と石井代表に直接言った者もいたそうだ。
- 2-2.豊島住民の苦悩
豊島住民は、自慢のきれいな島が破壊されていくのをただ眺めていたわけではない。当初から産業廃棄物処理場の設置に反対していた。しかし、業者の陰謀、行政の不徳、法の抜け穴等で悉く被害者にされていく。訴えても訴えても、誰も助けてはくれない。豊島住民は、野焼きによって悪臭に悩まされ、喘息も一般の10倍の率で発症し死亡者も出る事態となった。
行政に何度訴えかけても蹴られ、そればかりか「産廃受け入れで儲けたのに被害者面している」と世間からも白い目でみられたそうだ。石井代表は、反対運動のなかには失敗もあったと言われていたが、島民の多大なる苦労と努力が無ければ、日本は今ごろ環境汚染大国のレッテルを貼られ続けていたと想像する。
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2-3.結末
業者(豊島観光)の摘発に最初に動いたのは、香川県でも香川県警でもなく兵庫県警だった。1990年11月、業者のゴミ船に強制捜査に入った。それにつられるかたちで、同年12月、県が業者のシュレッダーダストを『有価物』から『廃棄物』に解釈変更(それまでずっと有価物という解釈だったことが驚きを禁じ得ない)、年末に業者の許可を取り消した。1991年1月、経営者が兵庫県警に逮捕され、同年に産廃の不法投棄で有罪判決(懲役10ヵ月執行猶予5年罰金50万)が下り、豊島産廃問題は一旦停止の状態になった。しかし、それでも行政側は「あくまでも事業者が撤去を」(逮捕後、県知事記者会見)「県に法的責任はない」(1993年6月県知事と豊島住民との面談)とコメント、保身を突き通した。
その後、豊島住民は県の責任を認めさせ現状復旧(産廃撤去)を求める公害調停を起こした。「豊島だけの問題ではない」「ゆたかなふるさと わが手で守る」と闘い、県庁への抗議行動『立ちん坊』、東京への抗議キャラバン、全県での座談会。その労力と時間を仮に労務費に置き換えたら、3億数千万にもなるとのことだった。そのような大変な苦労を経て、2000年に調停成立、国の負担により撤去作業が始まった。産廃問題の発端から実に四半世紀、いわゆる先進国と呼ばれる国でこれだけ甚大な不法投棄が行われたのは後にも先にもこの豊島だけなのではないだろうか。
(3枚引用 委員会事務所パネル) 保存された剥ぎ取り断面 -
2-4.まとめ
現在、残された有害産廃は撤去されたものの、未だ汚染水の流出対策、浄化作業は続いている。そして何より、破壊された自然、住民の健康とこの問題に費やされた労力と時間は戻ってはこない。
一方で、豊島には、豊島美術館をはじめ多くのアート作品が点在し、直島に続く芸術(アート)の島として光を放っている。また、豊かな海、きれいな棚田、レモンやオリーブなどの農作物、まさしく『豊かな島』にふさわしい自然がいっぱいであった。豊島産廃は、香川のみならず日本の歴史上最大の環境問題であるが、住民の四半世紀もの闘いを勝利した『誇り』、そして島に対する『愛情』は、これからも引き継がれていくであろう。
豊島の風景
以上
