直島・豊島合宿レポート
岡本 昌士 (岡山政経塾 18期生)
1.直島・豊島合宿総括
現地に赴き,体で感じ,頭で考えるという岡山政経塾のテーマが凝縮された2日間でした。
現代アート,幸せなコミュニティ,豊島の産業廃棄物問題という3つの大きな題材が日常生活に戻った今でも頭の中で少しずつ有機的に結合をしながらぐるぐると回っており,これが現地に赴くことの衝撃の効果だと感じています。
本レポートは,そんな混乱している私の頭の中の整理整頓を目標とさせていただきたいと思います。
このような豊かな時間を与えてくださった皆様に,心から感謝いたします。

(してみんとてするなり)
2.3つの題材について得られた考え一つ一つの題材について,体験・講義をとおして得られた考えを述べたいと思います。特に,現代アートについては,どのような体験からそのような考えに至ったのかについても簡単に述べたいと思います。
- (1)現代アートについて
- ⅰ)得られた考えの内容
アートとは何か?私は,多数の現代アートに触れ,受け手側からアートを定義することを試みました。
アートの本質は,受け手の人生を豊かにすることになるところにあります。そして「人生が豊か」とは,硬くなった感性が解きほぐれ,寛容(排除しない状態)になり,多様なものを愛せる状態であることをいい,アートを観ることは,そのような愛のレッスンになるのだと思いました。 -
ⅱ)このような考えに至った具体的なアート体験
直島・豊島で最も楽しめたアートは,タレルの作品群でした。真っ暗闇の中でどこまで奥行きがあるのかわからない光の作品は,直接的な刺激があり,ただただ楽しいと感じられました。
逆に,最もつまらなかったアートは,デ・マリアの大きな黒い球体です。部屋を狭くして,マグリットの石の展示(「記念日」)のようにした方がマシなのではないかと感じました。先に球体を設置して,後から屋根を作ったという製作過程の話を聞いても,感情が揺さぶられることはありませんでした。
しかし,驚くことに,しばらく時間をおいたあと鮮明に記憶に残っているのは,デ・マリアの球体の方という矛盾する不可思議な現象が起きているのです。
素直に仮説を立てると,デ・マリアを受け入れたいと潜在的には思っていたにもかかわらず,「つまらなかった」と排除してしまったことのフラストレーションが,私の脳内で反復的な刺激に変換され,強固な記憶として定着させたのではないかと思われます。
これはかなり不快な状態で,わたしがそこから解放されるには3つの手段しかありません。すなわち,①デ・マリアを愛せるようデ・マリアの良さを見つける努力をするか,②デ・マリアをつまらないと感じた自分を愛する努力をするか,③時間をかけて忘れるまで耐えるかの3つです。
このような脳内の矛盾する状態というのは,対人関係などでも頻繁に発生するもので,年齢や経験を重ねるごとに,②を選択するようになります。なぜなら,それが最も省エネだからです。自分とさえ向き合えばよく,しかも短時間で不快な状態から解放されるからです。そして,日常生活においては,不快な状態では生きていけないし,対人関係では相手が変わることもあるからなどと,省エネな選択をすることの言い訳がしやすいのです。
しかし,日常生活と違って,対人関係と違って,対アートの場合,そのような言い訳をしづらい。そこに同じようにあり続けて,「見てくれ,こういうものを愛してくれ,なにかあるぞ」と言ってこちらにすべてをさらけ出しているわけですから,できる限りその「なにか」を見つけて愛したい,①を選択したいと思わせてくる。そして,もう一度,その作品に会いに足を運ぶことになってしまう。そういう力がアートには備わっているの(偉そうにいえば,備わっているべき)ではないかと感じました。
資本の集中競争に負けゆく日本は,今後,資本の集中に成功した他国から隷属を強いられる(マンガ「太陽の黙示録」のようにアメリカか中国の一部となる)ことが予想されるが,ではその中でどのような幸せを目指して生きていくべきかというテーマで講義を聞きました。
福武塾長のお考えとしては,小説「高瀬舟」のように足るを知って生き,文化を生み出すことを指向すべきであり,経験豊かな賢人であるお年寄りが笑顔でいられる直島のようなコミュニティこそが幸せなコミュニティであり,これを形成していくことが重要であるということのようでした。
-
ⅰ)幸せなコミュニティの形成について考えたこと
たしかに,物質的な豊かさよりも,お互いの顔と顔が見えるような距離感で共通するマナーや文化が存在して帰属意識が持てることの方が,人間の幸せのレベル向上に役立つと思います。ただ,それは最低限の物質的豊かさが備わらなければ形成しがたく,逆に,最低限の物質的豊かさを得られるのであれば,自然と醸成されるものだと信じています。人間は寂しく,自然と集まり,自己犠牲的な行動をしあえるような共同体を形成できるものだと信じています。そして,幸せなコミュニティとは,コミュニティの全員が,ある程度物質的に満たされたうえで,時間的な余裕があり,後世の人々を思いやることができるコミュニティだと考えました。 - ⅱ)知足について考えたこと
「衣食足りて礼節を知る」といいますが,私は,ここにいう衣食が時代とともに変容し,必要最低限の物質的豊かさのレベルが上昇していくことは仕方がないことだと思います。例えば,ミニマリストを称してスマホを持たない人々も,一度はスマホを手にしたうえで,持ってもたいして幸せにならないと実感したために,持てるのに持たないという選択をしたはずです。スマホを持ったことのない人に,スマホを持たずに満足しなさいと言うのはあまりにも酷です。つまり,知足は,少なくとも一度は物質的に満ち足りた人間でなければ指向しがたいと思っています。 -
ⅲ)文化について考えたこと
文化について,アプリオリに崇高な文化性を帯びて発生したわけではなく,一定の様式が,長い年月繰り返され,後世の人たちが数少ない文献を調べて,正当性や価値を与えて固定化した結果,文化になっていくものだと思います。例えば,岡山政経塾のお辞儀の仕方は神道式でなければならないとされていますが,これも長い年月の間に変容を繰り返し,このお辞儀でなければ間違いだ,この形が美しいのだというレッテルを貼った結果,正しい日本のお辞儀文化としてかろうじて成立したものだと思います。
そして,現在の様々な様式を文化へ昇華させるためには,これまでとは全く異なる手法が必要だと考えています。
なぜなら,PCやインターネットの普及により,文献の数が多すぎ,しかもデータで残り続けるため,正当化・価値づけという作業がしづらいからです。
しかし,困難だからといって,文化形成を放棄してもよいと考えているわけではなく,どんどんと多様化していく世界の中で,私たちはこうだと言えるような核を作っておいてあげることは,後世の日本人が世界でどのように扱われるか,認めてもらえるかというところへ影響してくると思われるので重要だと考えました。
- ⅰ)得られた考えの内容
-
(3)豊島の産廃問題について
社会問題について考えるときに,当事者に会わずに考えるのと,当事者から話を聞いて考えることの大きな違いを実感しました。受ける熱量が,真剣度がその違いの理由だと思います。
産業廃棄物の問題の難しさは,現在の生命や身体が侵害されたわけでも,現在の個人の財産が侵害されたわけでもないという点にあると思います。切迫性が伝わらないため,外部の者から関心・理解がなかなか得られない。「大した害はないから,税金を投じる優先順位は高くない。膨大な税金を投入して原状回復を目指す必要は無く,近隣住民の引っ越し費用をまかなう程度で良いのではないか」というのが,当時の外部の人間の正直な感想だったのではないかと思います。もし,国や県の予算に余裕がなければ,原状回復予算は組まれなかったのではないかと想像しています。
環境破壊や汚染が,将来の生命や身体に対して,甚大な影響(ケースによっては,人類の絶滅を招くような影響)を与えることは,科学の進歩により徐々に明らかになってきていますが,未解明な部分だらけだと思われます。
そのような未解明の損害の回復に,どれだけの税金を投じるべきなのかという問題と,話が少し飛躍するかもしれませんが,芸術という人間にとって必要なのかどうかよくわからないものをどれだけ重要視するべきなのかという問題は,意外と近い問題なのではないかと考えました。 多様な価値を保護していくことが,今はわからないけれども,未来の人々のためになる可能性が高いのではないかと考えました。(豊島産業廃棄物問題の現場視察)
直島合宿を経て,今,「理屈によって切り捨てない余裕のある社会」こそが幸せな社会ではないかと考えるに至っています。わからないからと切り捨てず,必要ないからと切り捨てず,優先順位が低いからと切り捨てずに,そこに何かの価値があるのではないかと模索する余裕のある社会こそ,美しい社会なのではないかと思索している次第です。

(島時間を感じられる豊島の美しい風景)