2015年 直島特別例会レポート(直島・豊島)

『在るものを活かし無いものを創る~自然と融合したアートの楽園~ 』

紺谷百世 (岡山政経塾 14期生)

●直島・豊島の負の歴史

 初夏の眩しい太陽を穏やかな瀬戸内の波が優しく反射し、キラキラと輝く海。時折吹く爽やかな風が頬をなでる。そんな直島・豊島の美しい自然が、かつて人間の営みにより破壊された歴史がある。

①直島
 1916年(大正5年)農漁業の不振で財政難に陥り、都市へ向けて人口が流出し始めた直島村は、三菱合資会社が打診した銅精錬所を受け入れる決断をした。翌1917年(大正6年)、島の北端で三菱合資会社の中央精錬所が操業を開始すると、直島は三菱金属鉱業の企業城下町として急速に発展し、働き口が確保されたことによる人口流出の歯止めや豊富な税収によって香川県内でも有数の裕福な自治体となった。一方で、精錬所の煙害により島の北半分の木々が殆ど枯れ、禿山となってしまった。

②豊島
 豊島はわが国最大級の有害産業廃棄物不法投棄事件が起こった「ゴミの島」である。
 1975年(昭和50年)豊島総合観光開発株式会社(以下、豊島観光)が有害産業廃棄物処理許可を香川県に申請。「木屑、食品汚泥等無害な産廃を利用してミミズの養殖をする」と矛先をかわした業者に、香川県が1978年(昭和53年)に処分業を許可した。しかし、豊島観光は操業からまもなく、有害廃棄物を違法・大量に島外から持ち込み、野焼きを行った。住民はその公害に苦しむことになった。
 1990年(平成2年)兵庫県警が豊島観光を摘発、これによりようやく有害廃棄物の持ち込みは止まったが、残された廃棄物撤去の責任をめぐり、豊島住民が1993年(平成5年)に香川県らを相手取り公害調停を申請、2000年(平成12年)公害調停で知事が謝罪をし、原状回復の合意が成立した。以降、直島でゴミの溶融処理が行われ、現在も原状回復に向け処理が進められている。

●2.直島・豊島のアート

 直島・豊島は近代化の負の遺産を持っているが、現在は自然と現代アートが融合した魅力的な島である。美しい自然に魅了されながら、私たちは直島の地中美術館、家プロジェクト、ベネッセハウスミュージアム、豊島の豊島美術館、豊島横尾館を見学した。
 美しい景観を損なわないよう建物の大半が地下に埋設された「地中美術館」、住民の住宅が並ぶ生活圏の中で空き家となった古民家などを改修して作品化している「家プロジェクト」、丸みを帯びた柱のない建物で天井にある二か所の開口部から外の風、音、光を直接取り込み様々な表情を見せる「豊島美術館」、これらに共通するのは自然と融合し、自然や現存するものを活かしている点である。
 また、直島の「ベネッセハウスミュージアム」や豊島の「豊島横尾館」ではメッセージ性の強い作品が多く、アーティストのメッセージを感じることができた。
 どのアートもとてもわくわくして心が躍ったり、清々しい気持ちになったり、胸が熱くなったり、様々な感情が湧きあがった。美しい自然とアートには惹きこまれるものがあり、またこの場所に来たいと感じさせるものだった。そしてまたこの場所に来た時には、自然もアートも違った表情やメッセージを与えてくれることだろう。

●3.福武總一郎幹事の講演

 直島は精錬所の煙害で禿山になった場所、豊島は産業廃棄物の不法投棄により「ゴミの島」となった場所で、どちらも経済発展や人間のエゴによって負の遺産を背負わされてきた場所である。これらの島々をアートの島へと変貌させた中心人物が福武總一郎幹事である。福武幹事の講演のなかで、ベネッセアートサイト直島の開発経緯や考え方についてのお話があった。
 福武幹事は経済至上主義により直島や豊島等の自然が破壊されたことに憤りを感じ、過度な近代化と都市集中化への“レジスタンス”の意味も込めて、「経済は文化の僕」という考え方の下、アートサイト直島を開発した。現代文明は「在るものを壊して無いものを創っている」が、それを否定し「在るものを活かしてないものを創る」というテーマでアートサイト直島は開発された。その結果、自然と現代アートが融合した島々が誕生し、それ以降、直島町の観光客等入込数は年々増加し、過疎の島が活性化された。
 福武幹事は「幸せになるには幸せなコミュニティに住むこと」といい、幸せなコミュニティについて「人生の達人であるお年寄りの笑顔があふれているところ」と定義する。直島では、島のお年寄りが都市から観光に来た若者を案内するなどして交流することでお年寄りが元気になっており、福武幹事の考える「幸せ」が実現されている。
 負の遺産を抱えた島を現代の楽園に変身させるという福武幹事の発想の豊かさ、そしてそれを実現してしまう思いの強さと実現するパワーに圧倒された。

●4.豊島産廃現場視察

 豊島において有害産業廃棄物不法投棄事件が起きたことは既述のとおりであるが、私たちはその現場と資料館を視察した。
 2000年に調停が成立し、2003年から直島町で溶融処理が行われているが、10年以上経った現在も大量のゴミが未だに山積している。ゴミは自動車のシュレッダーダストが中心と言われているが、得体のしれないものであり、有害物質も含まれている。その処理には700億円もの費用がかかるといわれており、それは税金で賄われている。ところが、この事件の被告の受けた判決は「罰金50万円、懲役10ヶ月執行猶予5年」、これを許可した香川県は知事が謝罪したのみ。
 私は、個人の利益最優先で島の環境を破壊し、住民を苦悩させ、多額の税金を投じさせることとなった豊島観光、またそれを許可した当時の香川県に憤り、許せないと思った。
 1993年に香川県を相手に公害調停の申請を行ってからは、豊島住民の様々の形での血のにじむような住民運動が展開され、その結果ついに2000年に公害調停の成立に至った。
 当日案内頂いた石井氏より、住民運動がなぜ成立したかという理由についてのお話があった。それはコミュニティが機能していることであるという。現代社会では都会を中心に地域コミュニティの中での人と人との繋がりが希薄になっているが、豊島にはまだそれが残っていた。島であるがゆえ、「困ったときに助け合う」という昔ながらの人と人との繋がりが残っており、それが住民運動の成立に導いたのではないかということだった。

●5.合宿を通しての気づき

 一つめは、アートの持つ力である。合宿前までは私にとってアートとは「心を豊かにするもの」「現実逃避をするための娯楽」であった。しかし、この合宿を通してアートとは「都会の若者と地方のお年寄りをつなぐ架け橋」であり、メッセージを伝える手段でもあるという気づきがあった。人によって、また時によってアートとは何かという捉え方は異なるということも、大きな気づきであった。
 二つめは、「コミュニティ」の大切さである。福武幹事は「幸せになるには幸せなコミュニティに住むこと」であり、幸せなコミュニティは「人生の達人であるお年寄りの笑顔があふれているところ」と定義する。また、豊島の石井氏によると、住民が一丸となり事件を調停の成立に導くまで結束が出来たのはコミュニティの中の人と人との繋がりであったという。コミュニティの希薄化が叫ばれて久しいが、その大切さを改めて実感した。
 三つめは、自分がいかに無知であるかということである。わが国最大級の有害産業廃棄物不法投棄事件である豊島事件についてもこの合宿で初めて知った。また豊島だけでなく普段自分たちが出しているゴミは非常に多く、先進国の4分の1のゴミは日本が出しているという事実についても今回石井氏の講演を通して初めて知り、大変ショックを受けた。身の回りの問題について関心を持ち、解決に向けて自分のできることを少しずつでも実現したいと思った。
 その他にも、金融資本主義の是非、発想の転換をすることなど今回の合宿ではたくさんの気づきがあり、たくさんの考えるきっかけを与えられた。

●6.終わりに

 最後になりましたが、今回の合宿でご講演頂いた福武幹事、福原氏、石井氏、準備から運営までご尽力頂いた小山事務局長、西美氏はじめ関係者の皆様にお礼申し上げます。