2015年 直島特別例会レポート(直島・豊島)

『アートは人の心とともに』

下花 剛一 (岡山政経塾 12、13期生)

●はじめに

 三度目の直島。

●地中美術館

 美術館へと続く深緑の小道、静かな色を奏でる蓮の花。存在することを沈黙が教えてくれていて、気付いても決して話しかけてはくれない。
 コンクリートが昨年と変わらない姿をあらわにしながら出迎えてくれ、せまりくる暑さから逃れるように中へと吸い込まれていく。
 最初から決めていたモネの部屋、今日はここで時間を過ごしたい。見るたびに違う感動があり、心地よい期待をいだかせる睡蓮たち。しかし、今回は美しさの中に、深くうずくまる何もない何かを見た。そこには、光もなければ闇もない。恐怖や寂しさ、喜びや安らぎなどの感情もない。本当に何もない。この睡蓮はモネの最晩年の作品。そこには人の終わりにつながる何もない何かがあるように感じた。
 ウォルター・デ・マリアの大きな球体のある部屋。私はここに入るのはあまり好きではない。作品は素晴らしいと感じるが、この部屋の中に入ると一切の感情を削がれてしまう。金箔の木彫りが見張り役で、大きな球体がまるで重い足かせのよう。その静かな空間は時の流れを止め、そこから永遠に逃れられないことを教えてくれている。
 タレルの光の空間は心を静めてくれて、違う世界へと導いてくれるかのようだ。その奥にあるオープンスカイ、ここが一番落ち着く。見上げると空がある、それは救いだ。

●家プロジェクト

 もう、町並みすべてがアートに感じる。自然も人も、人の生活も、表現ひとつで次々とアートへ生まれ変わる。そこに感じる人の意識が加わることで、アートはさらに広がりを持つ。
 町の人は本当に優しく、安らかで笑顔にあふれ、そういった人たちが生活している空間だからこそ、心に届く感動につながるのだと感じた。

●ベネッセハウスミュージアム

 三体の動きながら何かをしゃべる人形たち「3人のおしゃべりする人」。昨年は、右端の一体が故障していたのか、前かがみのまま止まっていて具合が悪そうであるにもかかわらず懸命に他の二体に話しかけていた。その姿が自分と重なり、なんのためにそんなに無理をしているのかと、その場から動けなくなった。今年は、三体とも普通に動いており、ただ表面的にしゃべっているだけの3人に見えて、昨年ほどは心を奪われなかった。
 作品の名前は分からなかったが、赤い背景に白い袋のようなものがある絵画があった。見た目には何なのか見当がつかなかったが、妙な安心感を覚えた。優しく包み込んでくれる何かを感じ、それは私の忙しい時間を止めた。
 ベネッセハウスミュージアムから宿泊地へは、黄色いカボチャのある海岸を歩いて向かった。人が作り出したアートには感動があるが、山や海といった自然は人の心を穏やかにし、本来あるべき姿へと戻してくれると感じた。

●福武幹事の講義

 直島は何を意味しているのか。何のためにアートの島にしたのか、お話の中で知ることができた。
 印象に残ったのは、直島が東京に対するレジスタンスだというところだ。東京には人間というキーワードがない。東京には刺激、興奮、緊張、競争しかなく、何が大事か分からなくなる、本質が見えなくなる、ぶれてしまう、というお話だ。東京に拠点を移した私にとって、とても痛く心に刺さる言葉だった。
 何が正しいかは誰も教えてくれない。そもそも正しいものなど存在しない。ぶれない信念を持つためにも、自分をしっかりと持てる環境がなければ確かに危ういと感じた。

●おわりに

 今回の直島では、アートを通して自分の姿を見ることができた。アートは決して嘘をつかないし、アートは本当の心でしか感じることができない。
 刺激の多いこんにちの競争社会において、うまく生き抜くためには自分に嘘をつくことも一つの手段だ。しかし自分に嘘をついている限り、感じることも、本質を見ることもできなくなる。アートに触れることで感性を取り戻し、自然に囲まれた環境に身を置くことで本当の自分が姿を現すのではないか。
 人は、多くの人とのつながりの中で生きている。それをつなげているものは何か。人にとって本当に大事なものは何か。それがこの直島にある。