2015年 直島特別例会レポート(直島・豊島)

『大切なあの人とまた訪れたい現代アート』

岡崎聖也 (岡山政経塾 14期生)

●「お出迎え」

  日常とはまったく違う、異空間でありながらもそれでいてどこか懐かしい匂いの直島。ギラギラと照る太陽の下、坂道をゆっくり上っていくと、涼しげな水連が出迎えてくれます。自然を壊さない事を前提に地下に造られた地中美術館は、いつも私に「おかえりなさい」と微笑んでくれている様です。
 前例を踏襲するだけならその人の価値はないと、小山事務局長に教わりましたが、ここに来るといつも身体全体でそう気付くことができます。
 「そこで止まってください。」そこには一切の影がなく、まるで吸い込まれてしまうのではないかと思える様な「光」の世界。ジェームス・タレルが造り出した現代アート、そこには確かにタレルの存在価値や存在意義が凝縮している様に思えます。
 我々の人生という存在価値はどこにあるのでしょうか。どんな存在意義があるのでしょうか。これこそが、真に向き合うべきであり、また人生の宿題なのではないかと考えさせられました。タレルにタレル自身の存在価値や存在意義の定義を是非、聴いてみたいです。

●「紡ぐ想い」

  古き良き町並みを歩いていると、優しい笑顔で元気よく島の方たちが挨拶をしてくださいます。昨今、テレビやインターネットの普及で、人と人とのコミュニケーションが失われつつあります。直島には現代アートを楽しむだけでなく、こういった私たち人間の取り戻すべき姿を肌で感じることができます。
 空き家を改修し空間そのものを作品化している家プロジェクト、中には400年を超えるものもあります。水の中でランダムな速度で表示されるデジタルカウンター。ひとつひとつの速度は島の方々が想いを馳せているそうです。 「大丈夫、私がいなくなってもあのデジタルカウンターは動き続けるから。」最期にそう言われた方の話を聴きました。人の死は二度訪れると聞いたことがあります。一度目は肉体が滅びた時、二度目は魂の死。つまり、誰もその人のことを覚えている人がいなくなったときです。そんなことを考えながら自分と向き合える、それが現代アートの一つの顔なのではないでしょうか。

●「在るものを活かし、無いものを造る」

  建築・アート・自然が一体化してこその直島ということで、ベネッセハウスミュージアムには陽が差し込み、更に自然の中で作品を目で見て・肌で感じることが出来ます。作品の風化を防ぐために、多くの美術館は作品に陽が当たらない様に設計されています。けれどもここのアートは、まるで日光浴を楽しんでいるかの様な錯覚にさえ陥ってしまいます。
 リチャード・ロングがエイヴォン川の泥を直接手で塗り、しかも15分程で完成させたアートは正に、少しの言葉で多くを語る。言葉をもたない語り手の様にも思えますし、強さと力の象徴であると同時に、どこか繊細で優しさがある様にも思えます。

●「成功者」とは

 社会人になって早10年が経ちましたが、未だこの答えは分かりません。福武總一郎幹事自身が私の答えであり、暗闇を照らす灯台だと思えてならない講演を聴かせて頂きました。
 「在るものを壊し無いものを造る」のではなく、「在るものを活かし無いものを造る」という発想の転換。更に、それを身体で体感した後の講演だったこともあり、まるで、雷が脳と心にビカビカっと落ちてくる程の衝撃でした。また、本音と建前を、具現化された方に直接お逢いしたのは初めてなので、何とも言えない高揚感と焦燥感に襲われました。と、同時に私に出来ることは何かないのかと真に模索するきっかけを与えて下さったことに感謝しております。  

●「政治の責任」

  声なき声に耳を傾けず、弱者を守らないことが正義であり、政治なのかと憤怒と憤慨を感じた「豊島事件」。豊かな島で起きた、忘れてはならない過去であり、異物です。
 この事件は、不法投棄した者(業者)に、罰金50万円・懲役10カ月・執行猶予5年。
 700億円という途方もない税金で、現在も尚、産廃の処理が行われています。

●「繋ぐ」

 今回はギラギラと照りつける太陽の下での現代アートでしたが、雨やシンシンと降る雪の中での現代アートも、見る、そして身体全体で体感したいと思い、冬に再び来ることを密かに楽しみにしています。そして、考える力を身につけ、発想の転換をする為に、次回は是非、大切な人とまた訪れたいです。そうやって、まずは身近な大切な人へ想いを繋いでいきたいです。